35ミリのフィルムカメラはそれでも存在意義があるのか?

最近またカメラを持ち出して写真を撮っている。

学生の頃は、写真が好きで、いや、カメラをいじるのが好きで、暗室でおこる様々な怪奇現象が好きで、いつも写真を撮っていた。色んなカメラを手にして、それらがどんな写真を写し出すのかが気になって気になって、バチバチバチバチ写真を撮っていた。

写真家のワークショップに通い、写真家になろうと思っていた。そのためにはすべてを捨てても良いと思っていた。

けれども、それは幻想だった。写真がなんなのかわかってなかった。

 

印画紙に浮び上がる像は決して幻想ではない。実際に光が色んなものに反射することで、「物理的」に作られる像ではあるし、実のある現実のことだけれど、そのこととは裏腹に自分が写真家として生きていくという自分の将来像は、幻想だった。形にならなかった。写真的敗北ポツダム宣言。

 

学生の頃、一緒に写真論をかわした友人達の中には今でも写真の世界で頑張っている方々もいる。彼らは自分の写真の方法論を模索し、とりあえずの答えを出し続けている。私には出来なかったことだ。

 

前回、ガールフレンドが妊娠した話を書いた。彼女の妊娠は私とはまったく無関係のところで行われたことであるが、そのことが私にとって無関係であるかどうかはまた別の問題であるように、写真が私とは無関係にどちらかの方向へ拡散していっている状況は、今の私にとっても決して無関係ではない。どちらかというとその動向が気になる。

 

今夜は、カメラの話。

今でも、私は気になっている。

この現実の世界を、このカメラとこのフィルムで撮影すると、どんな風に写るのだろうか。それを見たいという欲求、かなり強い欲求がある。だから私は、光学的に優れて歪みなく収差なくしっかり写るレンズより、個性のあるレンズが好きなんだけれど、たとえ良く写るレンズでも、そのレンズを通し、フィルムに適度な露光を施し、それを暗室で揺すり出す時の感覚が好きだ。私がカメラという不便で不器用な機械を使ってフィルムに科学的な黒魔術を施し手に入る画像が面白くてたまらない。こしあんを作るとき、巾着の中にたくさん水を入れて、その濾されてジャバジャバになったあんこの薄いやつを回収するじゃないですか。写真はあの感じに近いと思う。ジャバジャバになったあんこのうすいやつを大量に作り出して、それからあんこを作るみたいな、ああいう手応えがなさそうで、ちょっと手応えがある作業。

 

最近はデジカメも使います。そりゃ私も現代人だからスナップ写真は100%デジカメでとります。その方がお金かかんないから。

 

それで、最近気になったの。一体フィルムの写真ていつまで存在意義があるんだろう?って、けれども、そのあと思い直したの。存在意義なんてなくたって写真にとっては関係ないことだって。存在意義なんて言い出したら世の中の写真家って何の為にいるんだろうとか考えたら、ろくな結論にならない。

 

それで、例のガールフレンドにとって私の存在意義が薄いのと一緒で、こしあんのあのジャバジャバの存在意義程度のものを一生懸命集めてきて、チョモランマのてっぺんにポンと置いたような、そういう存在感でも写真は成立するんだって思ったのよ。

 

じゃあ、わかりました、これからも35ミリで写真撮りますか?って聞かれたら困っちゃうな。35ミリのモノクロのスナップなんてフィルム代の無駄みたいな世界だから、そういうところはデジカメの恩恵が大きいし、自然に考えたらデジカメがある現在35ミリのフィルムカメラって何の存在意義があるのだろうって。

 

35ミリって要するに手軽で、ランニングコストも控えめで、沢山とれて、そこそこ良く写る。それが存在意義じゃないですか。いかん、また存在意義の話しちゃった。存在意義から考えると、35ミリのモノクロなんてもう全然ないも一緒、それならデジカメでとった方が手軽で、ランニングコストかからなくて、そこそこ良く写りますよ。っていわれちゃうし、まったくその通りだもんね。

 

それで、何だかせつなくなったの。ああ、35ミリのモノクロってもう道楽みたいな世界なんだ、懐古趣味みたいな世界なんだって思って。それで、これからは、例えばライカにわざわざ三脚つけて、本来の35ミリの手軽さを無視した世界で頑張れば良いんじゃないかって思ったんだけれど、空しいあがきですね。35ミリのモノクロはもはや存在意義が無い。これから将来35ミリにトライエックス入れて写真撮るかって聞かれたら迷っちゃう。

 

それで、ステレオの棚の上に置いてあるズミクロンをつけたライカを見たんだけれど、まだライカは現役を退いてなくて、レンズもむき出しで常に臨戦態勢なのです。35ミリのフィルムを詰めて、バチバチバチバチ撮ってやろうって雰囲気なのです。

 

それで、ああ、このカメラの為に写真撮ろう。今、こうしてデジカメに実用の、写真を撮影するというお役目を譲って、やっとライカが、カメラとして、カメラ自身の為に写真を撮れるようになったんだ。そのライカの存在意義の為だけに35ミリを詰めて街に出よう。これからは写真からの便りを求めてライカを手にするのではなく、ライカへ便りを寄せる為に、写真を撮ろう。幸いにして今はフィルムを買うくらいのお金はあるし、撮影の頻度やペースも遅い。だから、余計なこと考えないでカメラの為に写真が撮れる。私もハッピー、カメラもハッピー。

 

35ミリフィルムで思う存分写真を撮ろう、それが実用写真のこの世の中からあちらの世界に行ってしまったライカ達無縁仏への供養であり、キリスト的復活の証なんだって。

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コメント: 1
  • #1

    精力剤 (火曜日, 05 5月 2015 05:31)

    「手、冷えてる。暖まるまで握っててやるよ」