私は酒なんぞ飲まなくても充分生きていける。そんなこと、今に始まったことじゃない。20年前だってそうだった。酒飲みにはなりたくなかった。だって酒が弱くて、飲んだら気持ちよくなる前にいつも気持ち悪くなって吐いていた。酒がうまいなんて感じたこともなかった。酒に酔って自分をごまかすことも嫌だった。
私は10代の頃嫌と言えない人間だった。物事をはっきり言うのははしたないことだと思っていたし、それが美しい、良いことだと思っていた。なんで美しさなんて追求したんだろう?美しさなんて子供だましで、ちっとも嬉しくない。美しいことが良いことだという教育はあるだろうけれども、美しくて良いことなんてこの世の中の本当の一部だ。あとは大して美しくない方が良い。少なくともマトモに人間として生きていくのであれば。
今夜はそんな話。
今時点で、最後に見た美しいものはGibsonの1974年製Les Paul Custom,
俗称ブラックビューティ。まあ、本当にBlack Beautyて呼ばれるのは50年代のLes Paul Custom。当時はトーンコンデンサがブラックビューティだったからな。ギターの一つの完成系。この世の中にギターの完成系は実際20モデルもない。そのうちの一つだ。確かに美しい。黒くて美しい。傷雨ついていて美しい。錆びていて美しい。骨董品のようにほっとかれて枯れたのではなく、使い込まれて枯れている。茶器のような美しさ。
その前に見た美しいものは何だろう?林さんの絵か?いや、本人かな。
生きている時間は1日24時間、半分寝ていても12時間。そのうち仕事しているのが約8時間として、残りの4時間、1日の6分の一ぐらいしか愛でようと思っても美しいものを愛でることはできない。それよりも、強いものの方が大切。醜くても、汚くても、強いものは何かの役に立つ。文学だって写真だって音楽だって、なまじ美しいものよりも力強いものの方が強い。何かを感じさせる。クラウディオアラウの美しいベートーベンより、不協和音が気持ち悪く鳴り響くポゴレリッチのラベルの方が心を打つ。少なくとも私には。サイモンアンドガーファンクルも悪くないが、もう少し汚れている連中の方が私には心地いい。
それを、否定することは今更できない。今更できることとしたら、美しく生きようと思っていた頃の自分の貧しい根性だけだ。美しく生きようなんて思っていたから、大切な仲間を売り、人を裏切り、クソ野郎達に好かれ、嫌な思い出ばかりが残った。もう、ああいう生き方はこの先したくない。たとえすべてを捨てても、図太く、荒く、周りを削りながらでも生きていたい。そうでなければまた袋小路に迷い込み独りでウジウジするだけだろう。
妻も娘もいて、美しい楽器たちに囲まれ、もう身の回りに美しいものはたくさんだ。これからは自分が何とか生きていけるために、自分が満足して生きていけるように、美しさなんてどうでもいいから次の術を考えながらやっていくしかない。
美しいものに未練はある。まあこれからも出会わないわけじゃないから未練というものでもないけれども。それでも、体は本能的に美しく、甘く、気怠いものを求める。そういうときのために、Chet Bakerは一生をかけてトランペットを吹いていた。そしてその一部が、奇跡的なことに美しいレコードとして残っている。美しく、可憐で、甘すぎず、気怠く、くぐもっている透明感。それがレコードで残っている。嘘だと思うなら、とりあえず Chet Bakerの Broken Wingというレコードを聴いてみればいい、そこには確かにそういうものが生きている。
もう一度言おう。Chet BakerのBroken Wing.
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Ulysses Calder (月曜日, 23 1月 2017 07:47)
Thanks for sharing your thoughts. I really appreciate your efforts and I am waiting for your further post thanks once again.