病床で眺めた尾仲浩二

今日は一日調子が悪かった。朝から気分がめいってしまい、仕事中もぼーっとしてしまった。

 

以前にも話したけれど、昨年の年末から体調を崩してしまい時々調子が悪い。このままではいけないとは思うけれども、身体はどんどん悪い方へ傾いて行ってしまう。そのどんどん傾く身体を薬でコントロールしようとしているのだが、所詮薬は薬で、傾いたからだを薬のスペーサーをかまして修正しているので、元の身体の傾きは元には戻せない。薬が効いてきて、調子が良くなってきて、薬を少しずつ抜いて行くと、それまで薬で狂わされてきた身体のバランス感覚が目覚め、また元の傾きに戻ってしまう。

 

生きている以上この傾きは直せないのかもしれない。まあ、私はたいした病状も悪くない方なので、多くの方々よりはずっとましな身体なのだけれど、薬の量はだんだん増えていき、身体の傾きをもはや自分だけでは支えきれなくなってしまっている。

 

松山千春は歌の中で

「生きることがつらいとか、苦しいだとか言う前に、力の限り生きてやれ」

 

って言っているけど、私は道産子のくせに生きることがつらい。生きているのは楽しいこともあるし、死ぬのは怖いけれども、生きることがつらいことは何にも変りはしない。そんな自分を、薬でだましだまし弛緩させていっても、結局はなんの解決にもならない。

 

力の限り生きているのかどうか自信がないが、これでも自分をなんとか崩れないようにコントロールできている方だと思う。でも、このままだとひょっとすると来年までもたないかもしれないな。

 

一昨年の5月頃、洗面道具と、少しの着替えと、サンダルと、尾仲浩二の『Grasshopper』を鞄に入れて、妻に付き添われながら、と言うよりも妻に引きずられるようにして、東武線とJRとタクシーを乗り継いで埼玉の田園地帯を訪ねた。ある病院に入院する為である。

 

前の日に睡眠薬を処方され、頭がボーッとして、途中の景色なんてほとんどおぼえていない。ただ、雨のあぜ道をタクシーに揺られたことくらいの記憶はあるけれど。

 

なんで『Grasshopper』をそのとき選んだのかはわからないけれど、その時の頭では文字なんて読めそうもなかったし、退屈を癒す為に写真集がちょうどよく、それに、そのときは尾仲浩二の写真ぐらいしか身体が受け付けなかっただろう。

 

尾仲浩二の写真は、ただ風景を、誇張せずに見せてくれる。写真にありがちな、あざとい仕掛けはないから、何も考えずただ眺めればいい。あとはこっちのついていけるスピードで、尾仲浩二の視覚に身を任すことができる。そこに見たくない物はないし、強く視覚を引きつけるものもない。良いも、悪いも、ない。カラーなのも良かった。モノクロでは写真が写真過ぎて疲れてしまっていただろう。

 

車窓を眺めるように、移り往く景色を、

 

こういうスタンスで見ることのできる写真家を、私は尾仲浩二の他に知らなかった。今でもしらない。ひょっとしたら他にいないかもしれない。

 

もう一冊の『Dragonfly』もいつか近いうちに買ってみてみよう、