或る女性のための小話

こういうと、やっぱり彼奴は同性愛者だったんだと言われてしまうかもしれないが、私は同性愛者ではない。バイセクシュアルである。


まあ、それはともかくとして、恋愛という器は砂型のように自由自在に見えて、実のところ金型のように異形を許容しない。だから、私たちは自分のわけのわからない感情のもつれを、どうにかして恋愛の型に押し付けようとして、しばしば痛みをおぼえる。


男には男同士にしか分かち合えない愛の形があると言えば簡単だが、それが愛という言葉で片付けられるものなのかそうでないのかは今でもよくわからない。ただ、私たちの場合それはアルバートアイラーだった。

彼と関係を持ったわけではないし(ケツほったりね)、彼は私の好きなタイプの人間では、いやこの場合は男では無かった。私には理解しがたい側面だらけの男だった。

アルバートアイラーが好きな高校の同級生がいた。私の知る限り、日曜日には、彼はアルバートアイラーをかけて、ベランダに座り日がな一日タバコをふかしていた。彼とまだあまり親しくなかった私は、とりあえず彼に倣いベランダに出てそのワケの分からないデタラメみたいな音楽に耳を傾けた。そんな午後を片手で数える程一緒に過ごした。


高校を卒業してから、浪人時代に入り彼と親しくするようになった。けれども、その頃は彼のターンテーブルの上にはアルバートアイラーではなく、キップハンラハンやアメリカンクラーベのレコードが回っていた。

もうアルバートアイラーは聴かないのかい?あんなに好きだったじゃない。と私が聞くと、

アルバートアイラーはもう死んだ音楽だ。私が彼の音楽に求めたのは母性のようなものだった。けれど、全ての音楽に母性を求めたのは間違えだった。アルバートアイラーはもうどこにもいないんだ。俺には今の音楽が必要になったんだ。ひとりで居ることの寂しさを紛らわす音楽が。

今でも時々アルバートアイラーを聴くよ。レコードラックで偶然彼の音楽と出会えた時に、彼が私の為に吹いてやってもいいぞという時に。それが死んだ音楽だってことには変わりないけど。

そんな台詞を口にしてもかれはキザに見えない男だった。そして、何処か東南アジアのお土産だという石のパイプにタバコを詰めて、ベランダで日がな一日ふかしていた。

 

そうして私は彼の家のベランダで、パーラメントライトをふかしながら、日がな一日レコードを聴いた。私たちは、毎日そんな午後が終わらないでくれることを期待して、そしていつも裏切られた。大抵は私の聴いたことのない、しみったれたラテンのレコードの真ん中の円を針が惨めったらしく回るのを5分程見届けて、ではまた明日となった。
異性に慣れていない私たちはそうやってデートの疑似体験を繰り返し、19の夏を過ごした。


今日このことを書いている。その彼も、私の前からいなくなってしまったから。

まるで過去の過ちを短壺に吐き捨てるように、私たちは会わなくなった。
家のレコードラックにアルバートアイラーのレコードもCDもなかったのだが、突然彼を懐かしく想い会社帰りにお茶の水に降りて、My name is Albert Aylerを買って来た。1,400円だった。

 

あれから15年が経ち、妻が寝息を立てているよこで、彼女を起こさないようボリュームを絞りアイラーを聴こう。

 

彼女の思い出のためにも。

コメントをお書きください

コメント: 3
  • #1

    ED治療 (土曜日, 02 5月 2015 22:46)

    「大丈夫、すぐ終わるから、怖かったら目ぇ閉じてろ」

  • #2

    早漏 (火曜日, 05 5月 2015 00:27)

    「大丈夫、俺が居るから、何かあったら俺を頼っていいから無理しないで?」

  • #3

    ed 意味 (金曜日, 08 5月 2015 21:36)

    「もうちょっと。もうちょっとだけでいいから。このまま居させて」