憂鬱だ。
酒を飲んだ次の日は憂鬱になる。昨日は飲み過ぎた。私はお酒で大きな失敗をしてしまったことがあるので、なるべく酒は飲むまいと思っているのだけれど、時として飲み過ぎてしまう。特に機嫌の悪い時は飲み過ぎてしまう。
今朝は会社に着いて、フラフラした頭で「死にたい」と思った。死んで楽になりたいとも思ったし、生きて歩いているのが辛いから、窓から飛び降りたいと思った。
ノルウェーの森の映画がつまんなかったって話は前も書いたけれど、予告編は好きだ。
「その頃二十歳になろうとしていた僕は、恋をしていて、その恋はひどく・・・・」
っていう語りが好きだ。どうでも良いことなんだけれど、ああいうカッコいい男性はキザなことを言ってもカッコいい。
なんでこんなこと話すかって、私自身もよくわからないんだけれど、30を過ぎて、32になろうとしている自分がいまこうして生きていることが、なんだかとてつもなく手の込んだフィクションのような気がして、そういう自分のストーリーに漂っている自分を客観的に見ると、なんだかキザで恥ずかしいところがむき出しになってくる。
高倉健は不器用でカッコいいけれど、不器用でカッコいい男なんて映画の世界にしか居ないのだと思う。私はいい歳して不器用で格好悪い。自分の周りにあるものがそのようなストーリーのラインになって行くことにひどく不快感を感じる。
例えば、私は少し前まで恋をしていて、そう書くとひどくキザなんだけれど、平たく言うと恋というよりは自己満足で、ある女性を私に振り向かせることにちょっとだけ一生懸命になろうとしていた。恋って書いたけれど、これはノルウェーの森の予告編の受け売りで、本当は恋という程しっかりしたもんじゃなかった。恋愛って、やっぱり息を継ぐ間もない程誰かのことを思うことだと思うけれど、私はそんなに一生懸命に気持ちを傾けたわけでなく、自分の都合のいいときにポケットから取り出して、灯をともす程度の頻度で恋をしていた。
誤解されると嫌なんだけれど、私その人と結婚したいとか一緒になりたいとかそういう責任感は全くなく、ただ僕のことを想って欲しいと望んでいたのだ。だから、嫁さんと私の関係には傷を付けずに、その人と居れる時間を愛おしみたいと想っていた。
これが、また自分勝手で都合のいい話なんだけれど、私は皆さんが想っているよりも真剣にそう思っていた。
それで、昨日その人に会ってお酒を飲んだんだけれど、一緒に飲んだというよりは、独りで飲むのに付き合わせたような感じになってしまった。その人がアフリカや、自分の人生に一生懸命で僕への興味がそれほど無いことを感じて、一人機嫌悪くなり無言で飲んだ。
飲み過ぎて記憶がとんでしまって、本当に無言で飲んだのかどうかは覚えてない。けれどもその人と話したことは殆ど覚えてないから大したことは話さなかったんだろう。
それで、本当は嬉しくて楽しいはずの時間を全く覚えていない。わかっているのは、私は確かに昨日失恋して、やけっぱちな気持ちで家に帰ってきたことだ。
その人はもうすぐアフリカに行く。アフリカに行って帰ってこないかもしれない。帰ってきても私と会うことはもう無いかもしれない。長く途切れ途切れで、細く続いた僕の恋愛が一つの切ない形で終わったのだろう。そうとわかっていたんだったら、せめて昨日くらいは酒を飲まないでその人との時間をゆっくり、じっくり、味わいたかった。
もっとカッコいい思い出になりたかった。
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