Cartier-Bressonが垣間見た新世界。それぞれに整頓された混沌

ブレッソンへのオマージュ
ブレッソンへのオマージュ

久しぶりに写真の話をしようと思う。

 

写真の話をするのは体力がいる。写真はよく見れば見えて来る程とらえどころがなくなってしまう。コンセプチュアルな、わかりやすい写真は未だ書きやすいが、そんな写真について何を語っても面白くもない。

写真のコンセプトが言葉にできてしまったら、それはそれで悲しいことだとは思うけれど、言葉にしづらい写真を取り扱うのもなかなか大変なのだ。

 

それに、今日の話題はスナップの巨匠アンリ・カルティエ-ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)。下手なこと書いたら、信者の方々に吊るし上げられてしまう。おそるおそる、且つ大胆に書けると良いのだが、

カルティエ-ブレッソン。この名前の響きから何を思うだろうか。

洗練されたスナップの数々。実在した伝説の中のライカ使い。フランスの木村伊兵衛(両方に失礼か)。「決定的瞬間」。

しかしそれらの言葉ではブレッソンの写真を語ったことにはならない。それらは、彼の一部の作品が持つ要素に過ぎなく、彼の撮影スタンスのほんの一面に過ぎない。

 

確かに彼は「作品」としてのスナップショットというもののあり方を造り上げた一人である。エーリッヒ・ザロモンが提示したキャンデットフォトのあり方を踏襲しながら、報道の世界だけでなく、日常に目を向け写真作品を作り上げていく、スナップショットという写真作品のジャンルを完成させたのは、彼の大きな功績だろう。

もちろん、スナップショットの世界を作り上げたのは、彼だけではなく、スティーグリッツ等の功績もあるのだが、ライカという小型カメラの利点を活用し、写真の新しい可能性を切り開いたブレッソンの功績は大きい。

 

それでは、実際に彼の写真を見てみよう。

私の手元に『America in Passing』という一冊の写真集がある。

 

この写真集を取りあげるのには理由がある。初期のヨーロッパで撮影されたスナップショットの数々は、とても良い写真ではあるのだが、技巧やフレーミングに目がいってしまい、なかなか落ち着いて写真を見ることができない。スナップショットの技法が未だ確立されている最中だった為もあるだろう。写真がすんなり目に入ってこない。

 

それに対して、この本に掲載されているアメリカで撮影された写真の数々は、完成された「ブレッソン流」の写真達である。写真のクオリティーがそろっていて見やすい。カルティエ-ブレッソンが作り上げた一つの写真流儀と、それぞれの写真を、ちょうど良いニュートラルな視点から見ることができる(ような気がする)。

 

それで、『America in Passing』である。

 

ゆっくりとページをめくりながら、これらの写真を見て感じるのは、その写真群の「古臭さ」と「普遍さ」である。

 

ブレッソンのスナップはキマり過ぎているところがある。フレーミングもシャッターのタイミングもきっちりキマっている。フレーミングに無駄がなく、その場が一番それっぽくなる瞬間をとらえている。その辺が、大時代的というか、モダニズム的というか、写真に遊びがない。その辺がこれらの写真の持つ「古臭さ」だ。だからといって無粋な写真になっていないのが不思議なのだが。

 

その一方で、今見ても良い写真であることに変わりがない。良い写真という言い方は漠然としすぎているな。今見ても面白い写真であるということだ。よく整頓されたシンプルな写真は、今日逆に新鮮だ。その上、ノスタルジックではないし。見方によっては、フランクやクラインのスナップの方が時代遅れに見えてしまう。それがブレッソンの写真の洗練というものであろう。

 

今でもブレッソンのフォロアーは沢山いて、それぞれが「ブレッソン流」の写真を発表している。それらの写真を見てブレッソンの時代へのノスタルジーを感じたりすることがある。それに対してこの写真集に掲載されたブレッソンの写真の多くに、ノスタルジーはない。ブレッソンのフォロアーは、そこにもっと着目しても良いのではないかと思う。「いつの時代でもあり得る、今このとき」をとり続けたのがブレッソンのスナップであることを、もっと考えてみても良いのではないだろうか。

 

ブレッソン流は写真が上手くないと真似できない。私もたまに意識してシャッターチャンスを狙って撮ったりすることがあるが、ブレッソンみたいに上手くキマらない。できないことを無理してやれる程人生は長くない。それで私は、無理してブレッソン流を目指すのはやめた。それ以来ブレッソン流の写真にあまり魅力を感じなくなってしまったのは残念なことなのだけれど、写真ってそういう風に捨てれるもの捨ててかないと始まらない。

 

それと、さっき木村伊兵衛を引き合いに出したけれど、木村伊兵衛とブレッソンはちょっとタイミングが違う。木村伊兵衛の決定的瞬間は、ふっとその場の均衡が崩れた瞬間の写真であると思う(全部が全部ではないけれど)。

 

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