その他(バイク等)について

このページでは、時計、音楽、写真に分類されない身の回りの物たちについて語りたいと思います。

アメリカンのバイクが欲しい!!

2016年

11月

22日

問題は、もう彼女が死んでしまったっていうことなんだよな。

私たちは100円の為にでも自殺しうる。問題はその理由そのものではない。いかに切羽詰まっているかなんだ。

 

例えば、100円が原因である人からの信用を失い、その信頼が回復できそうもないことに気づく。その人の信頼は自分の生活にとって要である。その人の信頼を失うことは、自分の生活を、自分の未来を、自分の築き上げてきた過去を失うという状況になった時、自殺という出口を選ぶこともある。

 

今日はそんな話。

ヤフーのニュースで電通の社員だった25歳の女の子が自殺したと読んだ。詳しくは読んでいないが、なんでも東大を出て、電通に入社したこと、自殺する前は働き通しで殆ど休んでいなかったこと、父親を幼い頃に(だったかな?)亡くしたこと、容姿が優れていたことなんかが書いてあった。

 

このニュースを受けて、電通で過重労働、長時間労働が日常的に行われているんじゃないかの調査をやっているという話を、これまたヤフーのニュースで読んだ。

 

過重労働を減らす努力をすることも、それなりの効果はあるかもしれないけれども、問題の本質はそこではない。

 

過重労働を減らす業務をやるのは人事部門とかになるかと思うが、人事部門の仕事は「それらしい数字を作る」ことに陥る、つまり実態を反映しない事実を作り上げることになるかもしれないし、過重労働、長時間労働が減ったところで自殺者が減るかというとそういうわけでもないだろう。そこで、残業時間が減った頃に、出てくるわ出てくるわ自殺者なんて数字は作ってこないだろうし。

企業の「正しい」行い、「正しい」方策が、自殺者そのものを見えなくしてしまう。

 

今回の件で、私がフォーカスしたいのは自殺者本人だ。もう死んだんだから、会社からは自由にしてやってくれ。

 

どんな会社にも自殺する奴はいる。

どんな会社にも働き通しで殆ど休んでない奴はいる。

 

これは電通に限った話ではない。

そして、この2つの事実の相関関係を考え、会社を変えるだけでは今回の女の子は救えないかもしれない。

 

私が学生時代派遣社員としてアルバイトをしていた会社には、一週間以上自宅に帰らず、青白い顔をしながら現場に指示を出す鈴木課長という方がいた。また、私のかつての職場の同僚は、元公安関係の仕事をしており、その頃は年に10回も自宅に帰れなかったと語っていた。

 

しかし、彼らは、自殺もせず、なんとかやっていっていた。

この種の人間は、私が今まで働いていたどの会社にもいた。程度の差こそあれ。彼らは踏んでも死なないゴキブリのように、ガレー船に乗せられた囚人のように、何だか汚い格好をしながら会社に生息していた。特に気の毒にも思わなかった。

 

では、電通の女の子に起こった問題の本質は何だろう。

 

私は(一つの仮説だが)、「自殺をもってして初めて脱落が許される」というように世の中(会社も含め)を認識すること、そのようにしか考えられないことが、いけないのかもしれないと思っている。

 

例えば、私のように大して仕事が忙しくなくても、生活(仕事を含めて)から脱落したくなる時がある。実際、今年の夏の初めのある夜に、

 

「このままでは全てを失ってしまう、今の生活をやめる為には死ぬしかない。自殺しよう」

 

と思い、死に場所に決めた代々木上原で千代田線を降り、自殺を思いきれず躊躇っているところを警察に助けられ、翌日から入院したりした。

 

実際にあのときに自殺をしてしまっていたら今頃家族が路頭に迷っていたであろう。しかし、あの時は家族のことなんて一つも思わなかった。ただ、死ぬのが怖いから躊躇っていたのである。死の恐怖を吹き飛ばすために、睡眠薬(なぜ睡眠薬だったかはわからない)とウイスキーをしこたま飲んだが、やっぱり死にきれなかった。私は踏ん切りをつけれない人間なのである。

 

電通の彼女も、相当切羽詰まっていたんだろう。仕事の忙しさから逃れたかったのかもしれない。もし、仕事を病欠したり、ズル休みしたら仕事を失ってしまうかもしれない、面倒を見てくれてる先輩に迷惑をかける、夢に見た未来羽が崩れ落ちてしまう。とか、今までお世話になっていた人に迷惑をかけてしまう。大学まで卒業して、電通に就職して安心している親を裏切ってしまう。とか、就職の面倒を見てくれたOB、大学の先生に迷惑をかける。と思っていたのかもしれない。あくまで想像だが。

 

そして彼女の場合、何らかの方法で今の生活を抜け出すこと(会社を休むとか、田舎に帰るとか)により失うものが、自分の死よりも重かったのだろう。

 

私は、失うものが死よりも重いのであれば、自殺すればいいと思う。もしくは、死なずにその生活に耐えるかのどちらかなのだから、死によって救われるなら、それでもいいと思う。

 

しかし、何も確証されない未来のために、恩着せがましい連中(家族とか、先生とか、先輩とか)の為に、社会における自分自身というどうでもいい存在の為に、死を天秤にかけることはない。

彼女がたった五分でも、「死」以外の脱落の方法を考えることができたら。いや、きっとそんな余裕はなかったから、「死」以外の脱落の方法を一つでも常日頃持ち歩けていたら、死なないで済んだかもしれないのに。

もしくは、自殺しか考えることができなかったなら、もう少し死ななそうな自殺の方法を選んでいたら死なずに済んでいたのに。

 

電通の彼女はその脱落の方法を知らなかったのか、思いつかなかったのか、もしくは、私のように病気だったのだろう。

 

私も含めて、人は自殺しようと思うほど切羽詰まってしまうと、自分の脱落の方法を一つづつ消していってしまう。

 

「これはダメだ、あの人に迷惑をかけてしまう。」

 

「これはダメだ、私の人生がめちゃくちゃになってしまう。」

 

「これはダメだ、娘に会えなくなってしまう」

 

そして、彼女の疲れが、彼女へのプレッシャーが、彼女から考える力を奪ったのかもしれない。特に、高学歴でいい会社に勤めてたら自分への期待や、「期待されてるだろう」と勝手に思っているものもたくさん抱えていたんだろう。だから、そういうのをうまく捨てて脱落する方法を思いつかなかったのかもな。

 

こういう問題は、政府とか企業とかに取り組みを求めても仕方ないことだと思う。(まあ、政府や企業が全くないもしないというわけにもいかないのだろうが。)

 

何故なら、企業自身が、やる気を持って会社に貢献している人、だとか、プレッシャーに耐えながら頑張っている人(今は貢献してなくても将来貢献してくれそうな人を含む)だとかが、その戦線から脱落する方法を本人たちに教えたいとは思わないだろう。企業は「働きやすい社風」とか言いながらその実うまいこと従業員にプレッシャーをかけて、そのジュースを絞り出すのだから。ジュースを絞りつくさないようにする匙加減できる会社と、絞り尽くして従業員の8割ぐらいがいなくなったところで、何の損失もないっていう会社ばかりなのだから。

 

政府だって、そういう企業のおかげで成り立ってるわけだし。

 

だから、この問題は本来なら学校教育に解決を求められないのかもしれないけれど、カリキュラムとかそういう堅っ苦しいことじゃなくて、人生を生きて来た先輩として、学校の先生は生徒に教えてあげてほしいな。うまい脱落の方法を。

 

「お前、甲子園なんていけなくたっていいんだぞ、卓球だって楽しいぞ」

 

「お前、学校なんてドロップアウトしていいんだぞ」

 

「お前、いじめが辛かったらギャングにでも入ってみるといいかもしれんぞ」

 

「お前、学校の勉強ができなくても、できる仕事なんてたくさんあるんだぞ」

 

「お前、就職なんてしないで結婚して主婦になってもいいんだぞ」

 

「お前、世の中女の子ばっかりじゃない、男の子もいるんだぞ」

 

とか、身近なところから切羽詰まった状態からの脱落のしかたを教えてあげるといい。常日頃、脱落のしかたを身に染み込ませるようにすると、もう、どんな時でも脱落できちゃう。

 

「俺、明日会社辞めて、出家しよう」

 

「俺、嫁さんにゲイだってカミングアウトしよう」

 

そんな感じで、切羽詰まったらどんどん脱落。ポジティブな脱落、明日生きるための脱落、シャボン玉のような夢見る涙。

 

しかしまあ、これ、一長一短で、切羽詰まりそうな不器用な連中がみんなそういう風に器用に生きることのできる世の中になると、みんな中島義道みたいになって、これはこれで、収集つかんくなる可能性があるはな。

 

しかしな、電通なんて何百人もいる会社で、たった一人のその子が脱落上手になったところで、体制に影響ないと思うな。

 

俺は、毎日自殺する何百人って人を救いたいわけじゃないんだ。電通の彼女一人を救えなかったことが悔しいんだ。だから、会社に3人ぐらい中島義道みたいな半グレ、半ルーザーはいてもかまわない。そんなこと、一人の若い女性の命と天秤にかける価値もない。

 

問題は、もう彼女が死んじゃったってことなんだよな。

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2016年

11月

18日

ほぼ意識の失せた死の床で「言葉にならんもんは、わかんないよなぁ」と呟いた祖父

論理とか因果関係とかによって、この世の中のものはどのくらい語り得るんだろう。

 

まあ、語り得なくても構わんものの方が多いのだが。

 

例えば、じゃあ、自分にとって切実なことは言葉なんかを通して、何らかの論理で語り得るんだろうか。

 

例えば、

 

どうやったら気持ちいいんだろう

 

とか、そういう問題は言葉によって語り得るのか。何らかのロジックで解決するのだろうか。

果たしてそういうことは言葉によって語られるべきことなんだろうか。それとも、言葉だけではなく音楽やら、絵画やら、映像やらも含めてカバーされる(「語られる」)ことなんだろうか。

 

どうやったら気持ちいんだろう

 

という問いかけはちょっと曖昧なんだが、気持ちよくなるように生きている(快楽原則?)みたいな話だけでなく、不要に気持ちいことだってハプニングとして起きるわけだし、そういうのも含めてどうなんだろう。

 

ここで、「気持ちいい」という言葉の定義がうんちゃらかんちゃら、とかそういう話をしようとしているのではない。「気持ちいい」という言葉が相応しくはないのかもしれないが、「なんだかこれは良い、私はこういうことやっているの好きかもしれん」なんて思えるのって、どういうメカニズムだとか解明できるのか。それは言葉とか意味とかによって語ることができるのだろうか。

 

 

祖父が痴呆で長期間入院していた。

もう15年以上前だ。

その際に、彼は病室の什器備品をしょっちゅう分解したり破壊したりしていた。暖房やら、ベッドやら、キャビネットなんかを器用に分解(壊して)は看護婦さんを困らせていた。壊しちゃったわけだから、まあ家族である私たちも気まずい思いをしていた。

