自分と他人の接し方というものは、義務教育が始まるずっと前から教えられてきた気がする。人のものをとってはいけない、人の嫌がることをしてはいけないとかそう言った基本的なこと。そして、中学高校になるにつれて少しずつそれの応用問題をやった。いじめ、いじめられ、見て見ぬ振り、優しさのこうり。妬みの扱い方も20歳前後に学んだ。
私は今36歳であるが、ここにきて、またその基本的なところから分からなくなっている。
今日はそんな話。
しばらく病気の症状が安定せず、そのせいもあって自分の感情に随分引っ張られた。自分とは一体なんなんだろう。他人とはどう接していけばいいのだろう。生きているだけで体は勝手なことをどんどんする。感情をコントロールすることはおろか感情にコントロールされる。
誰にでもあることなのかもしれないが、この誰にでもある感覚が私から消えていくことはあるのか。
人と接する時に私たちは自分の姿を知る。自分一人で自分を見ていても見えないところだらけだ。自分をうまく見えている人なんてそうたくさんはいない。例えば、音楽や文筆活動、制作活動等で自分の姿を見える人もいるのかもしれないが、私は自分の撮影した写真、自分が選んでプリントした写真を見ても自分なんて見えてこない。自分が見えるようにやっていないこともあるのだろうが、写真なんてものはそんなに人間のためになるようにはできていない。ダゲールだってニエプスだってそんなことを期待して写真技術を発明したわけじゃないんだろうし。音楽だってそうだ、私は甲冑を着る代わりに音楽をやっている。やっていると言ってもひとに披露はしていないが。
やはり、対人関係はそういうところシャープにわかる。人と接することによりひとに迷惑かけて嫌われたり、ひとに喜ばれたり。そういう反応をもってして自分の姿が浮かび上がる。偽善的で独尊的な人間らしい自分の姿が。ひとに感謝されるようなことをやるときは、それを見せつけてはいけない、とイエスは言う。(マタイ福音書より)しかし大抵の人はそんなことはしない。これ見よがしに人に善意的な何かを擦り付ける。だから良いことをやる前に自分の心は良いことをした気分でいっぱいになる。人に悪いことをするときはもっとはっきりしている。相手にばれないようにやるときも、相手に見せつけるときも、自分の心の中ではこれでもかと感じ取る、相手のリアクションを。
その感覚が少し壊れてしまっていた。人が何を感じているか、全くわからなかった。今でもわからないのだが。人を喜ばせているのか傷つけているのか、何も見えないまま自分の大きく動く感情を相手にこすりつけていた。
壊れっぱなしならまだいいのだが(いや、それなら一生病院か)、たまにうまいこと治るのである。だからそういう時には
あーやべー、嫌われた!
とか
あー、なんてひどいことをしたんだ。絶対恨まれている
とか思っていたのだ。感情にコントロールされている時はほとんど人にいいことはしない。嫌がられることばかりしてしまう。もしかして、私たちの本能には人に嫌がられることをしたいという欲求がプログラムされているのか?誰かに喜ばれるようなことはほとんどしなかった気がする。利己的お人好しなタイプの私でも。
そうして、感情を薬の力でぐーっと押さえつけて一ヶ月が経った今、だんだん見えてくる。感情をコントロールできなくなっていた私がやっていたことを。
たまに修復できていた感覚はあながち間違えではなかったのかもしれないが、やはり少し違っていたのだろう。今になって、なんであの時あんなことをしたんだということに悩まされる。朝から一日中追いかけられる。独りになってタバコに火をつけて、後悔にのたうちまわる。なぜあの時あんなことを言ったのか。なぜあの時あの人が言ったことに素直に反応しなかったのか。
もちろん、私の周りの人間だって天使ばかりじゃない、自分の落ち度を私に塗りつけようとする輩もいる。私を利用しようとする奴もいる。けれども。それを越して、なぜ私は気付かなかったんだろう。
やってしまったことはもう収拾がつかないとしても、罪の意識は消えない。
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