今日、会社帰りに駅のホームで地下鉄を待っているとき、一枚のポスターに目がとまった。
東京のさくらの開花情報のような、お花見スポットを紹介するポスターだった。どこかは解らないが、桜が満開の公園の池の写真。ボートを漕ぐ人たち。その写真を見て、もう3月なんだということをしみじみ感じた。もうすぐ桜の季節だ。
桜を思うとき、私はすぐに国立の街を思い出す。
二十歳の頃の私の目に映った初めての東京は、桜が満開の国立だった。
駅から大学通の西側を歩いていると、文房具屋、本屋、中古レコード屋、洋菓子屋、フランス料理店、喫茶店、タバコ屋、雑貨屋、洋書屋色とりどりの店が建ち並んでいた。すっかり春の陽気に、新しく始まる生活への期待と不安で胸がいっぱいになって、友人と二人で歩いた。
雑貨屋に入って、新しい生活に必要なものを揃えたり、ファーストフード店に入り食事をして。そんな記憶が鮮明によみがえる。これから学生生活が始める私を国立は、暖かい日差しと桜でむかえてくれた。
それで、大学に入って、6年間の大学生活をそこで過ごしたのだけれど、以前も書いた通り、暗く陰鬱な時代だった。私にとっても、私の周りの世界も。
酒を飲むことをおぼえ、恋に敗れ、昼夜逆転し、落第し、大半の時間を寝て過ごし、無駄遣いし。最悪の時代だった。あの頃に比べたら、しがらみは多いが、今の方がずっとましだ。大人になって、自分の人生に過度な期待をしなくなったので生きていきやすくなった。
国立は、そんな時代を過ごした街だけれども、今でも好きだ。もう殆ど訪れることもないし、随分変ってしまっているだろうが、思い出の中の国立は変らない。午後大学が終わって、夕立が降り始めて、同じクラスの娘と大学通を駅まで向かう途中、傘を買ったこと。友達とドーナツ屋でコーヒーを何杯も飲んだこと。そんな記憶が国立を守っている。
それで、今日、国立の頃のネガを引っぱりだしてみてみたんだけれども、全然良い写真が無かった。写真の国立より、記憶の中の国立の方がずっと国立らしい。けれども、人はすぐ忘れてしまうから、写真は常に新鮮だ。見慣れた街の風景を写真で再び見る。そういうことがやっとできるようになった。それだけ国立を忘れはじめているんだろう。このままどんどん忘れて、写真の中の国立が記憶の中の国立を置換するようになれば、もう一つ、別の街を再構築できるだろう。
その為に、写真を撮り続けてきたし、自分の写真を見続けてきたのだ。
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妻 (金曜日, 11 3月 2011 18:13)
妻です。メールも電話も出来ないから、今日は、新宿に行けないよ(>_<)