まだギリギリ言葉を話せた彼は、「治している」と主張していた。

 

それは幾度にもわたり、高校生だった私なんかは、もう、こりゃしかたねえなと思っていた。

 

祖父と同室だった比較的頭がまともそうだったボケ老人たちは祖父について

 

「この野郎、とんでもねえ野郎で、悪い奴なんだ」

 

と、仰っていた。

 

祖父は痴呆になる前は大工をやっていた。いや、やっていたらしい。私の覚えている祖父は、もう大工を引退して自分のアトリエ(作業場?ゴミ溜め?)にこもり、機械いじりなんかをやっていた。

 

大工だったせいか手先が器用で、ごみ捨て場や知り合いから壊れた自動車やら壊れたテレビやらをもらってきては治していた。もっとも、毎日のように何かをもらってくるので、もらってきた物のおそらく1割ぐらいを治していた。治して、満足するらしく、ほとんど使っているところは見たことないし、人にあげたりしているところを見たこともない。

 

一度だけ、祖父の治した日産のスポーツカーに乗せてもらったことがある。白くてツードアだったが車種がなんだったかは、当時幼かったのでよく覚えていない。エンジンとかトランスミッションとかそういうメカのところにしか興味がなかったのか、シートなんかはついていなかったり、内装は壊れたままだったりしていた。ラジオは聞こえていたが、果たしてはじめっから壊れていなかったのか、治したのかはわからなかった。たしかナンバーはついていたと思うが。

 

そういう、治っているとも、ぶっ壊れているとも言い難いガラクタが、家の周りを囲っていた。自動車四、五台、テレビたくさん、換気扇たくさん、便器やら蓄音機やらなんやらがたくさんあった。

 

だから、入院中の祖父にとっては、暖房器具をいじったりするのもその延長線上だったのだろう。そういえば、入院する前ほんの短期間私の実家で同居していた時も、かなり痴呆が進んでいたが、毎日のように何かを拾ってきて、私がそれを捨てに行った。もう、独りで出歩くと帰ってこれないぐらいボケていたし、まともに言葉も話せないくらいボケていた。

 

酒を飲むときと、酒を買いに行く時だけはしっかりしていて、一度私は、彼が外出した時に監視役として同行したが、家を出て迷うことなく酒屋に向かい、店に入り、

 

「焼酎。30度」

 

と店員に告げ、金を私に払わせ、酒屋を出てきた。普段は飯も一人じゃまともに食えないし、「散歩」とか「アー」とか「ウー」としか口から出てこないのに。さすがにこの時は驚いた。

帰り道は私がガイドしなければ帰れなかったが。

 

痴呆になるとゴミを拾ってくるようになるというが、きっとそういう問題じゃなく、彼はかなり若い段階から修理できそうなもの(ゴミ)を拾ってくる習慣があったようだ。

 

入院して数年が経ち、祖父の痴呆はかなり進み、体力も落ちた。

言葉もほぼ全く話せなくなり(話すのがめんどくさかっただけかもしれんが)、自力で体を動かすのも怪しくなり、身の回りのものに触れることもできなそうな状態になった。

 

それでも、彼はベッドやらを壊そうとしているようなそぶりを見せたりしていた。

 

程なくして、ついに寝たきりになり、意識もはっきりしなくなった。

その死の床で祖父は、とても出来が悪く、きたない

 

「枝にカタカナで「ジュテーム」と刻まれたフランス製の傘」

 

を完成させ、程なく他界した。

 

生前、彼が私に舶来品の良さを語ってくれたことがある。祖父が実際に舶来品を使っているところはほとんど見たことがなかったが、少ない言葉で静かに語ってくれた。

 

「フランス製のものはだいたいが日本製なんだ。日本製だからよく出来ているんだ。」

 

と言っていた。

彼は国産品の良さをよくわかっていたのだろう。いろいろなものを分解してきたから。だからそんなことを言ったのかもしれないなんて思った。

 

「舶来品が国産品よりもいいわけがない」という思想を「舶来品がよく出来ているのは国産品だからだ」と言い換えていたのかもしれないと思ったりもしたのだが、その実、そういうわけでもなかったのかもしれない。死の直前に、祖父が残したものからは舶来品に対する絶対の信頼を伺える。

 

そして、意識が失せかけた後も、ものづくり、というか再生、と言えばいいのか、もしくは破壊というべきなのか、をほぼオートマチカリーに続けさせた何かを感じ、何をして彼を動かしているのかと不思議に思った。

 

今にして思えば、最終的には祖父自身も、周りの人間にもわからない切実な何かが祖父の中にはあったのだな。

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2016年

10月

30日

吉原芸術大サービス

今日は家族で吉原に行った。
吉原という町はまあ普通に考えて2歳の娘と妻を連れてわざわざ行くような街ではない。30代の男性にとってはまあ素晴らしい場所なんだろうけれど。

 

吉原芸術大サービスという、まあ何が大サービスという呼称なのかよくわからないと思うけど、そういうイベントに行ってきた。
このイベントは近年毎年やっているらしく、この界隈ではそこそこ有名なイベントなんだが、私は今年初めて行ってきた。

 

 率直な感想。なかなか楽しかった。

私は所謂芸術というのには明るくないし、普段作家さんの展示とかは行かないのであるが、そういう私でも楽しめた。作品のバライエティが程よく豊かで、それでいて散らばり過ぎていないからだ。
作品のクオリティ?完成度?(クオリティという言い方よりもパッケージ化されているかどうなのか?というということかな。)はそこそこまちまちなんだが、完成されてるな、と感心させられる作品も、少々荒削りな作品もそれぞれ楽しめるのだ。よくわからんが、いいなぁとか、これ生々しくていいな、とかこれ、会場うまいこと使ってるな、とか思うのだ。

 

全部が良かった、とまでは言わんが、私がいいと思わなかった作品やパフォーマンスだって、好きな人には響くのかもしれない。私はそこまではわからない。けれど、大サービスと銘打っているのはさすが、サービス精神とは違った大盤振る舞いさがあって納得した。

熊倉なんとかさんという人のぬいぐるみの絵が良かった。飾ってある場所がさりげなく、いい場所というのも良かった。
マミヤの二眼レフのファインダーに映るやつのも良かった。
ホテルの暗い部屋のやつも良かった。悪い酒ばっかり飲んでる小説家が泊まってるホテルの部屋、夕方に彼が出て行った後の部屋のようで良かった(あんまりネタバレするのは良くないな)
神社の壁面の林さんという人の絵も良かった。シンプルとは全然違うが胸にするっと入ってくる絵だった。死んだらああいう空間に埋葬されるのも悪くない。骨がなくなるまで十分に焼いて、あの神社の横の排水溝にでも撒いていただければいい。

 

吉原という町が良かった。よし、吉原に脚しげく通おう、と思わせられないところが良かった。

近所の皆さん、きっと私が言わなくても行くと思うけど、行ってみる価値あります。明日(日曜)までです。オススメです

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2016年

10月

29日

母さんへ

今日は家族で吉原に行ってきた。

 

そのあと、音楽室で楽器を練習した。

そしてダイニングで妻の作ったカレーを食べた。

カレーを食べたら元気が出たので、ピアノでフレディーマーキュリーの歌を真似していた。

 

ボヘミアンラプソディ。この歌は少年の歌だ。

もし少年が少年のままでいれるのなら、そのために人を殺すことも必要なのかもしれない。人を殺した少年はなんとなく大人にならないような気がする。

少なくとも、この歌を聴いているとそんな気がする。

 

お母さんね、今日僕は人を殺したんだ。頭にめがけて、トリガーを引いたら一発だったよ。

お母さん、僕の人生は始まったばかりなのに、今となっては全てが指の隙間から転げ落ちて行ったんだ。

ああ母さん、あなたを泣かせたりするつもりじゃなかった。
もし僕が明日、この時間、戻ってこなくても気にしないで。
何にもなかったみたいに。

 

中略、

 

さよなら皆さん、もう僕は行かなきゃ。
全てに背を向けて現実に向き合わなきゃいけない。

母さん、僕は死にたくなんかないよ。
時々、はじめっから生まれてこなけりゃよかったんじゃないかって考えるんだ。

ああ母さん、僕はいつもあなたを悲しませてばかりなのです。
フレディーマーキュリーのコスプレをしてパクられたり。
大学を2年留年したりして。いつだって母さんを喜ばせたいって思っているのに。

ママー、ウーウーウー

 

 

でも、こういう人生に見切りをつけることが一人の人間としての一歩なんです。
もう母さんを喜ばせようなんて思わないのです。自分の手で金を稼いで、家族を養ってるんですから。
だから、今は必要があればもう一度引き金を引くことだってできます。あなたを泣かせることだって厭いません。
それが悲しいかな、一人の大人になるということなんです。

 

母さん、今日精神病院に入りました。路上で人をぶん殴って、警察に囚われて一発です。
僕の人生はもう半ばに来ているというのに、また振り出しに戻りました。

 

ああ母さん、僕は相変わらずあなたを悲しませてばかりだね。
それだけじゃなくて今は家族も悲しませているんだ。
もし、僕がこのままここを出られなくても、気にしないで。
まるで何もなかったみたいに。

 

母さん。僕は時々考えるんだ。
はじめっから生まれてなんてこなければよかったんじゃないかって。

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2016年

9月

15日

Chet Bakerから学ぶことなんて無くたっていい

Chet Bakerが生前最後のカルテット録音となったローゼンハイムでのライブ録音を聴いている。

Chetは晩年おびただしい数のライブ盤を発表している。私も全ては持っていないがかなりの数を持っており、しばしば聴く。もちろん演奏のクオリティーはまちまちになっているが、さすがトッププロ全てのアルバムでチェットの個性は光っているし、チェットのアルバムに仕上がっている。

 

チェットは時に、自分の楽器すら持ち歩かずにヨーロッパ中をツアーした。その所々で録音を残している。ライブだけでなくスタジオ録音すら旅先で行っていることもある。それらの一枚一枚を聴いていても、やはりチェットのアルバムに仕上がっている。

 

チェットは教材として聴けるようなミュージシャンではないとおっしゃる方もいるが、チェットのトランペットソロは8部音符で丁寧なアドリブになっていることが多く、メロディアスで鼻歌でも歌いやすいのでフレーズをコピーするのは比較的簡単だ。そして、それがどれもチェットのサウンドになっていて、とても魅力的である。だから、チェットのレコードから学ぶものは多い。

 

ただ、チェットベーカーになりきったところで、それはあまり意味のないことかもしれない。なぜなら、チェットは個性的であれ、と言い続けたミュージシャンで、チェットベーカーから学ぶべきことは、誰かのレコードから借りてきたサウンドを演奏してもそれはあまり意味がないことだということだ。模倣するなら自分自身を模倣しなさいということ。だから、私は黙ってチェットを聴く。

