あいつだけはいつでも俺の女だろうという幻想

心の中で、何故かかなり長い間頼りにしていた、学校の後輩の連絡先を携帯から消した。フェイスブックもアンフレンドした。
彼女と今年の始めに会った。とても久々に。俺はその時ですら自分の幻想が幻想であることに気がつかなかった。


ある女性との関係についてぽろりと彼女に話した。


彼女に言われた。
あんた、いつもそうやって生きて来たの?私がそんな話聞いてなんとかしてくれると思うの?
そう、俺はいつでもきっとそう思っていた。そいつに捨てられても、きっと君がいるなんて思っていた。
それから何日かして、いや二ヶ月してやっと、そんな馬鹿なことはないと気付いた。あの人にだってあの人の都合がある。当たり前か。
けれども、私は、やっぱり自分の心の中にこのことを収めて置かないで、あの人のいなくなったFacebookでぼやいたりしている。

 
 

私はFacebookを懺悔の場か何かと勘違いしている節があり、時折ひどくプライベートなことを書いてしまいそうになる。よく考えてみると、Facebookはごく近しい間柄の方々同士でつながっていたりするので、プライベートなことを書くと、その当事者や、その当事者と私との関係をよくご存知の方々に読まれてしまう。だから、Facebookにはプライベートなことは書かない方が良い。口は災いの元。

 

私は惚れっぽい方で、いい齢していまでも頻繁に女性に惚れて盲目的になることがある。それが三ヶ月で素面に戻ることもあれば、何年も続くこともある。

そのせいで異性に迷惑をかけてしまったりする。そして、向こうから私を避けるようになり、結果独りになる。因果応報と言いましょうか。

独りになって、初めて気づくこともある。私は彼女を其れ程求めていなかった。ただ、恋愛というゲームで、世の中の煩わしさを忘れようとしていたのではないか。彼女を求めているような気分になっていたのは、自分を傷つけないでセンチメンタルを気取る為だったからではないのか。

そして、大抵の場合それは正しい。サクリファイスという古い歌があるが、あんな感じか。彼女達と戯れ、服に残る彼女達の残り香に傷心する、そういう男の勝手なセンチメンタル。

 

そうそう、五年(10年?)くらい前にサンボマスターというバンドが「そのぬくもりに用がある」という歌を歌っていて、私はその歌詞が嫌いだった。自分の醜い部分を鏡で見ているようで嫌だった。曲そのものはとても好きで何度も聴いたのだが、よくよく歌詞を聞くにつれて、その内容がわかるようになり、なんだか気恥ずかしくなった。

 

傷心のあとの自分も嫌な男の典型で、妻の元に帰り、泣き言を言う。俺はあいつに会わないとしんでしまいそうだ。とか、

それができない時は、何も話さない。

 

もちろん、この世界は私だけの為にあるわけではないのはわかっているつもりだが、いまだに妻は私だけの為に居るのだと思っているのだろう。

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コメント: 2
  • #1

    ぺニス サイズ (火曜日, 12 5月 2015 08:27)

    「俺は、アンタしかいらない???」

  • #2

    早漏 (火曜日, 12 5月 2015 08:33)

    「何、顔真っ赤にしてるの? 本当に可愛い人だ。ふふ。冗談だよ」