イデオロギーを凌駕する視覚。土門拳とBruce Davidson

今日は、いや、今日も調子が上がらない一日だった。昨日は体調が悪くて会社を休んでしまったのだが、今日会社にいっても全然仕事が進まない。何から手をつけて良いかが解らない。とりあえず手を付けても、先に進まない。それで、結局一日何もできないまま終わってしまった。

 

とぼとぼと、家に帰ってくる途中、ふとブルースデビットソンの写真について思った。

 

最近今村昌平の『黒い雨』を見て、原爆のことを考えたとき、土門拳の写真を思い出した。土門拳の写真を語ることはとても難しい。

土門拳の写真を語るとき、よく土門拳自身の正義感とか、イデオロギーとかを持ち出して語る方がいるけれど、土門拳の写真は、土門拳のイデオロギーと一緒に語ると見誤ってしまう。

 

むしろ、土門の写真は彼や、彼に写真を依頼した人たちの陳腐なイデオロギーとか正義感を超越して、画像としてのインパクトがあることだと思う。写真が描写しているものを、素直に、よりよく見えるようにとらえているところが凄い。

 

確かにそれらの写真を組み合わせることによってどんなメッセージやプロパガンダも作れてしまう。それだけインパクトが強いし、ショッキングだ。写真だけで、もうそれがなんの写真なのかはどうでも良いような強さがある。土門拳の写真は何かを伝える前に、写真としての力強さがある。それが、撮影者の意図していたことを超越してしまっているのだ。

 

もちろん、すべての土門の写真に該当するわけではないけれども(全てが最高傑作ってわけでもないでしょうから)、けれども土門拳の原爆の写真と、仏像の写真が緻密に描写する被写体のテクスチャーはほぼ等価である。土門のスナップも、人物に対して真っ向から挑んでいて、被写体に気づかれまいとか、自然な表情を撮ろうとかそういう作為がない。

 

そういう写真家で、誰かもう一人いたよな、って考えてたら、それがBruce Davidsonだった。ブルックリンギャングや地下鉄のスナップから、ハーレムの住人まで、Davidsonは被写体に入り込んで真っ向から勝負を挑む。そして、そこからでき上がってくる写真は、作為をこえてインパクトを持ち、ハッキリと私たちに見せてくれる。写真にしかできないストーリーではないドキュメンタリーのあり方を知っているからこそ作り得る作品であると思う。

 

土門拳も筑豊の子供達のドキュメンタリーをやったりしてるときは本気でノンフィクションを提示しようとしていたのかもしれないけれども、仏像を撮るに至っては、写真で写真以外のものを提示することを放棄している。その辺りが潔い。

 

ブルース・デビットソンについては、後日改めて言及しようと思います。