 

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2016年

9月

08日

司馬遷との最後の再会

司馬遷と空港で待ち合わせることになった。北京空港。北京五輪のすぐ後だ。まだ五輪の爪痕が残り、空港は清掃はされていたものの壁には傷がいくつも残っていた。彼等は事実スポーツ選手による戦争を嗾けにきたわけだし、仕方無かった。

 

武帝の付き人から左遷され(司馬遷のセンは左遷のセンであるから仕方ない)景徳へ島流しにあっていた司馬遷は人生最後の時間を、私達のような外国人の為の講演会に充てていた。彼らしい人生の締めくくり方だ。景徳からの便はまだ着かなかった。

 

ハンブルグからルフトハンザの747でここに来た私は疲れていた。北京空港に降り立ち、最後のカンパリソーダをパーサーから手渡された時に、機内には静かにビリーボーン楽団の奏でるビートルズのshe's leaving home が流れていた。不意に私の頬に一筋の泪が流れてきた。パーサーは私に大丈夫かと尋ねた。

大丈夫。ただ少し昔のことを思い出したんだ。

 

747のロールスロイスが独特の高周波を鳴らしていた。

 

空港のロビーには今日も人が詰めかけていた。まるで、今は喪ってしまったマイケルジャクソンの来訪を迎えるかのように。

 

また北京か。今回で何度目の北京になるだろう。初めて北京を訪れたのは94年。私は大学を出たばかりで、独り雑誌の取材に訪れた。北京空港は今よりも古い建物であったが、今よりも整っていて、壁には傷一つ無かった。このロビーのバーももちろん無かった。マティーニは無く、カンパリソーダもなく、あるのは安い紹興酒に角砂糖が乱暴に入れられたのと、バカ高いペリエだけだった。

 

あれから二十年弱が経つ。一体何が変わって、何が変わらなかったのだろう。18キロ太った体と、失ってしまった多くの女性たち。その中でも学生時代からの付き合いのあった香織が今はもういない。司馬遷ならなんて声をかけてくれるかな

 

それから一時間程が経った頃、ゲートから司馬遷が出てきた。白いベルサーチのジャージに大きなテンガロンハットに突き出た腹は元気そうに見えたが、顔はげっそり痩せていた。

 

シーロー、久しぶりだな。
俺の顔が見えないようにこの帽子を被ってるんだ。構わないか?
何せこの顔は自分でも参ってしまう。
行こう。
そういう悪魔の飲み物はやめて、日本料理を食べに行こう。日本茶が飲みたい。
香織のことを考えていたな?心配要らない、俺もすぐに香織のところへいくつもりだ。日本料理のテイクアウトを持ってね。彼女は春巻きが好きだった。

 

行こう、司馬遷先生。
俺はまだ彼方に行くには若すぎるから、日本料理屋までは付き合うさ。
約束のコイーバとマイルスデイビスのCDを持って来たよ。

 

司馬遷は力なく笑い、私は彼の大きなスーツケースを引き受けた。
北京、北京なんかに俺は何の用事があるんだろう?俺はいつまでもAn English man in NYなんだろうか。

北京。

 

この街が好きだという奴は少し変わっている。年々排気ガスに覆われ、オリンピックのせいで街も変わってしまった。かつての美しく崩れ落ちた東の町ではなくなってしまった。ベルリンのような壊された秩序も美しいが、それよりもかつての北京は美しかった。赤に彩られたダウンタウン、そのすぐ横にひしめく古い住宅街。

 

これ以上、北京について考えるのはやめよう。

 

司馬遷だって今夜は疲れているんだ。

私はタクシーの支払いを済ませ、ペニンシュラのすぐ横にある日本料理屋に司馬遷と入った。

 

まずは、待たせてしまってすまなかった。

飛行機というものがこれほどまでにダイヤを狂わせたのは出エジプトの時のモーゼが乗った便以来だ。バッドラックな私を笑って許してくれ。

景徳での生活は悪くない。十分な食料。十分にきれいな水。十分とは言えない治安。まあ仕方ない、あそこは流れ者の街だ。いや、今となっては流れ者の国だ。あそこにはあそこでしか通用しない通貨がある。軍隊がある。国土がある。一つの国に期待するものはなんだってある。女だっているぞ。シーローはまだ女には興味があるだろう?

 

そうですね、この歳になってにわかに女性への興味が湧いてきました。司馬先生のおっしゃるような女性ではありませんがね。私は女性の身体に興味があるのです。彼女たちの持つ唯一の実存は体です。そして身体は死とともに永遠に失われる。心には何も期待しません。心は大地に根を張って生き続ける。女性とは本来そういう存在であるわけではないと思います。女性は身体です。

 

シーロー、君はまだ香織のことを考えている。彼女の心が君の心に刺さったままなんだ。シーロー、ツライのはわかる。そして彼女が確かに現存した女性であったことを受け入れることができないのもわかる。しかし、人生は進んでいくんだよ。君の望むと望まぬのとにかかわらず。そして香織はもうここにはいない。彼女はもうこの世界にはいないのだよ。

だから、私はこの世界に永遠のお別れをしてから香織に会って伝える。シーローがまだ君のことを忘れていないと。シーローは今でもハンブルグや北京や、ベルリンで本を書いていると。

 

司馬先生。彼女に会ったらよろしく伝えてください。そして、彼女のあの世界での幸せを見届けてください。私があっちに行く頃には誰かと一緒になれているように。私とは違う、もっと腰を落ち着けて暮らすタイプの男と一緒になるように。パイプの灰が原稿用紙に散って朝日が差して目覚めるような生活の男とはつるまないように。

 

それから司馬先生と3時間ほど話した。ベルリンの変わった姿や、変わらないところ。司馬先生の今回の公演の内容の打ち合わせ(と言っても、私はいつも全てを司馬先生に任せている。司馬遷の前で何を話すべきかなんて話せる奴はいない)。

そして、部屋に帰って、ラタキアを刻んでパイプに詰め、ゆっくり煙を燻らせた。

 

来年の夏はルガノへ行こう。ルガノの湿った熱い風を浴びながら、香織に最後の手紙を書こう。俺もいつまでもここに留まっているわけにはいかないんだ。

そして君もだよ。香織、

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2016年

9月

07日

楽器を弾くようになって初めて良いなと思える音楽に出会えること

音楽が好きで、3000枚ぐらいCDを今まで買ったか。もちろん3000枚の中にはくだらないCDもたくさんあった。今でもそのうちの200枚ぐらいは手元にある。売っても良いのだが、売ったところで10000円にもならないので、わざわざ集めて運ぶのが面倒臭い。

 

手元にある2000枚ぐらいのCDのうち500枚ぐらいは普段からよく聴くところに出してある。そのうち100枚ぐらいはほぼ三ヶ月以内に二回以上は聴く。あとの400枚はおそらく半年のうちには二回ぐらいは聴くだろう。それほど音楽というのは多様だ。その多様さに圧倒されながら、歓び、泣き、聴いている。音楽というのは多様だ。

 

今日はそんな話。

ノーミュージック ノーライフなんて言っている連中もいるが、音楽なんてなくたって死にはしないし、人生は明るい。そうでなければ耳が聞こえなかったら生きる価値もないということになる。私は耳が聞こえなくても楽しい人生を送っている連中を多く知っているし、その中には音楽がすきな連中もいるし、音楽を聴かない(聞けない)連中もいる。

 

私は、中学1年の冬にエレキギターを買った時から音楽との付き合いが始まった。それまでは全くと言っていいほど音楽は聞かなかった。ビートルズに出会ったのがその半年前。それでもあんまり聴かなかった。いまいち良さがわからなかったからである。

 

そりゃ、ポールとジョンのリードボーカル、ジョージのハモりとかなかなかいいなとは思ったが、正直背伸びしてきていただけで何かよくわからなかった。

 

しかし、エレキギターを買った時にわかった。何がわかったかというと、無性にビートルズを聴きたいということ。ビートルズがエレキギターで何をやっているのか無性に聴きたくなった。一体あの音楽の中でエレキギターは何をやっているのか?エレキギターってあの音楽のうちどの音だろう?このプワーンっていうのはエレキギターなのか?このシャラーンていうのはエレキギターなのか?

 

そして、聴き込んだ。耳垢が全然たまらないぐらい聴き込んだ。そしてわかったこと。エレキギターが全てだった。俺がかっこいいと思うビートルズの全てはエレキギターだった、ジョンのJ−160Eも含めてやっぱりエレキギターだった。

 

こういう風に、楽器を始めて聴きたくなった音楽は多い。例えば、ジャズは高校の時にトランペットを始めてから聴きまくった。ジャズってなんだろう?っていう以前に、トランペットを聴きたい、どんな音でトランペットは鳴っているのだろう。それを聞きたくて聴きたくてジャズのレコードを買いまくった。聴きまくった。高校を卒業する頃にはジャズのレコードは100枚ぐらい手元にあった。トランペットだけでなくサックスもピアノもビブラフォンも聴いた、その頃にはともかく、ジャズっていう音楽がどういう風に鳴っているのかそれが知りたかった。結局トランペットを上手く弾くことはできずじまいだがジャズは大好きだ。今はチェットベーカーとオルガンもののジャズしか聴かない。チェットのトランペットとハモンドオルガンの音にしか興味がないからだ。

 

これは音楽に限ったことではない。小説だって、気になった作家やら気になった時代に一体どんな作品が書かれているんだろうという興味から読んで、それで始めて良さがわかるものばかりだ。

 

写真という表現に興味を持ったのも、ストリートスナップの写真を見まくったのも、自分でストリートスナップの写真を撮り始めたからだ。そして、私はその中から、なんでもない静かな写真を撮りたいと思うようになり、なんでもない静かな写真を選んでみるようになった。ギラギラしている写真はあんまり好きじゃない。内堀政夫さんとか桑原甲子雄さんとかの写真が好きで、一番好きなのはロバートフランク。それでもウィノグランドは別格だけれど。

 

音楽よりも、人間の方がこの傾向は強い。自分が今やらんとしていること、今興味があることに関わっている人間にとことん付き合ってみたくなる。そしてそこからその人の良さが見えてくる。時々この順番が逆にもなるが、大抵は自分の興味のあることに関わっている人たちに興味を持ち、だんだんその人たちの中から、ああ、この人のこういうところ魅力的だな。と思ったりする。

 

だから、心のアンテナの張り方がわからない人たちは、とにかくなんでも自分が始めてみればいいと思う。楽器だったり、写真だったり、料理だったり、スポーツだったり。自分でやらないと見えてこない魅力っていうのはこの世の中にたくさんあるし、一度自分の分析ツールが出来上がると、おのずからアンテナは張られる。

 

