生きづらい世の中を構築し続ける私たちのブルース。

長らくブログの更新をサボってしまいました。読んで頂いている方、ごめんなさい。何となくスランプなのです。何かを喜んで語ろうと思うことがあまり無い。どちらかというと私が口を出すのは控えておこうと思うことばかり。

 

それと、新しい仕事の勝手がつかめないせいで、何となく疲れているのです。まだまだ若者だと思っておりますが、この歳で新しいことを始めるのはそれなりに大変です。

 

今日は仕事から帰ってきたら、妻からとても悲しいお話を聞きました。電車の中でとなりに座って眠っていた可愛い女子学生の写真を撮ったおじさんが捕まった話です。

撮られた女子学生も驚いて起きたらしいので、まあびっくりしたでしょうが、おじさんも捕まってびっくりしたでしょう。

 

女の子がかわいいから写真に撮る。これほど素直な写真撮影の動機が、犯罪と結びつけられてしまうこの世の中は、写真のその存在の否応無しな終焉の強要ともうしますか。全く空しい。

 

撮られて嫌だった。まあそんな気持ちもわかりますが、その一方で写真に撮られるって、ひょっとして喜ばしいことなのかもしれないのにそれを迷惑としか感じられないこの世の中の不条理さ。かつては暴力にも、愛情表現にもなり得た写真、写真て知らないうちに迷惑という以上のなんの力も持たなくなったのですね。求めあう愛はいつも届かず、という吉田拓郎の言葉そのままの悲しいこの写真世界。

 

おじさんだって、毎日のつまらない通勤の中で、美しく咲く可憐な花を見たらついつい写真に撮りたくなるものです。眠っているその姿を、その眠りを邪魔しないように、そっとカメラに収めたくなったのでしょうか。

 

事実はもっと複雑で、おじさんの見た目も女子学生の言うところの『キモイ』感じだったのかもしれません。女子学生が起きてからも執拗に追い続けて写真撮影をしたのかもしれません。おじさんも文句言われる筋合いもあるかもしれない。でも、写真に撮りたいものを写真に撮る自由が否定されるほど世の中って心が狭くなってしまったのでしょうか。

 

僕は、パンチラを撮る人の気持ちもわかります。それを嫌がる気持ちもわかります。それが良いことであれ悪いことであれ、それを写真に撮りたくなるその写真の欲望が痛い程理解できます。「この状態を写真に収めたらどうなるか見てみたい」というその強い欲望、それを抑えられなくなったときに人は写真を撮ってきたのです。

 

それが良いことであるか悪いことであるか、それについては私がここで語ってもしかたが無い。善悪の判断程、押付けがましくて、横柄で、恥知らずな行為はありません。だから、それについては警察とか、おせっかいな政治家とかに任せます。私にとってそんな善悪なんてどうでも良い。ただ、写真撮影を愛する一人の写真家として、写真を撮りたくなる写真的欲求を「迷惑」という簡単な言葉で否定しないで欲しい。撮りたいものの写真をとる自由がなくなるような社会は、ファシズムに汚染された社会であると感じます。

 

私はファシズムは嫌いです。ファシズムの善し悪しは知りません。むしろ、多くの方々にとってファシズムは歓迎されるべき思想なのかも知れません。僕はそういう人たちも嫌いです。自由を叫び続ける者達が皆ギロチンにかかるとしても、自由を守る為の戦いには意義があると思います。

 

皆さん、こんな私が嫌なら、文句を言っても、警察に届け出ても構いません。私は警察に捕まることくらいどうとも思いません。写真を撮りたいという欲望を満たす為にはそんなことくらいどうでも良いことなのです。

 

それで、まあ、そんな破れかぶれな気持ちのときには是非エルモア・ジェイムズの洗練されたアーバンブルースを聴きましょうか。