失敗を繰り返すだけでは手に入るものはないこと

入院していた期間は3週間ぐらいか、いや1ヶ月くらいだったかな。実はよく覚えていない。

 

入院期間は何もやることがなく、日がな一日ぼーっとしていた。本を読んだりもしたが、本を読んでも何も頭の中に入ってこなかったから、画集を見たり、写真集を見たりしていることの方が多かった。写真集は8年前の入院時と同じ尾仲浩二の写真集、画集というか作品集は日比野克彦の図録。何度も眺めた。

 

その他の時間はほとんど自問自答していた。

他の人たちと話す時も、その人たちの声の中から自分の声を聞き出していた。

ギターの話をしたり、特定の話題があるときはその話に合わせて考えることもできるけれども、その他はとりとめもない話なので、今の自分がどう思っているのかを一人考えていた。シャトーカをしていたようなもんだ。

 

かなこちゃんと話している時も、高橋さんと話している時も、その人たちの持つ問題や、失ったものを思いながら自分の今の問題について考えていた。家族を失いたくはないが、自分が家族との生活を上手く送れないこと。仕事を失いたくはないが、仕事にきちんといけないこと。手元にある「自分のもの」が多すぎること、そのために家族の他の人たちの持ち物を置く場所がないこと。そんなことを少し考えるたびに、気持ちが重くなった。

 

なぜ、一人でも生きていけないのに妻と娘とすら上手く生活できないのか。ものを手に入れても手に入れても限りなくものを買ってしまうこと。気づけばガラクタすら宝物のように感じていること。仕事に喜びすら覚えているのに朝つらくて出社できないこと。そんなことをずっと考えていた。

 

けれども、頭の中で何かをまとめるということがほとんどできないくらいに弱っていたので、結局結論は何も出なかった。

 

その時、

 

ああ、こういうことは今の頭で考えても結論は出ないんだな、

 

と思い、思考することをやめてしまった。

やめてしまって、もちろん良くなかったこともあるかとは思うが、良かったことも多かったと思う。結局考えられない時に物事を考えるのが我々にとって一番まずいんだ。変な結論に辿り着き、おかしな行動に出てしまう。自殺だとか。暴力だとか。

私はそんなに強い人間ではないからそういう衝動に勝てないと思う。

 

それで、残りの入院生活はただただぼーっとして過ごした。タバコが吸えるようになってからは、暇な時間はほとんどタバコを吸うことに費やした。かなこちゃんの隣に座って二人ぼーっとしたりとか、いつも興奮気味の高橋さんの話を聞いていたりとか以外はタバコを吸っていた。

 

高橋さんの話は、実際何時間でも聞いていられるほど面白かった。今までの失敗や、勝負の話。勝負といってもスポーツマンやら博徒ではなく、普通の小市民としたの勝負の話、職場の上司に嫌がらせをされて勝負に出た話。女とまずい関係になってなんとかした話。とても機知に富んでいて、面白い話ばかりだった。それを本に書けば、40ページぐらいの短編が数編かけるな。

 

かなこちゃんの隣に座ってぼーっとしているのは、もっと気楽な時間だった。一時間ほど、たいした話もせず座っていて、

 

大丈夫か?

 

大丈夫じゃありません、

 

だったら、考え込むな

 

とか、本当にそのくらいしか話さなかった。

そのうち老年夫婦のようにお互いの存在が空気のようになるのではないかとまではいかなかったが、この病院のホールでぼーっとしているのは私らぐらいで、後の人たちはせっせと新聞を読んだり、テレビのサスペンスなんかを見ていた。かなこちゃんは、そういうのには全く興味がなく、自分のこの先の心配だけでできていた。隣にいる私は、そんな彼女に何も力になれないのではあるが、まあ、かわいい若い女の子だから隣に座らせてもらって同じくぼーっとしているのが心地よかった。もう、それ以上彼女に干渉したいとも思わなかった。ここから先は、みんな自分で居場所を見つけて、生き方を見つけていかなければならないのだから仕方ない。私だって、私の身の振り方を考えなくてはいけない。そして、この病院から家に持ち帰れるものは、運が悪くなければ自分の体と、たくさんの失敗のサンプルなんだ。まあ、病気の影響からくる失敗だから、当事者たちはその失敗を踏むしか方法がなかったのかもしれないが、その話を聞くことで、これからの自分の危険信号を察知できるかもしれないと思いながら、アンテナを張った。

 

さて、自宅に戻ってきて、問題は解決してはいないが、すっかり頭から消えて忘れてしまった失敗のサンプルはあるのは仕方ないとして、まだ覚えているサンプルも沢山ある。

 

これから少しづつその失敗のサンプルを紐解いて、自分の糧にしていこう。そうでなければ、せっかく採取したサンプルも全く自分の糧にならずに腐ってしまう。

 

場数を踏まないとわからない経験というのは確かにあるが、場数を踏んだだけではどうにもならない。場数から何を学び、何を改めて行くか、それこそが必要な行動なのだ。

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コメント: 1
  • #1

    Palmira Godwin (火曜日, 31 1月 2017 23:41)


    What's up i am kavin, its my first occasion to commenting anywhere, when i read this article i thought i could also create comment due to this sensible piece of writing.