私の場合、それは13歳の冬のエレキギターとの出会いだった。

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2016年

8月

30日

何事も両立はできないこと。何かをとって何かを諦めることのむづかしさ。

何かをとって何かを諦めるって、私は凄く苦手なんだな。

けれども、ギターに行き詰まったときにトランペットがあるといいし。写真も十年とかのスパンで続けられるなら、何かを残すこともできるかもしれないな。
写真はやめたくない。何故なら写真はカメラさえあれば作れるし、結局それ以上のものはない。写真の意地悪で均質なディテールは、いつも謎めいていて人知を超えて存在する。そして、暗室作業という科学実験の中から浮かび上がる像は、愛とか悲しみといった自分勝手な思い込みに引きずられながらも、全く自由なところに存在する。
写真の色々な側面のうち

作る、ではなくできる

という側面は常に私を自由にしてくれる。
だから、写真はやめたくない

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2016年

8月

29日

自分と他人とは一体何なのか

自分と他人の接し方というものは、義務教育が始まるずっと前から教えられてきた気がする。人のものをとってはいけない、人の嫌がることをしてはいけないとかそう言った基本的なこと。そして、中学高校になるにつれて少しずつそれの応用問題をやった。いじめ、いじめられ、見て見ぬ振り、優しさのこうり。妬みの扱い方も20歳前後に学んだ。

 

私は今36歳であるが、ここにきて、またその基本的なところから分からなくなっている。

 

今日はそんな話。

しばらく病気の症状が安定せず、そのせいもあって自分の感情に随分引っ張られた。自分とは一体なんなんだろう。他人とはどう接していけばいいのだろう。生きているだけで体は勝手なことをどんどんする。感情をコントロールすることはおろか感情にコントロールされる。

 

誰にでもあることなのかもしれないが、この誰にでもある感覚が私から消えていくことはあるのか。

 

人と接する時に私たちは自分の姿を知る。自分一人で自分を見ていても見えないところだらけだ。自分をうまく見えている人なんてそうたくさんはいない。例えば、音楽や文筆活動、制作活動等で自分の姿を見える人もいるのかもしれないが、私は自分の撮影した写真、自分が選んでプリントした写真を見ても自分なんて見えてこない。自分が見えるようにやっていないこともあるのだろうが、写真なんてものはそんなに人間のためになるようにはできていない。ダゲールだってニエプスだってそんなことを期待して写真技術を発明したわけじゃないんだろうし。音楽だってそうだ、私は甲冑を着る代わりに音楽をやっている。やっていると言ってもひとに披露はしていないが。

 

やはり、対人関係はそういうところシャープにわかる。人と接することによりひとに迷惑かけて嫌われたり、ひとに喜ばれたり。そういう反応をもってして自分の姿が浮かび上がる。偽善的で独尊的な人間らしい自分の姿が。ひとに感謝されるようなことをやるときは、それを見せつけてはいけない、とイエスは言う。(マタイ福音書より)しかし大抵の人はそんなことはしない。これ見よがしに人に善意的な何かを擦り付ける。だから良いことをやる前に自分の心は良いことをした気分でいっぱいになる。人に悪いことをするときはもっとはっきりしている。相手にばれないようにやるときも、相手に見せつけるときも、自分の心の中ではこれでもかと感じ取る、相手のリアクションを。

 

その感覚が少し壊れてしまっていた。人が何を感じているか、全くわからなかった。今でもわからないのだが。人を喜ばせているのか傷つけているのか、何も見えないまま自分の大きく動く感情を相手にこすりつけていた。

壊れっぱなしならまだいいのだが(いや、それなら一生病院か)、たまにうまいこと治るのである。だからそういう時には

 

あーやべー、嫌われた!

 

とか

 

あー、なんてひどいことをしたんだ。絶対恨まれている

 

とか思っていたのだ。感情にコントロールされている時はほとんど人にいいことはしない。嫌がられることばかりしてしまう。もしかして、私たちの本能には人に嫌がられることをしたいという欲求がプログラムされているのか?誰かに喜ばれるようなことはほとんどしなかった気がする。利己的お人好しなタイプの私でも。

そうして、感情を薬の力でぐーっと押さえつけて一ヶ月が経った今、だんだん見えてくる。感情をコントロールできなくなっていた私がやっていたことを。

たまに修復できていた感覚はあながち間違えではなかったのかもしれないが、やはり少し違っていたのだろう。今になって、なんであの時あんなことをしたんだということに悩まされる。朝から一日中追いかけられる。独りになってタバコに火をつけて、後悔にのたうちまわる。なぜあの時あんなことを言ったのか。なぜあの時あの人が言ったことに素直に反応しなかったのか。

 

もちろん、私の周りの人間だって天使ばかりじゃない、自分の落ち度を私に塗りつけようとする輩もいる。私を利用しようとする奴もいる。けれども。それを越して、なぜ私は気付かなかったんだろう。

やってしまったことはもう収拾がつかないとしても、罪の意識は消えない。

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2016年

8月

28日

病気のせいで、行きたくない場所に連れて行かれることがあっても、時として別のものが別の世界へと誘ってくれること。

私のことばかり書いたところで読んでいただいているひとには面白くないのだが、また私事です。

 

重篤ではないが心の病を抱えてしまってから(重篤かどうかはよくわかりませんが)世界の見え方が病気のせいでかなり変わって見える。何も面白いこと、良いことがないクソみたいな場所だと思うときもあるし、世界ってなんてすばらしんだろうって思うこともある。これは、病気にかかわらず、誰もが多かれ少なかれ感じるのかもしれないけれど、そのダイヤルの回る角度が極端になりすぎて、自殺しそうになったり、一晩中飲み明かしたり、頭がギンギンになったりする。

 

今日はそんな話。

ニールヤングの音楽が好きだ。特に彼のライブパフォーマンスは素晴らしいと思う。崩れ落ちるような音の応酬、喘ぎながら叫ぶような歌。彼のスタイルはパンクでもハードロックでも、グランジとも言えなくもないし、それらとは確実に違うものなのだが、しかしその激しさ、暗さ、異世界に連れてかれるような感覚は、単なるロックの枠には収まりきらない。きっとそれが、ニールヤング独特のものなんだろう。

 

彼の黒いレスポールから出てくる音は私たちを異世界に連れて行く、この世界が地獄のようで、灼熱のようで、凍りついているかのようで、トランスと言う言葉が正しいかどうかは不安だが確かにこの世界に生きている通常の感覚では感知できないものすらニールヤングの音楽世界は持っている気がする。酒を飲んだり、ドラッグをやったりするとそういう感覚を得れれるのかもしれないけれども、今の私はそういうものを摂取できない体だから詳しくはわからない。一つ分かるのは、音楽というものも私たちを違う世界に連れて行ってくれること。その力は、それほど強くはないんだけれど、耳を傾けて、その中に入っていこうとすると感じられる。すべての音楽がそうではないけれども、神経を研ぎ澄ませると色々な感覚が音楽の中に隠されていることがわかる、そしてそのうちの幾つかはあちらの方から差し出されている。

 

心の病気で感覚がおかしくなっている時(自分ではわからないのだが)はそういう感覚がシャープになったり、逆に何も感じられなくなってしまう。薬の影響で、感覚がすっかり鈍ってしまうこともある。しかし、音楽は常にそこにあり、私たちをその世界に誘おうとしていることに変わりはない。だから、病気を患っていても、音楽の向こうの世界は確かに存在している。

 

テレビを持たない私はテレビドラマや映画にもそういう世界が隠れているかどうかはわからない。かつては読書が好きだったから、本の中で特別な作品にはそういう向こうの世界の感覚が隠れていることは知っているが、今の私は読書をするほどの集中力はない。

集中が続いても約30分、でなければ普段は15分も同じことを続けてられない。同じことを続けられるのは、こうしてブログを書いている時と、楽器の練習をしている時。そういう時は、自分の体や、自分の気持ちと向き合いながら、同時に自分から自由になれる。文章を書いている時は、自分が何か別の存在に慣れているような気分になれる時がある。それは楽器を演奏している時も一緒。ただ、楽器は自分の体と密接につながっているので、自分の体の制約が集中を邪魔することも多い。楽器はもしかしたら何もしていない時よりもストレスを感じさせられているかもしれない。できないこと、思うようにいかないことがたくさんあるからだ。しかし、弾いていると、音楽の向こうにある世界につながっていく感覚を時々得ることができるのだ。

 

1日のうちそういう感覚で居られる時間は限られているし、もちろん毎日はできない。しかし、病気のせいで心がふさいでいたり、逆に舞い上がっている時、ブログを書いたり楽器を弾くことによって、病気とは違う力で私を別の世界へ連れて行ってくれる。そのどちらも叶わない時は、ニールヤングを聴いている。

 

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2016年

8月

28日

夏の終わりの

今日、夜に最寄駅から明治通りを歩き、帰ってくるときに、10代らしき少年たちが、自転車に跨りながら

 

もう夏終わりだから。

 

と言っていた。

夏も終わりか。

確かにもう9月になる。主要な花火大会は終わった。

夏の終わりだ。

 

Hello, My friend

君に恋した夏があったね、

短くて、気まぐれな夏だった。

 

瞳に君を焼き付けた

尽きせぬ想い

明日にならばもうここには

僕らはいない

 

短い夏の終わりを告げる

波の音しか聞こえない。

 

思い出になる恋と西風が笑うけれど

このひとに賭ける

 

好きでもないし、嫌いでもない

フルだけフリなよ、フラれてやるさ

9月の海に、雨が降る

 

皆さま、勝手に引用いたしました。

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2016年

8月

26日

自分の失敗なんてバネにしなくていい。他人のヘマからの方が学ぶことが多い。

いろいろ病気なんてすると、他の人はあんまり背負わないようなヘマを背負う。当然ヘマは恥ずかしいし、自分を責める。しかし、周りの方々は無責任なことをいう。

 

自分の失敗をバネにして伸びなさい。

 

そんなの糞食らえだ。

今日はそんな話。

自分のヘマなんて何度も持ち出してきて覗き込むのは辛い。そりゃ本当はそういう辛さを味わって次へ進まなきゃいけないんだろうが、そんなことしているほどの余裕があったら、こんなにヘマを重ねたりはしない。

 

そんなことわかってるよ、でもできないんだよ今の俺には。

 

そう言ってやりたい。まあ、言えないが。

例えば、ハイになって町でケンカしちゃって警察のお世話になる。体にいいんじゃないかって思って葉っぱを吸って困ったことになる。酒を浴びるほど食らって、大きな失敗をしてしまう。なんだかわけわからんくなって家族に暴力を振るってしまう。誰でもやりそうで、実際あんまりみんなやらないヘマだ。

私はやりました。そのうちの幾つかを。

申し訳ございません。

 

でもそんなこと今の自分が客観的に考えられそうもない。そういうのはしばらくどっかおもちゃの箱にしまってしまい、もうちょっと余裕が出来た時に見返してみたい。そんなことよりもっと今の自分のためになることがある。

他人の失敗だ。

 

他人の失敗、これは別に病気の人の失敗じゃなくてもいい。身の回りの家族やら友人のヘマを客観的に見る。自分のヘマじゃないから客観的に見える。運良く、今入院してる人なんかは、他の人の話をよく聞いてその人たちからその人たちの失敗を聞き出せばいい。病院は失敗談の宝庫だ。

 

やべっ、それ俺もやりそう。とか、

俺だったらもっとドロドロになっちゃうな、やばそう。気をつけよう

 

とか思える。

ヘマじゃなくてもいい、まずい方向に進んでる人の姿をみることはとてもためになる。

 

3ヶ月ほど前に、職場の先輩に勧められてセカンドオピニオンなんていうものをとった。初めての精神科にかかった。

私は初めての場所っていうのがものすごく苦手なので、その日は医者にかかる前の晩にしこたま飲んで、医者に行く前もビールを飲んで、医者の待合室で一時間くらい待たされたから、抜け出してビールを購入してしこたま飲んだ。一時間で350の缶を4本飲んだ。

 

そしたら、待合室に20代中判の男の子と、その母親らしき人がいた。

 

にいちゃん、どっか悪いの?

