私が学生の頃だからもう10数年前のことなんだが、サークルの先輩が、
おい、お前、こないだ赤坂Bフラットで凄い奴がセクション吹いてた。ソロも吹いていたが、一人だけやけに音がでかいんだ。
全然マイク通さないでも音がぶっ飛んでくるんだ。
と私に話してくれた。松島啓之のことであった。
その「凄い奴」はすでにJazz Lifeなんかに載っていて有名だったから、
ああ、松島啓之ですね。なんか、リーモーガンの再来って言われてますよね。
とか言って、お茶を濁した。
松島啓之の演奏は一度も聴いたことはなかったが。
そのまま、時は十数年過ぎて、世の中にYou Tubeという便利なものが現れた。その You Tubeで類家心平の動画を見ようとしたら、そこに松島啓之が出ていた。野球帽をかぶっていたので、ああ、松島啓之だ。とわかったが、初めて聴くも、パソコンのモニターから聞こえるYou Tubeの悪い音質だったので、そして、トランペット2本だけ、リズム隊なしのデュオの演奏だったので、松島啓之がどんなトランペッターなのかはどうもわからなかった。
後日、松島啓之のトランペットを聴いてみたくなって、とりあえず彼の古いアルバムを買って聴いてみた。
確かに、リーモーガンの再来なんて言われるのもわかるようななんだか威勢のいい、パリッとしたトランペットだった。けれども、バラードなんかを吹くとちょっとオールドスタイルのジャズを思わせる柔らかくまるい音符が登場して、どうもこりゃ、リーモーガンってのとも違うな。リーモーガンの頃のハードバップのスタイルで吹いたりしているけれど、本人はもっと古いジャズも好きなのかもしれんなあ、などと思いながら聴いた。The Song is Youというワンホーンカルテットのアルバムだった。
リーモーガンが早口の江戸弁でまくしたてるように吹くのに対して、このアルバムでの松島啓之は、時々江戸弁が登場するが、青森弁も喋れるみたいな感じだ。彼の本当の目指すところはきっとリーモーガンじゃないな、と思った。アルバム自体、リーモーガンのアルバムのようなクドさはないし、むしろリズムセクションは控えめな感じすら受ける。
まあ、アルバムについてはこんなところなのだが、
今日、このアルバムを聴いていて、音楽を聴くことそれ自体と、音楽を知覚すること(認識することといった方が正しいかな)ってどういうことなんだろうか、聴くことと知覚することに隔たりはあるのか、なんていうことを考えた。
今のところ私の仮説なのだが、音楽を聴くことと、知覚することは本質的には隔たりがない。たとえそれが初めて聴く音楽であっても。聴くということから、知覚することまでは、先が広がり、少しずつ薄まっていき、幾つかの段階があるのだが、その段は厚手の布をかぶせた階段のような曖昧な段になっているというような気がする。
言葉でうまく説明できないので、例を挙げてみよう。
例えば、松島啓之のこのアルバムを聴いている時、ああ、かっこいいな。なんて思う。今のとこのフレーズかっこよかったな、なんて思う。
そこに誰かがやってきて、それでは、そのフレーズを今口ずさんでみろ。なんて言われたら、ジャズの複雑な音使いにあまり明るくない私は、口ずさめない。何度なく、心の中では歌えるような気がするが、音符やリズムがよくわからないので、口ずさめない。
この時点で、私は音楽を聴いて(楽しんで)いるのだが、知覚しているとは言えないかもしれない。
それじゃあ、次の日、お昼休みにコーヒーを飲んでいると、昨晩聴いたこのアルバムの一部が、心の中で、ありありと、浮かんできたりする。記憶なのか何なのかわからないが耳の内側で昨日のアルバムが鳴り響く。なんていうことがある。
こういうことはいつもあるわけじゃないけれど、時々あり得る話だ。この時点で、音楽を聴くということそのものから、知覚なのかなんなのかはわからないが、聴くということ以外の何かの行為に進んでいる。
それでは、その耳の中で聴こえてきたフレーズを、ギターで採ってみよう。ということになったとする。
運良くなんだかこのフレーズがコピーできたとしよう。
そうすると、昨日は聴いた時は歌えなかった(であろう)フレーズが、今度は口ずさめるようになる。
まあ、私はあんまり音感が良くないので、たいていの場合はそのフレーズはコピーできないんだけれど。
それでも、たまに、耳の中でリピートするその音を頼りにフレーズがコピーできることもある。
フレーズを口ずさめるようにまでなったら、かなりのところまで知覚したと言っていいのではないだろうか。
上のような音楽の体験は誰にだって(音楽を好きな人なら特に)起こりうるだろう。ライブを聴きに行ってこんなことがあることもある。
それでは、戻って。
音楽を聴く、ということはどういうことだろう。
私は、哲学とかにあまり明るくないので、音楽を聴くということが「何だ」と説明する言葉が出てこないのだ。いや、これは哲学とかじゃなくて、脳とかについて考える方の人たちの領域なのかもしれないが。音楽を聴く、ということそのもの自体は何かを受け取るという行為ではないのではないか。音楽的理論でもって、その音楽を「読解」できたとしても、音楽を聴いているということのすべてではないし、むしろ音楽を聴くという行為と「読解」の行為は本質的にあまり関係のないことなのではないか。
そんなことを言うと、松島啓之のアルバムのフレーズをコピーできたところで、音楽を知覚するという行為とは全く関係のないことのように思えるが。フレーズをコピーすることで、その音楽を聴いたという経験をより強固なものにはなる。
モノマネ、というものが、その元ネタを見た経験をより強固なものにするだけではなく、時にして見てもいないものをすでに見たと思わせるように、音楽をコピーすることは、聴いたという経験をそして聴かなかったものまでもを浮かび上がらせることがある。
そして、聴くという行為そのものだけでは、いくら真剣に聴いたとしても、私たちは何も受け止めないかもしれないし、その時限り永久に失われるかもしれない。音楽を聴くという行為自体にその行為をした何の確証もない。
あるいは、繰り返し聴く、という行為が、聴くということを強固にするかもしれない。しかし、同じ音楽を繰り返し聴く、ということで音楽を記憶できるかもしれないけれども、それは音楽を知覚するということに必ずしも結びついているわけではないのではないか。
なんだか、わけのわからないことを考えてしまったのだが。
おそらく、松島啓之のアルバムが、私にとってちょうど
「わかりやすいが、ほどよく、ほんのりとモダンな香りのするJazz 」
だったからではないか。
松島啓之のこのアルバムって、どうも「優等生な、リーモーガン」にちょっと古き良きJazzを混ぜました、って感じで、いかにも「スイングジャーナル推薦盤」とかになってそうな感じがハナにつくんだよな。
いや、いいアルバムですよ。そういう危なげのない音楽っていうのも、私たちの生活には必要ですから。
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