スピッツを聴いて、心に刺さること

ブログを長らくサボってしまった。

読んで頂いていた方、申し訳ございません。

 

しばらく放置していた為か、どうなのかはわかりませんが、このブログにワケの分からない宣伝のコメントがたくさん寄せられております。私とは一切関係のないものなので、気にしないで下さい。わざわざ消すの面倒だから残してるだけで、別に私の友達でもなんでもないですから。

 

それで、久しぶりのブログ、何書きましょうか。

 

そうね、また音楽の話になるけど、いいかしら。スピッツとジュディマリが好きだった高校時代を経て、大人になって、しばらくして今に至るのですが、私の中で変った音楽について。

先日、ブログにも書いたけれど、福耳の『星のかけらを探しにいこう』を聴いて、とても懐かしいような嬉しい気持ちになったのは、今思ってみると、音楽をまたかつてのような気持ちで聴けるようになった予兆だったのかも知れません。

 

『星のかけらを探しにいこう』は浅草のストリップで聴いたんだけれど、その日は大学時代の憧れの女の子の結婚式の日だったのです。だから、何となく、この曲とストリップと、その結婚式が心の中でつながっているのだけれど、そうやって何か今の自分と、音楽がつながるっていう感覚、ずっと持てなかったのです。

 

高校時代にいろんな音楽を聴いていたけれど、そのうちのいくつかは特に気に入って聴いていて、スピッツやジュディマリもその頃のお気に入りだったんですよ。それらの歌の世界と、自分の世界がどこか手の届く範囲でつながっているようで、なんだか届きそうで結局届かないのかもしれない感覚でそれらの曲を聴いていました。

 

私は、高校は男子校だったんだけれども、だから女の子と付き合うとか、そういう経験はあんまりなかったんだけれど、それでもまあ、年頃ですからイッチョマエに恋愛のような経験もするわけですよ。友達の彼女にちょっかいかけたり、女子校の女の子と遊びに行ったり。そんな、自分の日常のうちの、ちょっと日常茶飯事ではない特別な時間が、スピッツやジュディマリの歌とのつながりを強固に持っていたのですよ。

 

あー、この歌のこんな気持ちわかるなー、イヤー、上手い歌詞書いたもんだなー。とか、失恋して(イッチョマエに失恋もしたんですよ)どうしようもない気分で居るとき、彼らの曲を聴いて、心にざっくりと刺さったりしていたのです。

 

スピッツやジュディマリは歌詞がついているから、その世界に入りやすいのですが、それだけじゃなく、チャイコフスキーとかベートーベンとかもストレートアヘッドな音楽でしたから、心に響いてきたのです。

 

ところが、いつからでしょう。スピッツを聴いても、ジュディマリを聴いてもさっぱり心に刺さらなくなってしまったのです。もうここ十年くらいそうかな。スピッツを聴くってったって、『フェイクファー』までしか聴いたことないのですが、その『フェイクファー』も全然聴かなくなって早10年が経過しようとしてたんです。

 

なんでだったんでしょうね?恋愛が日常の中で普通に存在し始めるようになって、その気持ちにもだんだん自分のクセがついていびつな形になってしまったからかもしれませんね。恋愛ってのが特別じゃなくなった、それだけじゃなくて、恋愛=ハッピーっていう図式もだんだん変ってしまった。女性に思いを寄せても空しく時だけが過ぎる、そんな時間を持て余すようになってしまった。そんなことよりカメラや飛行機の模型の方が楽しくなった。そんなせいですかね。

 

それで、もう知らないうちに10年以上経過してしまった。心時めかなくなったそういう自分に薄々気がつきながら、それも仕方ないと思うようになっていた。音楽と、心の間に色々なものを溜め込んで、そのままにしてしまっていた。

 

そんなとき、『星のかけらを探しにいこう』や、『家族になろうよ』を聴いて、すなおに嬉しくなった。なんででしょうね。きっと学生時代の憧れの娘の結婚式だから、心が弱くなってたんでしょう。そんな中で聴いたからなんだか心まで響いたんでしょうね。

 

それで、試しに昨日スピッツを聴いてみたのですが、なかなか心にしみました。『クリスピー』是非聴いてみて下さい。