 

酔っ払っていた私は遠慮なしに聞いた。

 

見た感じ元気そうじゃない。なんか困ったことでもあったのかな?

 

そしたら、その青年が答えた。

 

ええ、僕ダメなんです、引きこもりなんです。

 

そうか。と僕は思った。でもその前に、20代半ばなのにこんなところにお母ちゃんとくることがまずいんじゃないかと思った。なんでも、話を聞くと月に一回ここに山梨から来てるっていうじゃないか。僕は言った。無遠慮に。

 

にいちゃん、君、東京で一人暮らししなさいよ。そして君結構かっこいい顔してるからすぐ彼女できるよ。彼女できたらなかなか家に引きこもってるわけにも行けなくなるし、金も自由に使いたくなるから、なんかかんか仕事するようになるよ。そのうち女の子と一緒に住むようにもなると思うし。そしたら、今の問題はとりあえず解決する。

病気の方は、東京の家からここに通ってこればいいよ。この辺家賃安いし、月五万もあれば住むとこあるよ。

 

そうだよね、お母さん?

 

すると、お母さんが、

 

そうね、そうかもしれないわね。

でも、もう少し元気になってからだね。

 

と答えた。私もお母さんの顔をつぶすわけにもいかんから、

 

そうだね、もうちょっと元気になってからかもね。

 

と言った。本当はいますぐ、この病院の帰りにでも不動産屋見に行ったほうがいいのだけれども、そこまでは言わなかった。家庭の問題だから。でも、その時、おにいちゃんの目が変わった。いままでずっと曇った目でうつむいていたのに、僕の顔をまっすぐ見て。

 

お母さん。きっとこの人の言ってることほんとだよ。僕きっと一人暮らししたら良くなるよ。僕、そのためなら頑張るよ。

 

って、嬉しそうに言った。この時点で、このにいちゃんは自分の問題の解決の糸口を少しつかんだようだった。私はその言葉に返して言った。酔っ払って呂律の回らない言葉で、

 

にいちゃん、そうだよ。俺だって今はこうしてアル中で病院来てるけど、26の時就職して自分で自分の金稼げるようになった時引きこもりは治ったよ。自分で自分の金稼げたら、おねえちゃんと六本木でデートもできるし、銀座のかっこいいバーに女の子も連れて行ける。稼ぐ金に合わせて女の子の前でかっこいい姿見せられて、それが自信に変わっていくんだよ。今の病気も、その頃には少し良くなってるかもしれないし、しばらくは病気どころじゃないかもしれない。運良くそうなりゃいいね。

 

そのにいちゃんはさっきまでうつむいていたのに。僕に手を差し伸べて握手を求めてきた。僕は、力なく手を出して握手をした。そうしているうちに彼の診察の番が回ってきた。

 

彼が診察室から出てきて、会計を済ませたら、僕の診察の順番が回ってきた。僕は診察室に入る前に、そのおにいちゃんの方に行って両手を広げて、ハグをした。きつく抱きしめてそして、

 

きっと良くなる、今までよりも楽しくなる。引きこもっていたことなんかしばらくは忘れられる。僕は2週間に一回ここに通っているから、こっちに引っ越してきたときはうちに遊びにこればいい。

 

と別れを告げた。彼は強く僕を抱きしめてくれた。

彼のケースから僕はたくさん学んだ。当事者は問題の根源を見えなくなるもんだ。私の解決策じゃもしかして彼の問題は良くならないかもしれない。けれども、いままで病院にお母さんと毎月一度来る、っていうようなことじゃ彼の場合はいつまでも良くはならなそうだった。

 

こういう風に、他人のケースはとても役に立つ。自分の身を振り返ることもできる。

 

それと似たようなことだが、ずっと昔の自分の姿っていうのも今の自分の道標になることはある。

 

私は一昨年の春に、友人数名からカンパしてもらってみんなで母校にギターを5台寄付したことから学んだ。その時、フェイスブックでカンパを募ったんだが、その時こう書いた。

 

先日行われた母校の進路座談会で、一人の少年がいたんだ。僕は彼に話しかけた。とっても元気なさそうだったから。

 

君、普段何やってるの?部活とか?

 

彼は小さな声で答えた。

 

僕は何もやってません。部活とか。友達もだからあんまりいません。

 

じゃあ、好きなことはあるの?

 

音楽聞いたり、ギター弾いたりするの好きです。でも、学校にはギター置いてないので、昼休みとかはぼーっとして過ごしてます。

 

彼は、20年前の私だった。部活もしていなくて、学校じゃいつも課外講習があって夜まで学校にいなきゃならない。サッカーやら野球にも興味ないから昼休みはボーッとしたりギターのカタログを穴があくほど見つめて過ごしている。

その時決めた。

よし、20年前の自分にプレゼントを贈ろう。昼休み仲間に入れなくて机に穴掘ったり、ギターのカタログを穴があくほど見つめている自分にプレゼントを贈ろう。それも、できたら20年前の自分、5人くらいに贈ろう。

 

そのアイデアに共感してくれた元ギター少年やら、音楽室がいつも課外講習で使われていて楽器に触れることができなかったピアノ少年たちからたくさんカンパをもらった。7人ぐらいカンパしてくれて、残りは自分のポケットマネーちょっとで5人の20年前の僕にプレゼントを贈ることができた。

それは、楽器屋として働いている自分にとってはものすごく為になった。僕らがギターを売っている先に誰がいるのか、もう一度よく考えることができた。

そういう意味で、過去の自分にすごくいいことを教えてもらえた。

 

人のヘマ、過去の自分のくすぶり、からもっともっとこれからも学ばせてもらって、自分の糧にしていこうと今私は思っている。

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2016年

8月

25日

誰かの力になれること

病棟で親しくなった天涯孤独の若い女の子が、今は他に誰も相手にしてくれないからと、私を慕ってメールくれる。
正直、私は嬉しい。とても嬉しい。彼女は可愛い若い女の子だし、彼女独特の言葉はどこか私をやすらぎの世界に連れて行ってくれる。そして、どんな形でも彼女の力になれるのは嬉しい。

 

長くなるかもしれないけれど、今夜はここから始めよう

 

 しかし、種明かししてしまえば、雑な言い方をすると、私は単なるスケベな中年のおっさんに過ぎない。彼女の為に何か出来るようなことはほとんどない。人生経験と言っても大したものはない。失敗は人一倍しているけど、彼女と比べるとおあいこくらいかな。

 

強いて言えば、耳触りのいい優しい言葉を言うことぐらいで、実際彼女の糧なるような言葉を見つけられない。そう、私の唯一の武器は言葉だ。

似顔絵も描けない、歌もそれほど得意じゃないし、ましてやジャグリングやら声帯模写もできない。江戸家猫八にはなれない。


今の彼女には、彼女の糧になるような言葉をかけてくれて、彼女の為に力になれる人間が必要だ。優しさよりももっと確かなものを提供できる人、もっとはっきり言えば、彼女に寄り添って愛を提供できる人間がいた方がいいと思う。家族でも、友達でも、恋人でもいい。彼女の隣にぼーっとして一緒に座っていられる誰かが。

 

同年代でなくても、異性同性関係なく、彼女に共感して、色々な世界を共有できる人がいた方が良い。彼女と同じ病棟にいた時は、自分ももしかしたらそんな存在になれるかと何度か幻想を抱いたが、今もあの頃も私にはそんなことができる器量はおそらくない。それに、そもそも彼女はそんなこと望んでいないだろうし。

 

自分のことですら満足にできない私、家族とすら一緒に住めない私、愛とは一体感なのかわからない私。

 

いい歳こいて愛だの、夢だのと言った言葉を多用する自分も少し恥ずかしいのだが、素朴な疑問

 

表現しない愛とは何なんだろうか?
愛は表現しないで存在する意義があるのだろうか?

黙って愛していて、それって愛するってことなのか?

 

ここでいう愛は、恋愛だけじゃない、友達同士の愛、神の愛、家族の愛、愛着の愛、

 

愛情表現という言葉があるが、残念ながらこの世に溢れ、ありふれている愛情表現は大半がエゴイズムの発露と同義になっている。
無償の愛情なんて都合のいいものは残念ながらこの世にあまり存在していない気がする。
神の愛すら、商売の種に使われている場合の方が多い。でなけりゃ教会、寺、神社になんてカネを取られるおぼえはない。しかし、不安だし、愛が欲しいから、代金としてじゃなく、心付けと言いながら教会、寺、神社にカネを払う。


そして、家族の愛は一番損得に汚い。カネの損得じゃない形をとっていることが多いので見えずらいけど、家族の愛は安心を引き換えにしてやり取り、表現されている。自分の安心ではなくお互いの安心の場合も多分に含まれている。

 

黙って愛する

 

これができたところで、じゃあその愛って何なんだろう。

 

本当はこの、

何なんだろう?

が一番本当の意味での愛という単語のニュアンスに近いのかと思うのだが、身の回りの愛は大抵何かの天秤に乗せられているから、本当の意味すらわからない。

まあ、自分の家族も満足に愛せていないおまえに、

何が愛

なんて言われたくないよと言われそうだが、

カネ
安心
対価
存在意義
意味

とかがない場所に愛が存在するということを是非感じてみたい。

上記のものと関わりがない、まだ見ぬ

真の愛

というものを、私たちは知覚できるのであろうか?

