病気のせいで、行きたくない場所に連れて行かれることがあっても、時として別のものが別の世界へと誘ってくれること。

私のことばかり書いたところで読んでいただいているひとには面白くないのだが、また私事です。

 

重篤ではないが心の病を抱えてしまってから(重篤かどうかはよくわかりませんが)世界の見え方が病気のせいでかなり変わって見える。何も面白いこと、良いことがないクソみたいな場所だと思うときもあるし、世界ってなんてすばらしんだろうって思うこともある。これは、病気にかかわらず、誰もが多かれ少なかれ感じるのかもしれないけれど、そのダイヤルの回る角度が極端になりすぎて、自殺しそうになったり、一晩中飲み明かしたり、頭がギンギンになったりする。

 

今日はそんな話。

ニールヤングの音楽が好きだ。特に彼のライブパフォーマンスは素晴らしいと思う。崩れ落ちるような音の応酬、喘ぎながら叫ぶような歌。彼のスタイルはパンクでもハードロックでも、グランジとも言えなくもないし、それらとは確実に違うものなのだが、しかしその激しさ、暗さ、異世界に連れてかれるような感覚は、単なるロックの枠には収まりきらない。きっとそれが、ニールヤング独特のものなんだろう。

 

彼の黒いレスポールから出てくる音は私たちを異世界に連れて行く、この世界が地獄のようで、灼熱のようで、凍りついているかのようで、トランスと言う言葉が正しいかどうかは不安だが確かにこの世界に生きている通常の感覚では感知できないものすらニールヤングの音楽世界は持っている気がする。酒を飲んだり、ドラッグをやったりするとそういう感覚を得れれるのかもしれないけれども、今の私はそういうものを摂取できない体だから詳しくはわからない。一つ分かるのは、音楽というものも私たちを違う世界に連れて行ってくれること。その力は、それほど強くはないんだけれど、耳を傾けて、その中に入っていこうとすると感じられる。すべての音楽がそうではないけれども、神経を研ぎ澄ませると色々な感覚が音楽の中に隠されていることがわかる、そしてそのうちの幾つかはあちらの方から差し出されている。

 

心の病気で感覚がおかしくなっている時(自分ではわからないのだが)はそういう感覚がシャープになったり、逆に何も感じられなくなってしまう。薬の影響で、感覚がすっかり鈍ってしまうこともある。しかし、音楽は常にそこにあり、私たちをその世界に誘おうとしていることに変わりはない。だから、病気を患っていても、音楽の向こうの世界は確かに存在している。

 

テレビを持たない私はテレビドラマや映画にもそういう世界が隠れているかどうかはわからない。かつては読書が好きだったから、本の中で特別な作品にはそういう向こうの世界の感覚が隠れていることは知っているが、今の私は読書をするほどの集中力はない。

集中が続いても約30分、でなければ普段は15分も同じことを続けてられない。同じことを続けられるのは、こうしてブログを書いている時と、楽器の練習をしている時。そういう時は、自分の体や、自分の気持ちと向き合いながら、同時に自分から自由になれる。文章を書いている時は、自分が何か別の存在に慣れているような気分になれる時がある。それは楽器を演奏している時も一緒。ただ、楽器は自分の体と密接につながっているので、自分の体の制約が集中を邪魔することも多い。楽器はもしかしたら何もしていない時よりもストレスを感じさせられているかもしれない。できないこと、思うようにいかないことがたくさんあるからだ。しかし、弾いていると、音楽の向こうにある世界につながっていく感覚を時々得ることができるのだ。

 

1日のうちそういう感覚で居られる時間は限られているし、もちろん毎日はできない。しかし、病気のせいで心がふさいでいたり、逆に舞い上がっている時、ブログを書いたり楽器を弾くことによって、病気とは違う力で私を別の世界へ連れて行ってくれる。そのどちらも叶わない時は、ニールヤングを聴いている。