今日は、午後に写真美術館へ行って、ジョセフ・クーデルカを見に行った。
クーデルカの写真は大好きで、『Exiles』の中の写真は、モノクロのスナップショットの世界を大きく拡げて、もはやおとぎ話の中の世界のような、いや、それともちょっと違うな、とにかく心に残る写真群だ。クーデルカの写真のあの独特の寂しさと、半透明のベールのようなものがのしかかっているような不明瞭さは、なんなんだろう。ちょっとロマンチックな感じもしないわけじゃないけれど(それは異邦人の目から見る世界のせいなのか)、世界がこういう風に見えるっていうことに対するポジティブな驚きに満ちている
昨日の夜、仕事でこっちに来ていたねえさんと食事をした。そのとき、ふとクーデルカの写真を見たくなって、美術館に誘った。それで今日、二人でクーデルカを見に行った。
クーデルカの写真の中でも、今回展示されていたのは68年のプラハへの侵略の時の写真で、クーデルカによるドキュメントなのだけれど、戦場と化したプラハの美しい街を縦横無尽に駆け回って撮られている。驚くべきところは、その写真群のクオリティーの高さだ。どのくらいの写真を撮ったのかはわからないけれども、短期間のうちに撮られた写真にも関わらず、どの写真も力強く、勢いがある。こういう写真をみると、写真家の才能とかセンスとかって、努力じゃどうにもならないモノなんだなって思ってしまう。私が一生かけても、クーデルカのプラハのドキュメント以上の写真は撮れない。
今回の展示では、印画紙へのプリントではなく、印刷された写真が展示されていた。原版のネガをスキャンしたのか、フィルムの粒子のざらつきがちょっとデジタルっぽくなっていて、それらの写真が「作品」臭くなく展示されていた。写真とくにモノクロの写真は、そのプリントの美しさをみせたりするような展示が多い。かつて近代美術館でクーデルカのプリントを見た時も、その不透明なグレーがとても強く印象に残った。今回展示された写真は、オリジナルのネガが無いせいなのかわからないけれど、印刷されたポスターを見るような感覚で、写真のマチエールが切り落とされて、かえって写真に写っているモノ・モノゴトが浮び上がっていた。オリジナルのプリントじゃなかったのは残念だったが(誰がプリントしているのかわからないが、私はクーデルカのプリントが好きだ)、その無機質な感覚に心地よさすらおぼえた(変なビデオ上映はやめて欲しかったが)。
ねえさんがどう思ったかはわからないけれど、私はそこそこ楽しんだ。今回に懲りずに、ねえさんにもこれからもっともっとクーデルカの写真を見てもらいたいと思った。
展示を見終わり、恵比寿の街をあとにした。あたしは恵比寿っていう街がどうも好きになれなくて、なんだかもっと猥雑な街に行きたくなった。恵比寿みたいなこぎれいな街にねえさんと二人で放り出されても、息が詰まってしまう。ねえさんも、今日夕方から上野方面で人と会う約束をしているらしかった。それで、上野に行くことにした。
上野、北国出身のあたしは上野っていう街になんだか親しみを覚える。上野は東北方面へのラビリンスの入り口である。恵比寿なんかよりずっと活気があって、人情味があって、同時にちょっと悲壮感も漂っていて、街に血が通っている。あたしの好きな街は、上野、浅草、銀座と銀座線沿線ばかりである。
そんな上野の雑踏を、すっかりくたびれてしまっていたねえさんと歩いた。どこにもあても用事もなく、ただ何となくコーヒーを一杯飲める店に入ろうかと思いながら、アメ横を歩いた。今日も上野は人であふれていた。あの人々のうち、半分ぐらいは北島三郎とか吉幾三とかあっち方面の方々で、半分くらいは東京砂漠近辺の方々なんでしょう。そんな中で、赤いワンピースに包まれた『大阪で生まれた女』であるねえさんはなかなかえになっていた。やっぱり上野は良い、懐がひろい。
「純喫茶 丘」でコーヒーを飲んだ後、夕闇に染まっていく上野の街でねえさんとわかれた。自然光から人口光に移り変わっていく土曜日の上野にちょっとセンチメンタルな気持ちになった。家に帰って、マーチンのギターを弾きたくなった。
家に帰って、マーチンのギターを出し、吉田拓郎の「外は白い雪の夜」を歌った。「大阪で生まれた女」も歌ってみた、やっぱり北海道出身のあたしにあの歌をうまくは歌えないね。フォークソングを何曲か歌っていると、シミったれた曲ばかりだったせいもあって、ねえさんを囲んでいる複雑な恋愛模様を思い出した。ちょっと苦しい気持ちになった。あたしに何かできるわけでもないし、口を出す筋合いも無いことはわかっているんだけど。
しばらくギターを弾いていたら、テレサ・テンを聴きたくなって、パソコンを開いた。
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