ベレニス・アボットの「Changing New York」の写真を初めて見たとき、どこかで見たような懐かしい印象を受けた。初めて見たとは書いたけれど、実際は、アボットの写真集を既に持っていたし、写真史の教科書には出てくるので、本当に初めて見たわけではないのかもしれないけれど、そのシリーズの写真群をみて、あらためてアボットの写真の面白さを発見した。
アボットの写真の持つ複雑さは、フリードランダーの写真に共通するところもあるけれど、フリードランダーよりも整理されていて秩序のようなものすら感じられる。
アボットという写真家は、どちらかというと、アッジェを紹介した写真家として有名だけれども、アメリカ写真史を変えた偉大な写真家である。
Jean-Eugène Atgetの写真がアボットによって再評価されたことは、都市のランドスケープのあり方や、ストリートフォトグラフィーの方法論を提示したことに他ならない。写真というもの持つ「ディテイルを均等にことの外強調する」という性格の肯定であり、その特性が写真の面白さであると言うことの再発見である。
アッジェの写真は、点数が多く、多岐に渡っての記録であるので、一概には言えないのだけれども、アボットの写真はアッジェの写真のうち特に都市のランドスケープの部分の影響が強い。その後のアメリカの写真における都市のランドスケープのあり方の一つの姿を再提示している。
その姿とは、以下のようなものである。
・写真に写っているものの脈絡の無さ
・ディテイルがはっきりと写ることにより均等に強調されること
・都市が秩序の無い曲線と直線により構築されながら、秩序を持っているように見えること。
上記は、都市のランドスケープで当たり前のことなんだけれども、写真になったものを見ていると、不可思議でとらえどころがなくなってしまう。
こういう写真どこかで見たな、と思っていたら、金村先生の写真だった。金村先生の写真はノイズの集積のようであるけれど、どんな細部も無視されることなく、均等にうるさい。闇鍋のように秩序無く交じりあいながらも、写真となることによって、どこか秩序に似たものがある。
田中長徳氏が、著書で金村修の写真はアッジェのようだ、と形容していたけれども、私も全くその通りだと思う。けれども、アッジェというと、アッジェの写真が持つノスタルジックな部分や、モダニズムへの悲観のようなものまで入ってきてしまうので、誤解されてしまうかもしれない。それに対し、アボットの写真は時代性があまり強くない。モダニズムを悲観したりもおそらくしない。そういうイデオロギーとか、感情とかが入り込まない写真という意味では、金村先生の写真はむしろアボットに近いのかもしれない。
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精力剤 (火曜日, 12 5月 2015 07:47)
「初めて???。だろうな。怖いか? 平気、という割には、体が震えてるぞ?」