Saul Leiterは地味だけど写真は洗練されてる。

ブログを一ヶ月以上サボってしまった。

もう、二度と更新しないかと思われたかもしれませんが、私ももう二度と更新できないのではと思いました。誠にすみません。最近は楽器の練習を再開したのですが、そのため夜の時間の大半は楽器の練習に費やしているので、ブログまで手がまわらなかったのです。

 

もう一つ、このブログという誰に対して発信しているのかわからないメディアを使っていて、一種の寂しさ、孤独を感じており、何となくブログからはなれてしまったのです。

 

でも、今夜は写真の話題があるので、書きます。

お時間許せばお付き合いください。

ニューヨークの写真家でありキュレーターであるJane Livingstonの著作だったと思いますが、New Yorkを舞台に活躍した写真家を『ニューヨーク派』と称して紹介している本があり、そこに掲載されている写真に二十歳の頃の自分は凄く感銘を受けて、写真の面白さを感じたのですが、その本についてまず話しましょう。

 

ウィリアムクラインや、ブルースデビットソン、ロバートフランクがニューヨークを舞台に素晴らしい写真の数々を発表しているのは私も、学校の先輩を通して知りましたが、彼らの写真が好きで、他にもニューヨークの写真を見たいと思っていた時、札幌の洋書屋のおばさんから紹介されて、この本を買いました。買った時は、クライン、フランク、デビットソンの名前は知っていましたが、その他のこの写真集に登場する作家のことは全く知りませんでした。

 

まず、WeeGeeの写真の猥雑さが気になりましたが、その写真を上手く飲み込めなくて、「ふーん」と思ってページをめくったことは覚えています。テッドコーナーの自動車の写真はボブディランのCDのジャケットにも使われましたが、その車のフォルムとコンポジションに20世紀初頭のニューヨークの空気を感じました。フランクの夜のスナップは、スナップショットというものの美しさと儚さを同時に提示していて怖いくらいでした。そして、今夜紹介するソールライターです。モノクロのスナップショット掲載されていましたが、それらの写真はなんだか構成された写真のようで、そのデザイン的な造形にどうもあんまりいい印象を受けなかったのを覚えています。

 

はじめは、あまり好きになれなかったSaul Leiterの写真でしたが、ガラスの映り込みの写真をパラパラとめくっていると、それぞれがデザイン的であれ、偶然の要素を残してあり、フリードランダーの映り込みの写真に通じる「すっきりとした」ものと、50年以上前の時代の空気感のようなものが目に入ってきました。それらの写真は決して派手なものではなく、インパクトではクラインやフランクには敵わないけれど、ライターの作家としての色のようなものが確かにあるなということがわかってきました。

 

それで、ライターのことは心の隅に覚えていたので、彼の回顧展の図録が出ていると知って、すぐに予約しました。

 

回顧展の図録を見て初めて知ったのですが、ライターは写真だけでなく、自分でも絵を描くようです。彼の描いた絵を見て、彼の写真がやっと何となく飲み込めました。ライターは、多くの写真家が行うように、この世の中で起こっていることを写真にしてみせようとしているのではなく、写真というメディアを使って色彩やコンポジションを再構築しており、その再構築の際に入り込んでくる偶然性を扱っている作家だと感じました。

 

写真の本質は、写真でしか扱えない複雑さと、偶然性をいかに見せるか、あるいはいかに排除するかのどちらかしかないと思います。ライターは一見写真を構成して、偶然性を排除しようとしているように見えますが、実はその偶然性を楽しんでいるのであると言えるでしょう。それが、とても奥ゆかしく写真になっているので、彼の写真をわかりづらい、難解なものにしているのかもしれません。

 

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コメント: 1
  • #1

    勃起不全 (火曜日, 12 5月 2015 02:24)

    「イケナイ子だねそういう子には???お仕置きが必要かな」