それがワカラナイ。

 

だから私の言葉は虚しく宙を彷徨う。そのこと、宙を彷徨っていることを彼女に言うことは、なんだか裏切るようでできない。それに、愛を知っていたり、彼女の力になれる器量のある人が現れるまでなら私も力になりたい。

できるもんなら俺は千手観音になりたい。みんなに奇異の目で見られる千手観音。何のために行動しているのかが、周りからはてんで分からない千手観音。
気持ち悪い、気持ち悪いとみんなに言われても、誰かの糧になるようなことをしたい。かなこちゃんの糧になるようなことも。

 

僕も、彼女の言うストーカーみたいな気持ち悪い感情を持って歩いているんだ。それは君に対してだけじゃなく、この世界で手に入らないものいろいろ、失ってしまったもの。失うかもしれなくて必死にしがみついているもの。

そういうものにすがりつこうとしている。君の言うストーカーみたいなことだ。

 

けれども、私を救うのはその対象が多岐にわたっていること。ギターであったり、トランペットであったり、レコードであったり、カメラであったり、写真集であったり、小説であったり、好きな女の子たちであったり、かけがえのない友人であったり、妻であったり、娘であったり。

きっとこれから、かなこちゃんも多岐にわたるすがりつく対象が現れる。相手は人じゃなくたっていいんだ、ものだって、概念だって、観念だっていいんだ。

 

そしたら、そのストーカーみたいな自分がいろいろ分岐していって、危ういバランスを取り始める。僕の場合はそうだ。そして僕の場合はやっぱりまたストーカーみたいなことをして、相手に縁を切られたり、喪失したりしている。それって別に特別変なことじゃないんだ。たまたまあんまり身の回りにいないだけなんだ。変なことには変わらないかもしれないけれど。

 

ガラクタや、ギター、トランペット、レコード、写真集、昔のがールフレンドにもらったもの、憧れの女の子が描いた絵、そんなものに囲まれて埋まってしまいそうな部屋にいてこれを書いている。ひょっとして君に読んでもらえるんじゃないかと思いながら。

 

そして、君じゃなくて、僕や君を全く知らない誰かに読んでもらって、僕の悩みのバカバカしさや、世界の構造のバカバカしさや、そういう我々の愛おしさを感じてもらえるように。

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2016年

8月

24日

あなたならできる、なんて言葉いつも真に受けなくたっていい。私にできないことがあっても構わない。

私は自己顕示欲の塊です、(本文とは関係ありません)
私は自己顕示欲の塊です、(本文とは関係ありません)

今日、かなこちゃんから電話があった。

使いさしのテレホンカードを退院の時に彼女にあげた時、カードの裏にちゃっかり書いておいた私の電話番号にかけてくれたのだ。

 

彼女は、晴れて地元広島の病院に転院できたらしい。彼女を待っているものは決して彼女にとってのパラダイスではなかったとしても、以前からの望みがひとつ叶ったんだ。いいことだろう。

 

今日はかなこちゃんと自分におくるひとつの考え方の話。

入院していて気づいた、今までの私の無責任で無神経な言動の数々。

その中の一つ。

 

大丈夫、きっと君ならできるよ。

 

とか、何度言っただろうか?

入院中のかなこちゃんにも言ってしまったろうか?

 

お前、じゃあできなかった時、

努力して努力して、すべてをかけて努力してもできなかった時、

責任持てるのか?

 

それに、私は何でもできなきゃいけないのか?

 

そりゃ、時々は背中を押してあげることも必要だし、自分のためにエゴイズムでそんなことをする時だってある。けれども、それはいつでも使えるフレーズじゃないだろう。それは本来、切り札にとっておくべきフレーズだったり、怒りを婉曲に表現するためのフレーズなんじゃないかな。あなたにぜひやってほしい!とか、何でそんなことすらやろうとしないんだよ!っていう意味のフレーズだと思う。あと、もしかしたら相手が子供だったら我々大人よりも背中を押してあげる機会は多いかもしれない。だから、子供相手には大人相手よりも使っていい機会はもしかしたら多いかもしれない。

けど、あなたならきっとできるって、

 

ほら、勇気を持ってやってみれよ。

 

っていう意味のフレーズなんだよ。

大人がいい大人においそれと使うような言葉じゃないでしょう?

だって、もし相手がそれをできなかった時、

 

そんなこともできないの?

 

って言っているような言葉なんだよ。

それって、大人が大人に使っていいような礼儀のいい言葉じゃない。

 

かなこちゃんだって一生懸命戦っているんだ。もちろん俺だって。

いや、戦ってはいないかもしれん。そう、嫌っているのかも、自分を、嫌な部分の自分を。自分のせいではないのに背負ってしまった自分。ふとしたきっかけでハマってしまった沼。もしかしたらそもそも自分に責任があるかもしれないし。その時その時の気まぐれな感情や、病気のせいで冒してしまった間違え。

これからは、そんなものを背負って生きていくんだ。私たちの新天地で。

私は今日から復職した仕事場、かなこちゃんは新しい病院で。そしてそのあと僕らは散り散りにどこかへ向かって飛び立っていくのか、それとも今の場所に留まるのか。今の場所でずっとくすぶっていくかもしれない。

自分自身をいい方向に持っていけるのは、結局自分の観念を変えていって、いろんな失敗を重ねたり、人の失敗から学んで行動を変えたり。それしかないのだから。

 

かなこちゃんは、今日の電話で気にしていた

 

ブスが肥って、もっとブスになっていく。

薬のせいなのか、甘いものが食べたくて食べたくて太っていく。

 

僕の口からつい出そうになった。

 

君なら大丈夫だよ。

 

私にそんな気休めを言われても彼女の悩みは癒えないかもしれないな。本当に彼女なら大丈夫だって思うんだけれど、根拠がないからな。だから言わん方がいい。

自分が同じ立場の時何を言ってあげれるだろう。どんな風に彼女の力になれるだろう?

私には言葉しか、手段(武器?)はない。

似顔絵だって書けないし、歌だってそんなに得意じゃない。ましてやジャグリングやら声帯模写もできない。江戸家猫八にはなれない。

 

彼女がこれを読むことは恐らくないけれど、私の正直な気持ちを書こう。

 

ブスが肥ってもっとブスにるって?

かなこちゃんは今全然ブスじゃないし、太ったって、あと15キロぐらいならその可愛さはなんら変わらないと思う。少なくとも8つも年上のおっさんの私の目からは。

それはなぜかって、かなこちゃんの魅力は容姿だけじゃないし、椅子の肘掛を擦りながら立ち上がろうかどうしようか躊躇する癖も、病気のせいなのかなんなのか、突拍子もないこと悩む姿も可愛らしいと思う。

 

だから、きっと私みたいにあなたのことを慕う人たち(おっさん達)はこれからもたくさんいるだろうし、きっとその中には君の力になってくれるひともいるし、もしかしたら君と一緒の人生を過ごせるパートナーも出てくるかもしれない。

 

病院のホールで、君の横で一緒にぼーっとして君の28歳の夏の横をスーッとすり抜けただけのおっさんに感謝の電話をくれる君は、とても好感が持てる。だから僕はそう思うんだ。

 

けれども、そんな奴今後出てこなくたって、君がデブで醜くなっても、仕方ないけれども人生は続いていくんだ。だから、風見鶏みたいにフラフラしたって、君にどうしてもできないことがあったって、それは別に特別に人より劣ることじゃないんだ。現にあなたより8歳年上のこのおっさんは20代から20キロ太って、仕事もなんども転々として、何度も問題を起こして、そして何一つマスターピースを残せないで生きているんだ。それって、結構世の中普通のことなんだ。

 

だから、もしあなたがあなたのなりたい自分になれなくたって、それはそれであり得る話なんだってこと忘れないでほしい。そして、もしそうでも、そこからの行き方を進めてほしい。これは、かなこちゃんに対して叫んでいて、結局あなたの耳から跳ね返ってきた残響を僕自身が聞いているんだ。俺たちは、できないことだらけなんだ。それは、時として仕方ないことなんだ。

 

違うかい?

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2016年

8月

23日

失敗を繰り返すだけでは手に入るものはないこと

入院していた期間は3週間ぐらいか、いや1ヶ月くらいだったかな。実はよく覚えていない。

 

入院期間は何もやることがなく、日がな一日ぼーっとしていた。本を読んだりもしたが、本を読んでも何も頭の中に入ってこなかったから、画集を見たり、写真集を見たりしていることの方が多かった。写真集は8年前の入院時と同じ尾仲浩二の写真集、画集というか作品集は日比野克彦の図録。何度も眺めた。

 

その他の時間はほとんど自問自答していた。

他の人たちと話す時も、その人たちの声の中から自分の声を聞き出していた。

ギターの話をしたり、特定の話題があるときはその話に合わせて考えることもできるけれども、その他はとりとめもない話なので、今の自分がどう思っているのかを一人考えていた。シャトーカをしていたようなもんだ。

 

かなこちゃんと話している時も、高橋さんと話している時も、その人たちの持つ問題や、失ったものを思いながら自分の今の問題について考えていた。家族を失いたくはないが、自分が家族との生活を上手く送れないこと。仕事を失いたくはないが、仕事にきちんといけないこと。手元にある「自分のもの」が多すぎること、そのために家族の他の人たちの持ち物を置く場所がないこと。そんなことを少し考えるたびに、気持ちが重くなった。

 

なぜ、一人でも生きていけないのに妻と娘とすら上手く生活できないのか。ものを手に入れても手に入れても限りなくものを買ってしまうこと。気づけばガラクタすら宝物のように感じていること。仕事に喜びすら覚えているのに朝つらくて出社できないこと。そんなことをずっと考えていた。

 

けれども、頭の中で何かをまとめるということがほとんどできないくらいに弱っていたので、結局結論は何も出なかった。

 

その時、

 

ああ、こういうことは今の頭で考えても結論は出ないんだな、

 

と思い、思考することをやめてしまった。

やめてしまって、もちろん良くなかったこともあるかとは思うが、良かったことも多かったと思う。結局考えられない時に物事を考えるのが我々にとって一番まずいんだ。変な結論に辿り着き、おかしな行動に出てしまう。自殺だとか。暴力だとか。

私はそんなに強い人間ではないからそういう衝動に勝てないと思う。

 

それで、残りの入院生活はただただぼーっとして過ごした。タバコが吸えるようになってからは、暇な時間はほとんどタバコを吸うことに費やした。かなこちゃんの隣に座って二人ぼーっとしたりとか、いつも興奮気味の高橋さんの話を聞いていたりとか以外はタバコを吸っていた。

 

高橋さんの話は、実際何時間でも聞いていられるほど面白かった。今までの失敗や、勝負の話。勝負といってもスポーツマンやら博徒ではなく、普通の小市民としたの勝負の話、職場の上司に嫌がらせをされて勝負に出た話。女とまずい関係になってなんとかした話。とても機知に富んでいて、面白い話ばかりだった。それを本に書けば、40ページぐらいの短編が数編かけるな。

 

かなこちゃんの隣に座ってぼーっとしているのは、もっと気楽な時間だった。一時間ほど、たいした話もせず座っていて、

 

大丈夫か?

