誰かの力になれること

病棟で親しくなった天涯孤独の若い女の子が、今は他に誰も相手にしてくれないからと、私を慕ってメールくれる。
正直、私は嬉しい。とても嬉しい。彼女は可愛い若い女の子だし、彼女独特の言葉はどこか私をやすらぎの世界に連れて行ってくれる。そして、どんな形でも彼女の力になれるのは嬉しい。

 

長くなるかもしれないけれど、今夜はここから始めよう

 

 しかし、種明かししてしまえば、雑な言い方をすると、私は単なるスケベな中年のおっさんに過ぎない。彼女の為に何か出来るようなことはほとんどない。人生経験と言っても大したものはない。失敗は人一倍しているけど、彼女と比べるとおあいこくらいかな。

 

強いて言えば、耳触りのいい優しい言葉を言うことぐらいで、実際彼女の糧なるような言葉を見つけられない。そう、私の唯一の武器は言葉だ。

似顔絵も描けない、歌もそれほど得意じゃないし、ましてやジャグリングやら声帯模写もできない。江戸家猫八にはなれない。


今の彼女には、彼女の糧になるような言葉をかけてくれて、彼女の為に力になれる人間が必要だ。優しさよりももっと確かなものを提供できる人、もっとはっきり言えば、彼女に寄り添って愛を提供できる人間がいた方がいいと思う。家族でも、友達でも、恋人でもいい。彼女の隣にぼーっとして一緒に座っていられる誰かが。

 

同年代でなくても、異性同性関係なく、彼女に共感して、色々な世界を共有できる人がいた方が良い。彼女と同じ病棟にいた時は、自分ももしかしたらそんな存在になれるかと何度か幻想を抱いたが、今もあの頃も私にはそんなことができる器量はおそらくない。それに、そもそも彼女はそんなこと望んでいないだろうし。

 

自分のことですら満足にできない私、家族とすら一緒に住めない私、愛とは一体感なのかわからない私。

 

いい歳こいて愛だの、夢だのと言った言葉を多用する自分も少し恥ずかしいのだが、素朴な疑問

 

表現しない愛とは何なんだろうか?
愛は表現しないで存在する意義があるのだろうか?

黙って愛していて、それって愛するってことなのか?

 

ここでいう愛は、恋愛だけじゃない、友達同士の愛、神の愛、家族の愛、愛着の愛、

 

愛情表現という言葉があるが、残念ながらこの世に溢れ、ありふれている愛情表現は大半がエゴイズムの発露と同義になっている。
無償の愛情なんて都合のいいものは残念ながらこの世にあまり存在していない気がする。
神の愛すら、商売の種に使われている場合の方が多い。でなけりゃ教会、寺、神社になんてカネを取られるおぼえはない。しかし、不安だし、愛が欲しいから、代金としてじゃなく、心付けと言いながら教会、寺、神社にカネを払う。


そして、家族の愛は一番損得に汚い。カネの損得じゃない形をとっていることが多いので見えずらいけど、家族の愛は安心を引き換えにしてやり取り、表現されている。自分の安心ではなくお互いの安心の場合も多分に含まれている。

 

黙って愛する

 

これができたところで、じゃあその愛って何なんだろう。

 

本当はこの、

何なんだろう?

が一番本当の意味での愛という単語のニュアンスに近いのかと思うのだが、身の回りの愛は大抵何かの天秤に乗せられているから、本当の意味すらわからない。

まあ、自分の家族も満足に愛せていないおまえに、

何が愛

なんて言われたくないよと言われそうだが、

カネ
安心
対価
存在意義
意味

とかがない場所に愛が存在するということを是非感じてみたい。

上記のものと関わりがない、まだ見ぬ

真の愛

というものを、私たちは知覚できるのであろうか?

それがワカラナイ。

 

だから私の言葉は虚しく宙を彷徨う。そのこと、宙を彷徨っていることを彼女に言うことは、なんだか裏切るようでできない。それに、愛を知っていたり、彼女の力になれる器量のある人が現れるまでなら私も力になりたい。

できるもんなら俺は千手観音になりたい。みんなに奇異の目で見られる千手観音。何のために行動しているのかが、周りからはてんで分からない千手観音。
気持ち悪い、気持ち悪いとみんなに言われても、誰かの糧になるようなことをしたい。かなこちゃんの糧になるようなことも。

 

僕も、彼女の言うストーカーみたいな気持ち悪い感情を持って歩いているんだ。それは君に対してだけじゃなく、この世界で手に入らないものいろいろ、失ってしまったもの。失うかもしれなくて必死にしがみついているもの。

そういうものにすがりつこうとしている。君の言うストーカーみたいなことだ。

 

けれども、私を救うのはその対象が多岐にわたっていること。ギターであったり、トランペットであったり、レコードであったり、カメラであったり、写真集であったり、小説であったり、好きな女の子たちであったり、かけがえのない友人であったり、妻であったり、娘であったり。

きっとこれから、かなこちゃんも多岐にわたるすがりつく対象が現れる。相手は人じゃなくたっていいんだ、ものだって、概念だって、観念だっていいんだ。

 

そしたら、そのストーカーみたいな自分がいろいろ分岐していって、危ういバランスを取り始める。僕の場合はそうだ。そして僕の場合はやっぱりまたストーカーみたいなことをして、相手に縁を切られたり、喪失したりしている。それって別に特別変なことじゃないんだ。たまたまあんまり身の回りにいないだけなんだ。変なことには変わらないかもしれないけれど。

 

ガラクタや、ギター、トランペット、レコード、写真集、昔のがールフレンドにもらったもの、憧れの女の子が描いた絵、そんなものに囲まれて埋まってしまいそうな部屋にいてこれを書いている。ひょっとして君に読んでもらえるんじゃないかと思いながら。

 

そして、君じゃなくて、僕や君を全く知らない誰かに読んでもらって、僕の悩みのバカバカしさや、世界の構造のバカバカしさや、そういう我々の愛おしさを感じてもらえるように。

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コメント: 1
  • #1

    Kimberly Hirano (火曜日, 24 1月 2017 16:25)


    Hey, I think your blog might be having browser compatibility issues. When I look at your website in Ie, it looks fine but when opening in Internet Explorer, it has some overlapping. I just wanted to give you a quick heads up! Other then that, superb blog!