人付き合いの希薄さを超えて、潮田文「風に吹かれて」

先週末は風邪を引いてしまい寝込んでいた。

 

寝込んではいたが、寝てばかりいても良いことは無いので、新宿御苑方面に散歩に行った。御苑方面に行ったのは目的があったからだ。南原四郎さんこと潮田文氏の写真集「風に吹かれて」を蒼穹舎まで買いにいったのだ。

 

潮田文氏の写真はご覧になったことが無くても、氏の文章に接したことがある方もいるかもしれない。月光という文芸誌の編集長を南原四郎という名で何年も続けてらっしゃるから、月光を読まれ氏のことをご存知の方もいらっしゃるだろう。

 

「風に吹かれて」は一風変わった写真集である。

この写真集はおよそ600ページからなっており、500枚くらいの写真が掲載されている。

 

このボリュームの写真集はなかなかお目にかかれない。桑原甲子雄さんの「東京」という写真集があったっけ。あれもやはり数百枚の写真が掲載されていた。森山大道の「新宿」もそうとうの量の写真が掲載されていた。

 

潮田文氏の写真は、プリントは何度か見させて頂いたことがあったが、写真集となってまとまったものは初めて見る。もっとも、この写真集をまとまっていると表現するのは間違えかもしれない。この写真集のまとまり方は一般に世の中で言われる「まとまっている」とは趣を異にしている。

 

とりとめも無い写真の集合体と表現すると潮田氏に怒られそうだが、写真集としてまとまることをどこかで拒否しつつも、はじめっから最後までペラペラとめくり楽しめる範囲におとし込まれている。写真一つ一つが強過ぎず、かつわざとらしさの破片も無い。冷静にパチリパチリと撮影された写真が、それらに写されたモノ自身が読み手に静かに語りかける。

 

それぞれのストーリーがすべて語られるでもなく、しかしながら確かにそこには時間の流れのようなものがあって。やはりストーリーがある。

 

この写真集をそのようにしているのは、掲載されている写真の多くが同じ日に同じ場所で撮影されたいくつかの組に寄って構成されているせいかもしれない。四コマ漫画みたいに、時系列に続いていればそこにストーリーが存在するような錯覚を持つのは当然かもしれないが、潮田氏の写真は時系列に「続いている」という印象はうすい。むしろ、写真一つ一つが語り過ぎず、その他の写真との関わりなど、大した重要性を持たない。ただ、写真の塊が、その隣の写真の塊を補完しあいながら、途切れ途切れのストーリーを紡いでいる。

 

話しは変わるが、人間関係も連続した時間の共有ではない。バラバラになった二人の、交わった時間の塊と塊、それらが互いに補完しあいながら、一つの関係を形成する。時間の塊は一瞬のこともあるし、長い期間になることもある。出会ったり、話したり、喧嘩したり、電話したり、何もしなかったり。

 

とくに、近頃はスマートフォンやらFacebookやらがあるから、交わった時間という「時間」の定義もとても難しい。メール交換だけで形成される人間関係に共有した「時間」は存在するのだろうか。ただ「逢う」ということでしかその不安は払拭できないのだが、果たして「逢って」何になるのかは誰も知らない。

 

今の私の人間関係の希薄さに比べたら、南原さん、いや潮田文さんの写真はもっと写真どうしが有機的に関わり、交わりあっていると思える。こういう、交わることの希薄な毎日に、交わり過ぎない写真の塊を見ていると、心が休まる。

 

潮田文氏の「風に吹かれて」是非見てみて下さい。

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コメント: 2
  • #1

    sex tel (水曜日, 01 11月 2017 01:32)

    Dobrojewo

  • #2

    sekstelefon (水曜日, 01 11月 2017 03:04)

    chrząszczowy