 

大丈夫じゃありません、

 

だったら、考え込むな

 

とか、本当にそのくらいしか話さなかった。

そのうち老年夫婦のようにお互いの存在が空気のようになるのではないかとまではいかなかったが、この病院のホールでぼーっとしているのは私らぐらいで、後の人たちはせっせと新聞を読んだり、テレビのサスペンスなんかを見ていた。かなこちゃんは、そういうのには全く興味がなく、自分のこの先の心配だけでできていた。隣にいる私は、そんな彼女に何も力になれないのではあるが、まあ、かわいい若い女の子だから隣に座らせてもらって同じくぼーっとしているのが心地よかった。もう、それ以上彼女に干渉したいとも思わなかった。ここから先は、みんな自分で居場所を見つけて、生き方を見つけていかなければならないのだから仕方ない。私だって、私の身の振り方を考えなくてはいけない。そして、この病院から家に持ち帰れるものは、運が悪くなければ自分の体と、たくさんの失敗のサンプルなんだ。まあ、病気の影響からくる失敗だから、当事者たちはその失敗を踏むしか方法がなかったのかもしれないが、その話を聞くことで、これからの自分の危険信号を察知できるかもしれないと思いながら、アンテナを張った。

 

さて、自宅に戻ってきて、問題は解決してはいないが、すっかり頭から消えて忘れてしまった失敗のサンプルはあるのは仕方ないとして、まだ覚えているサンプルも沢山ある。

 

これから少しづつその失敗のサンプルを紐解いて、自分の糧にしていこう。そうでなければ、せっかく採取したサンプルも全く自分の糧にならずに腐ってしまう。

 

場数を踏まないとわからない経験というのは確かにあるが、場数を踏んだだけではどうにもならない。場数から何を学び、何を改めて行くか、それこそが必要な行動なのだ。

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2016年

8月

19日

力になりたいと思うときに限って何も力になれないこと

齢36にもなると人前で涙を流すことはなかなかできない。

36の男が涙を流している姿を誰も見たくないからだ。

 

しかし、入院中に一度人前で涙を流してしまった。悔し涙であるが。悔しくて悔しくて仕方なかった。俺は今まで何をやってきたんだ。今まで何も積み重ねてこなかったのか、

なぜかそんなことを思った。本当はそれ以前に自分の生活をなんとかせねばならんのだが。

かなこちゃんの話は前回の記事で書いた。彼女の話はあの病棟にいた我々の全てが多かれ少なかれ共有している辛さである。病気で失ったもの、もう帰ってこないもの、もう手に入らないもの。それを目の当たりにした時、自分自身の事を棚に上げて彼女の話がコツンと胸に響いた。

 

病気で夫と子供二人を失ったかなこちゃん。

 

私、もう誰からも退院して欲しいとか、治って欲しいとか思われていないんです。誰も私を必要でないし、両親だって私に広島に戻ってきて欲しいというのはお見舞いやら手続きが東京だと面倒だからってだけで、別に私に退院して欲しいと思っているわけじゃないんです。

あー、もう家族持つなんて無理ですね。こんな風になちゃったから。

私は退院したいと思いますよ。また働いて自分の生活したいし。でも、きっと良くはならないんです。またすぐにこうやって病院に戻ってくる。

 

私はとっさに

 

かなこちゃんはまだ28なんだし、俺結婚したの26ぐらいだったし初めて子供出来たの34の時だし、まだやり直せるよ。だから焦んないで、バッチリ治して社会に戻ろううよ。バッチリ治んなくたって娑婆で何とか生活していければいいわけだし、それは君が望めばきっと何とかなるよ。

君、そんな見た目だって悪いわけじゃないし、それに、みんなに愛されると思うよ。現にここにいるおっさんたちはみんな君に優しくしてると思うし。きっと大丈夫だよ。

 

と言ったけど言葉が詰まっちゃった。

かなこちゃんは、小さい声で

 

男の人ってやっぱり子どもほしがりますよね、

 

と小さく呟いた。

俺は、なんて無責任なこと言っちゃったんだろう。無責任で無神経なこと。彼女の心の闇なんて何にもわかっちゃいないんだ。 

 

ごめん、俺は君に何の力にもなれなくて。

力になれるもんだったら、なりたいけど

 

そして、つい瞼から一粒涙が溢れて、とっさにどこかかなこちゃんに見えない方を向いた。

俺はまず自分のことをどうかしないといけないんだ、本当は。まず、自分と家族のこと何とかしないと。このままじゃ戻れなくなる。それができたとしても、やっぱり君の力にはなれないんだ。力になれること、何もない。特別な技術は持ってないし、絵も描けないし、歌もそんなに得意じゃない。ジャグリングは勿論、声帯模写だってできない。江戸家猫八にはなれない。

 

するとかなこちゃんにはすぐにバレたみたいで。

 

佐々木さん、泣かないでください。

素敵ですね、優しくて。

 

と呟いた。

私は、泣いているわけじゃない。ただ目にゴミが入ってと言い訳しようかと思ったけれども、結局何もせず、彼女に言った。

 

俺は素敵なんじゃない。

弱くて、無力なだけだ。こういう男を素敵だと思ってはいけないよ。どうせ大したやつじゃない。そのうち苦労を背負わされる。

素敵っていうのは君の力になれる奴のことだ。

 

彼女は、曖昧に遠い目で周りを見て何度か椅子の手すりに手をかけて何度か立ち上がろうか躊躇するようなことをした。これは彼女の癖なんだ。

 

彼女の力にはなれなかったけれど、勝手ながら彼女の力になれる人が彼女の周りに何人も現れることを祈っている。今でも祈っている。

あそこから出てきたもののおごりだと言われても俺は構わん。

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2016年

8月

14日

病気が治らないと笑うこともできないかもしれない。だったら治ったら笑ってほしい。

同じ病棟に、いつも俯いて、ボーっと遠い目をしている女の子がいた。歳は27か8ぐらい。椅子の肘当てを擦り、何度も立ち上がろうか立ち上がらないか迷うのが彼女の癖だった。チューリップの蕾みたいな可愛らしい子だった。

彼女は色々病気で失ってきていて、傷つき、瞳から輝きが消えつつあった。地元の広島の病院に転院することだけを夢見ていた。いつも、ひとり遠い目で周りを見ていた。カナコちゃん

もし彼女に、他の人と話ができる余裕が充分に出てきたら、彼女に色々なアホな話を聞いてもらい、少しでも笑って欲しかった。私には、言葉以外に使える道具はない。似顔絵も描けないし、歌もあまり得意じゃない。手品なんかもできない。勿論ジャグリングやら声帯模写もできない。江戸屋猫八にはなれない。

私が彼女に何度か声をかけ、クッキーやら飴をあげたら、いつしか私がロビーに座ってボーっとしている時は彼女が隣に腰掛けることが多くなった。私は何を話しても長くなる癖があり、彼女を疲れさせるのが嫌だったから、いつもただ一緒にボーっとしていて、二つ三つ簡単に答えられる質問をした。

東京の街を歩いた?
クレープ好きなの?

私が、このブログに何を書いても彼女には読んでもらえない。彼女は私の名前すら覚えていないだろう。それに、彼女はいつも彼女の作った華奢な甲冑の中に潜んでいた。いつも元気を取り戻した彼女を少しでも笑わせたくて、何か面白い話はなかったか思い出そうとしたのに。そして今もまだ、思い出すのに。

もう一人、同じ病棟に高橋さんというおじさんがいて仲良くしていた。警察のお世話になったりしながらここに来た者同士話が盛り上がった。病棟にいる中で一番マトモな、一番ヤバいおっさんだった。私は高橋さんの話なら何時間でも聞いて入られた。

高橋さんもまたカナコちゃんのことを気にかけていて、彼女が現金を持たないせいで実家に電話をかけれないことを気の毒に思い、こっそり使いさしのテレホンカードをあげていた。飴やらクッキーを自分はあまり好きじゃないのに、僕等若い衆に与えてくれた。

一度、私と高橋さんがロビーで話をしていた時、私の隣にカナコちゃんが静かに腰掛けた。
高橋さんと話が盛り上がっていたので、カナコちゃんにも話を振った。
ここに来る前に彼女は北国に居たと聞いていたから、良くなったらまた北国に戻るのか?それとも広島に帰るの?
と、尋ねた。
彼女が黙って、ボーっと遠い目をしてたから、

このまま東京にいたら?

と、私が呟いたら、高橋さんがすかさず私の口真似で

俺の嫁になれ

っと言った。
私は驚いて、

高橋さん、それ、僕が40秒後に言おうとしてたセリフです。40秒待ってください。40秒早いです

と言ったらカナコちゃんが、すこし迷惑そうに笑った。本当に笑ったのかどうなのか気づかない程だったけど、確かに笑った。
私と高橋さんは無意識に目を合わせてニコリとした。

カナコちゃんが失ってしまったものの多くは戻らないだろうが、また彼女が笑う姿をたくさんの人に見せて欲しい。傷つかないでこの病棟に入って来たもののおごりと言われても構わん。

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2016年

7月

12日

汚い生き方なんてしたくないとか言いながら、汚く生きること

私は酒なんぞ飲まなくても充分生きていける。そんなこと、今に始まったことじゃない。20年前だってそうだった。酒飲みにはなりたくなかった。だって酒が弱くて、飲んだら気持ちよくなる前にいつも気持ち悪くなって吐いていた。酒がうまいなんて感じたこともなかった。酒に酔って自分をごまかすことも嫌だった。

 

私は10代の頃嫌と言えない人間だった。物事をはっきり言うのははしたないことだと思っていたし、それが美しい、良いことだと思っていた。なんで美しさなんて追求したんだろう?美しさなんて子供だましで、ちっとも嬉しくない。美しいことが良いことだという教育はあるだろうけれども、美しくて良いことなんてこの世の中の本当の一部だ。あとは大して美しくない方が良い。少なくともマトモに人間として生きていくのであれば。

 

今夜はそんな話。

今時点で、最後に見た美しいものはGibsonの1974年製Les Paul Custom,

俗称ブラックビューティ。まあ、本当にBlack Beautyて呼ばれるのは50年代のLes Paul Custom。当時はトーンコンデンサがブラックビューティだったからな。ギターの一つの完成系。この世の中にギターの完成系は実際20モデルもない。そのうちの一つだ。確かに美しい。黒くて美しい。傷雨ついていて美しい。錆びていて美しい。骨董品のようにほっとかれて枯れたのではなく、使い込まれて枯れている。茶器のような美しさ。

 

その前に見た美しいものは何だろう?林さんの絵か?いや、本人かな。

 

生きている時間は1日24時間、半分寝ていても12時間。そのうち仕事しているのが約8時間として、残りの4時間、1日の6分の一ぐらいしか愛でようと思っても美しいものを愛でることはできない。それよりも、強いものの方が大切。醜くても、汚くても、強いものは何かの役に立つ。文学だって写真だって音楽だって、なまじ美しいものよりも力強いものの方が強い。何かを感じさせる。クラウディオアラウの美しいベートーベンより、不協和音が気持ち悪く鳴り響くポゴレリッチのラベルの方が心を打つ。少なくとも私には。サイモンアンドガーファンクルも悪くないが、もう少し汚れている連中の方が私には心地いい。

