そりゃ、彼女を愛していたこともあったさ。けれど、そういうのはもう全て終わったことなんだよ。
ジョニーウィンターがスピーカーの向こうで叫んでいる。スタジアムに満員の聴衆。ギブソンのファイアーバードを搔き鳴らしながら叫んでいる。
そうだ、全て終わったことなんだ。
モトの話しはもう何年も前の話しになるし、そのままを書けば私の親しい友人ならこの話しの登場人物に心当たりがあるかもしれないが、ご自由に想像して頂ければ良いと思います。
同級生、なのか先輩と呼ぶべきか。私は大学で2年も留年していたので、彼女に出会ったときには彼女の方が上級生であったかもしれない。私は、都のはずれの街で学生をしていた。もう十年以上前である。毎日昼頃におきて、シャワーを浴びて、首にライカM4Pを下げて、ズボンの右のポケットにフィルムを5本入れて、家を出て、2時間ばかり写真を撮って家に帰るという生活を送っていた。
家に帰るのは、大体4時頃だったと思うが、ちょくちょくヨドバシカメラや中野、新宿の中古カメラ屋に寄り道をしていたので、帰りが7時頃になる日もあった。
家に着いてもすることはない。
カメラを家において、飲み屋にいく。千円もあれば飯も食って酔っぱらえる、そういう奇特な飲み屋がその街にはあった。そこのカウンターでホッピー、ビール、又は焼酎を飲んで、2時間もすれば酔っぱらって家に帰った。
そんな生活をしていたから、学校には殆ど行っていなかった。だから人とは殆ど会わなかった。その年の春に、その頃から付き合っていた今の私の妻が学校を卒業して、実家の九州に帰ったので、本当にぜんぜん人と会わなかった。ただ独りで、写真を撮ったり、煙草を吸ったり、本を読んだりして過ごしていた。
サークルには所属していた。モダンジャズ研究会である。私は吹けもしないトランペットを持って、月に一、二度くらいサークルにも顔を出したが、そもそも楽器の練習なんて殆どやっていなかったので、サークルに顔を出してもやることもなく、部室で酒を飲んだり、タバコを吸ったりしていた。サークルに顔を出した日は、決まってサークルの仲間と酒を飲みに出かけた。飲みにいった日は大抵店のカンバンまで飲んだ。だから、そういう日は、サークルの誰かがうちに泊まりにきていた。
学校にはほとんど行っていなかったと書いたが、週に一度月曜日にゼミというものがあって、少人数制の授業だったので、欠席しづらくて、大体毎週顔を出すようにはしていた。ゼミのある日は、大抵ゼミの後ゼミの仲間と飲みに行った。大抵はやはりカンバンまで飲んだ。だから、ゼミのある日は、大抵ゼミの後輩の女の子の部屋に行って泊まっていた。
その他に、これも少人数制のグループワークがある授業があった。これも、グループに配置されたため欠席しづらくて毎週顔を出していた。私は写真にしか興味なかったので、グループワークでは主に写真について私たちは討論していた。
彼女とはその授業で出会った。
彼女は中性的な人間で、女っ気もなく、煙草は吸わず、音楽の趣味も私と全く異なっていて、勉強家でとても頭がキレて、およそ私が積極的に仲良くなろうと思うような女性ではなかった。私も、その頃は若く、モテないくせに面食いで、女性の理想も高く、自分の好みの女性にしかこちらからお近づきになろうとは思わなかった。それに、インテリな女性は何となく鼻持ちならん奴と思っていたので、尚更距離をおいていた。
ただ、彼女は私の学校の知り合いの中でも珍しく、写真に強い興味もあったようで、ライカだったかコンタックスだったかのカメラを持っており、自分でもかなりの量の写真を撮っていた。
