フリードリッヒ・グルダのモーツァルトピアノ協奏曲20番

今日は疲れ果てた。

明日は朝から朝礼当番で、その後会議がある。

その会議の資料を作りながら、色々悩んでいて、それで、結局11時過ぎまでかかってしまった。それで、くたくたである。

 

こういう風にくたくたになったときには、そのまま布団に入って寝てしまえば良いのかもしれないけれど、それでは私が今日を生きた意味が殆ど無くなってしまう。それはイヤなので、とりあえずブログを書く。誰か読んで頂けるかもしれない。私と時間を共有してくれるかもしれない。そのような方々の心にふれる為に今日もブログを書いている。

 

それで、今日はクラシックの話題です。

高校の頃、クラシックが好きで、その頃からマーラーが好きなんだけれど、マーラーは騒がしいから疲れた一日を締めくくるには適していない。

 

今夜は疲れてしまった。クドい音楽とか、喧噪の音楽は聴きたくない。それで、じゃあ、こういうときにでも聴ける音楽と言えば、モーツアルトの室内楽とか、ピアノ曲。その中でも、特にヒーリング効果が高そうな、ピアノコンチェルト20番。3楽章は結構騒がしいけれど、何と言っても2楽章がすばらしい。モーツァルトの秀でた才能のひとつとして柔らかい音楽をかけることがあると思う。ベートーベンも、不器用ながらなかなかロマンチックな曲を書いたりするけれど、柔らかいたゆたい音楽を書かせたらモーツアルトやヘンデルに勝る連中はなかなかいないでしょう。

 

普段だったらモーツァルトはちょっと退屈を感じるんだけれど、今日みたいな日はちょうど良い。それも、ルビンシュタインとかホロビッツとかが大袈裟に弾いているやつじゃなくて、肩の力を抜いて、ちょっと無愛想さが残るような演奏がよい。個人的にはマレイ・ペライアの透明感がある音と、無機質さすら感じさせる演奏や、若い頃のエッシェンバッハの演奏が好きなんだけれど、手元に見つからなかったから、とりあえずグルダのやつを聴いてます。

 

グルダは、表情豊かなんだけれど、あんまりスケールを大きくしないで、程よく品よくまとめてる。モーツァルットをあんまり壮大にやっているのは好きじゃない。もともと退屈な音楽を、大袈裟にやって退屈させないようにしようという根性が好きになれない。モーツアルトはその退屈さの中に含まれる信じられないような美しさが魅力なのだ。シンプルで、それでいて彩りにあふれていて、その一方で形式的で退屈なところが良いのだ。だから、超絶技巧とかはあんまり歓迎されないと思う。ペライアも技術はあるが、そういうところで勝負しない潔さが良い。

 

それで、グルダのモーツァルトに戻ると、カデンツァをグルダ自身が書いている。その辺の潔さも良い。

 

モーツァルトを聴いていたら、武満徹を聴きたくなった。武満氏の音楽も、物悲しくて、暗くてとてもよい。モーツァルトにはない暗さだ。いつかゆっくり落ち着いて武満徹さんの音楽を聴いてみたい。