亡くなった方を話のタネにするのは私の望むことではないけれども、前にも書いたけれど、最近伯母が亡くなりました。そのせいもあって、人生はいつまで続くのかわからないということをしみじみ感じ、人生少しでも思い残すことないように毎日を思いっきり生きようと思っています。
その一方で、自分の体調があまり良くないこともあって、なかなか思うように思いっきり生きることができないでいる。薬のせいか病気のせいかわからないけれど、頭が思うように働いてくれない。3ヶ月ぐらい前、ちょっと考えたらできた仕事が、全然できなくなっている気がする。日によって、気分の浮き沈みも大きいし、自分の身体を以前のように上手く管理できない。いや、以前からコントロールはできなかったかもしれないけれど。
今日は、自分の気持ちを整理する為に、自分の撮ってきた写真を振り返りながら書きます。
今さっき、ブログを書く為にパソコンを立ち上げて、ブログに掲載する写真を選ぼうとiPhotoに入っている写真を見ていたとき、ふと、去年の年末の友人の結婚式の写真に目がとまりました。結婚式の二次会で、新婦だった友人が、赤い道行を着て、両手でピースサインをしながら写っている写真があって、おそらく私の妻が撮った写真だと思うけれど、とってもかわいらしく写っていて。やっぱり、どんなにたくさんの写真を撮ってても、カメラの操作に習熟していても、こういう写真には敵わないなと思いました。
彼女の笑顔が、こんなに幸せそうで、こんなにキュートだったということにあらためて気がついて、今まで自分は彼女の何を見てきたのかと、ふと、そう思いました。まあ、もちろん結婚式の二次会だからいつも以上におめかしして、いつも以上に幸せなんだろうけれど、そんな時でも、僕にはこんなにステキな笑顔の写真は撮れないなと感じました。
やっぱり、写真には人間関係が出てきちゃうな。私も決して彼女と仲が悪いとか、彼女を大切に思っていないわけではないけれど、自分の写真を見てみて、自分の写真には「愛」とか「謙虚さ」っつうもんがかけてるんじゃないかと反省しました。
それは、結婚式に来ていた他の友人の写真にも言えていることで、「おぉ、今日も可愛いな」とか、「彼女を写真に撮りたい」とかそういうスタンスで撮っていて、気持ちが一方的なんだもんな。もっと「ありのままを受け止める」とか「謙虚に写す」みたいな大きな心を持たなくては良い写真は撮れないと思いました。
べつに、良い写真撮る為に生きているわけではないけれど、妻の写真と自分の写真を見比べたとき、人間としての器の大きさの違いが出てしまっていると思いました。人間関係でも同じで、いくら一途に想っている女の子がいても、それだけじゃやっぱり駄目なんだな。「愛」と「謙虚さ」を持ってその人に接しないと。
と、ここまで書いて、じゃあ私が妻を撮った写真はどうか、と考えました。「愛」と「謙虚さ」を持って接しているでしょうか。このことについては、今後継続的に努力していきます。
けれども、それって結構難しいことで、あんなに愛に満ちあふれた写真が撮れるエルスケンだって、パリ時代の写真の視線はどこか一方的なんだよな。若い頃のエルスケンはドキュメンタリーのようなことを写真でやろうとしているところがあって、ちょっと「謙虚」じゃない。荒木経惟さんの「センチメンタルな旅」もわざと被写体を突き放して見ようとしているところがある。それが、写真作品として良いか悪いか(面白いか、面白くないか)の話は、また別なんだけれど。
日頃から、「謙虚でありたい」とか「人を深く愛せる人間になりたい」とは思っているけれど、なかなかそのようになれていない自分に気づき、もっと努力が必要だと思いました。
今日はわかりづらい話になってしまい、申し訳有りません。
コメントをお書きください