何度目かの、授業のときに彼女が自分の撮った写真を偶々持ってきており、見せてもらった。とくに、面白い写真だとは思わなかったが、普通の二十歳そこそこの女性が撮るような写真ではなかった。悪く言えば、パッと見ても全く面白くないのである。無愛想で、無表情で、不気味さすら感じた。私は、その頃学校の先生の影響でストリートスナップの写真にしか興味がなかったので、彼女の写真に魅力は感じなかったが、確かに良く見ると、それぞれの写真が少しづつ異なっていて、その偏差が不思議なバランスで均衡を崩していて、奇妙な写真だった。彼女に突然、不意に、私の知らなかった写真のあり方を提示されたので、私は正直いうと少しうろたえた。
そんなことがあり、私たちはほどなくして、その授業の少し前に学校の池と講堂の間で待ち合わせ、一緒に教室に行くようになった。正確には、待ち合わせているのではなく、その授業の前の時間は彼女も授業をとっていなかったらしくその辺りでいつも写真を撮ったり、ベンチに座って本を読んだりしていたのだ。だから、その授業の日には、私の毎日の撮影が終わる頃にそこに行けば彼女がだいたいそこにいるという手はずになっていた。
結局、彼女と私はその授業を二年間程とったのだが、私は二年目の途中で面倒くさくなってその授業に行くのをやめた。授業に行くのをやめたのと前後して、私は写真を撮ることもやめてしまい、リクルートスーツを買い、半年以上遅れた就職活動をし、ある中小企業に就職が決まり、卒業した。
彼女がその後どうなったかもわからない。
私が社会人になって4年か5年目ぐらいの11月ごろ、私は気まぐれでかつて学生の頃に写真を教えてくれた写真家の写真展を見に行った。土曜日の夕方だった。新宿御苑近くのギャラリーに入ると、彼女がいた。あの、授業で一年半ぐらい一緒だった彼女だった。彼女は、写真関係の知り合いと一緒に来ていたらしく、そのギャラリーにいた何人かの人と話していた。私は、小さく挨拶をして、「懐かしいですね」と声をかけた。あの授業で一緒だった人の思い出話をして、連絡先を交換して別れた。彼女は東京を離れて就職したらしい。
その数週間後、彼女の携帯電話にメールを入れた。
「こんにちは、佐々木です。今度いつ東京にいらっしゃいますか?もしこちらに来たときに、もし良かったら逢えませんか」
本当は、もう少し推敲に推敲を重ね、書いたのだが、何と書いたかよく憶えてはいない。彼女から返事はすぐに来た。
「今週末、東京に帰ります、土曜の夜独りで映画でも見ようかと思っていたので、もし良かったらご一緒にどうぞ」
という返事だった。私は映画館の場所を聞いて「行きます」と答えた。
土曜の夜に、新宿駅で待ち合わせをし、彼女と映画を見た。映画を見た後に、「ビールでも一杯如何ですか」と切り出すと、彼女は「良いですよ」と小さく答えた。
彼女と共通の話題はそれほどなかったので、ビールを飲んでも、あまり話しに花は咲かなかったが、ビールはうまかった。そして、私たちはお互い黙っていた。彼女の外見は学生時代と変らず、派手さはないが、成熟した女性の色気のようなものが加わっていた。モヒートを飲むしぐさも、洗練されていた。そして、彼女の語り口には学生の頃と変らず知的な香りがした。
どちらともなく、「もう出ましょうか」と言って外に出た、外は風が吹いていて寒かった。私は、そっと彼女に寄り添い、彼女の唇に唇を重ねた。彼女は静かに唇を開いて、そして閉じた。それが、私たち二人の間に何ももたらさなかったことは確かだった。私たちの間に、これまでも、これから先も何も起こることはないということを確認するための儀式のようなキスだった。その一方で、私は彼女に出会った頃からずっと、彼女とのキスを待っていたんだと気がついた。学生の頃から、彼女のことがきっと好きだったんだ、と気づいた。一方で、今日のキスは彼女にとって何の痕跡も残さないと感じた。
そのまま、彼女と手をつなぎ新宿駅まで歩いた。彼女の手は冷たかったので、私のコートのポケットにその手を入れた。
それから、彼女とは一度も逢っていない。そして、彼女の連絡先もどこかへ行ってしまった。
Well, it's all over now.
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