 

それを、否定することは今更できない。今更できることとしたら、美しく生きようと思っていた頃の自分の貧しい根性だけだ。美しく生きようなんて思っていたから、大切な仲間を売り、人を裏切り、クソ野郎達に好かれ、嫌な思い出ばかりが残った。もう、ああいう生き方はこの先したくない。たとえすべてを捨てても、図太く、荒く、周りを削りながらでも生きていたい。そうでなければまた袋小路に迷い込み独りでウジウジするだけだろう。

 

妻も娘もいて、美しい楽器たちに囲まれ、もう身の回りに美しいものはたくさんだ。これからは自分が何とか生きていけるために、自分が満足して生きていけるように、美しさなんてどうでもいいから次の術を考えながらやっていくしかない。

 

美しいものに未練はある。まあこれからも出会わないわけじゃないから未練というものでもないけれども。それでも、体は本能的に美しく、甘く、気怠いものを求める。そういうときのために、Chet Bakerは一生をかけてトランペットを吹いていた。そしてその一部が、奇跡的なことに美しいレコードとして残っている。美しく、可憐で、甘すぎず、気怠く、くぐもっている透明感。それがレコードで残っている。嘘だと思うなら、とりあえず Chet Bakerの Broken  Wingというレコードを聴いてみればいい、そこには確かにそういうものが生きている。

 

もう一度言おう。Chet BakerのBroken Wing.

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2016年

7月

10日

新約聖書の解説。聖書がわからない私のための覚書

私の両親はキリスト教徒である。

母は真面目にカトリックを信仰しているらしく、中高ミッション系の女子校、引退後は毎週末教会に通っている。

父は、プロテスタントとしてアメリカで洗礼を受けたらしい。本当かどうかは不明。ただ、20代の頃ボストンに留学していたから本当なのかもしれない。MIT(マタチューゼツ工科大学か?)の先生は敬虔なクリスチャンが多いそうだと聞いた。

 

それで、私も小学校に上がってしばらくは、母の教会に行ったりしていた。父もその教会に来ていて、一緒にお祈りしたりしていたから、まあ、日本のカトリック教会はゆるいんだな。異教徒でも受け入れてくれる。

 

もっとも、教会に行っていたとは言っても、イースターとクリスマスぐらいで、普通の時は日曜も両親は仕事をしていたからほとんど行かなかった。だから、正確には、教会に「通った」ことはない。イースターとクリスマスだけ。

 

イースターとクリスマスの時礼拝が終わると、パーティーみたいのがあって、みんなでおかし食べたりする。卵もらったりする。そして、母の学校の先生とか同級生だったシスターとかに挨拶する。それが目当てで行っていたと言っても過言じゃない。あと、たまに神父さんとマンツーマンで喋ったりしていた。プロテスタントのはずのうちの父も、神父さんと喋ったりしていた。堅物だったオヤジも神父さんのことは、牧師とか呼ばんでちゃんと神父さんと呼んでた。(The Simpsans)

それで、いつだったか小学校に上がってから家族旅行で函館に行った時も、函館の偉い神父さんに会いに行ったりした。偉い神父さんっていう人は、案外若くて、親父と同じぐらいの歳だった。小学生だった私も父と二人で神父さんの話を聞いた。母は、なんか教会の違う人とアポ取ってたみたいで、そっちの方に行っていた。

 

神父さんの部屋に通され、紅茶とクッキーを出してもらい色々話した。アメリカ的な社会においてキリスト教は社会ツールであるとか、ユダヤ教、ユダヤ人との勢力争い、とまではいかんかもしれんが、ユダヤ人社会との差別化のために存在する。ユダヤ人(勝ち組、利権団体)に対し、キリスト教徒は愚かなる善人としての存在証明なんじゃないかとか。黒人差別の道具にもなり、差別撲滅の道具にもなったアメリカのキリスト教についてだとか、アメリカにおけるセックスとは何かとか、そういう話だったのは覚えている。何でそんなガキの頃にそんな話を聞いて話の概要がわかったかというと、その神父さんの話が上手かったからだ。

 

そういうこともあって、私自身はほとんど聖書を読んだことはないのだが、キリスト教の教えは何となくわかる気がする。あと、高校時代は遠藤周作ばっかり読んでいたし、学生時代に社会思想やなんかの講義に2回ぐらい出た時に何度も聖書の抜粋が出てきたからだいたいの概要はわかる。あと、ベンハーも全部見たからな。ベンハー見たら十分。

それで何だっけ、

 

あそうそう、私のベースはキリスト教的な考えがあるんだよね。母ちゃんに一時期毎晩お祈りさせられたりしたし。

でも、私が大人になって、じいちゃん死んだときぐらいから、うちの一家は一応浄土宗の檀家ってことになった。だから、俺は個人的にはジョードシューなんだよ。ヘイ、ジュード、ヘイ。ジョードみたいな感じ。

だからこそ今、もう一度聖書っつうものをちゃんと読まなきゃなって思う。ベンハー観直すよりそっちの方がよく理解できると思うね。

 

それで、聖書を書き直してるのです。マタイによる福音書とか、ルカによる福音書とかに変わる、よりぬきダイジェスト版聖書を書かねばならん。と思ってる。

 

題しておマタイ福音長〜いゃ〜ん

 

まず、キリストっていうのがどういう人かから始めよう。

っていうか、まあ新約聖書っていうのは始めっから最後まで、そういう話ばかりチラホラ入ってきてるので、大事なポイントなんだよね。

 

ではまず、処女マリア。これいい響きだよね、「処女マリヤ」って書いたらもう単なる AVのタイトルだもんね。処女マリアっていうのはあくまでもキリストを産んだ時点で処女マリアってだけの話で、ヨゼフとの間にキリスト以外に子供いなかったのか、っていうと諸説ある。ヤコブっていう弟いるじゃねえか?とか、いや、そもそも種違いの兄貴っていうのもいるんじゃねえのかとか言われてる。言いたい奴には言わせておけ。

まあだから、とにかくイエスっていうのは一応ヨゼフとマリアの長男スジだってことにしておこうか。これが一番説明がしやすい。キリストっていう人間の(人間の形をした神の子の)説明がしやすい。

 

大工ヨゼフの長男坊、イエスは若い頃野山を駆け巡ってばっかりいたんだよ。大工の倅、それも長男坊だっつうのにその時代だったら100パー大工の仕事の修行しなくちゃならんのに。まあ、悪いことはせんかったと思うけど(むしろボランティア活動してたってのが通説よ)、そこらじゅうを愚連隊引き連れたりしてプラプラプラぷらしてたのよ。そんで、多分弟さんのヤコブは真面目な奴だって聞いてたけど、サマリア人呼ばわれされてたヨゼフの連れ子の兄貴はいっつも裏山でタバコや葉っぱばっかり吸ってたんだよ。

 

イエスはそのサマリア人呼ばわれされてた兄貴に何度か山であってるんだよね。まあ、イエスと一緒に住んだことはないから兄貴だってことは知らないんだけど、どうもこいつ腹チゲーの兄貴っぽいなってことはわかってた。でも、兄貴村の人に差別ばっかりされてたからグレちゃってて、盗み、強盗、強姦、強制わいせつ、薬、そんな感じの兄貴だったから、イエスも「あんなのは俺の兄貴じゃねーよ」「俺はヨゼフとチー繋がってないからね」なんて言ってた。いくら血が繋がってなくたって戸籍上は血縁関係だわな。いや、この時代戸籍ないからわからんけど。でもジューミンヒョーは離れてても、戸籍上は。

 

まあいいや。

それで、「俺、家族とか、そういうのカンケーねーから」。「俺キョーダイとかカンケーねーし」「そもそも人類皆兄弟、お前と俺は穴キョーダイ」っていっつも言ってた。

 

それが顕著になったのは、後年マリア母ちゃんと、兄弟(っていうか、多分弟子)たちとカナって街に結婚式に参列しに行った時のこと。カナっていうと、東京の川崎みたいなところで、貧乏な人たちも多かった。でも一応区民会館ていうか、川崎は市そのものが金持ちだから市の施設の結婚式場があったのよ。すげー立派だぜ。都民共済で使える高田馬場の結婚式場なんかよりずっと立派。なんたって、市民ミュージアム併設なんだよ。その、カナって街は。

でも、悲しいかな(うわー、駄洒落)カナの友達ビンボーだから、結婚祝うぶどう酒が準備できなかった。

 

そこで、マリア母ちゃんがキリストに言ったんだよ。キリストも、もう二十歳超えたからマリア様も息子だったらある程度稼いでて金に余裕あんだと思ってたフシがあってね。

「あんた、酒屋でなんか買ってきてやんなさいよ。かわいそうじゃない。あんた」

 

そしたら、キリストなんて答えたと思う?

 

「なんで、俺が買ってこなきゃいけねんだよ?」

「第一、お前に指図される筋合いねーし。」

「だいたい、マリアのおばちゃん俺の知り合いでもねーし」

 

って言ったんだよ。

これ、本当に聖書に書いてあるからね。ルカの福音書に書いてあるからね。

 

これこそ、キリストを理解する最初のステップなんだよ。

キリストは、自分を産んだっていう肉親の母ちゃんですら他人扱い。弟さんたちは一応マリアとヨゼフの子供だけど、自分は神の子ってことでみんなに扱われてて、どうやら親父は弟さんたちとは違うんだな、とか常日頃考えてたの。親父のヨゼフは割と若いうちに死んじゃって、家貧乏だったし、なんで、あいつらはマトモに働いてて稼いでんのに、俺はこんなボランティア活動ばっかりさせられてんだろ?とか思ってたのかもしれんし、逆に、

俺が常日頃人のために頑張ってんのに、マリアやら親戚一同はロクな奴いねえ。まあ、仕方無えか、貧しいってこういうもんかもしれんしな。俺は俺で頑張って俺がすべきことやってくしかねえんだろな。

とか思ってたのかもしれない。

それで、家族っていうパラダイムを捨てて、社会っていうものに独りで、たった独りで立ち向かうことにしたんだ。

 

もーもタロさん、モモタロさん。に似てるだろ?

このモモタロさんのすげーとこは、もう二十歳にして犬やらキジやら連れてんだよ。いっちょまえの経営者みたいになってるんだよ。

 

今日はここまでね。

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2015年

5月

08日

Martin CommitteeとLeblanc Martin T3460 

マイルスデイヴィスが好きな方は特にでしょうけれど、Jazzのトランぺッター又はトランペット愛好家の多くは、一度はこの楽器を使ってみようかと検討されたことはあるかと思います。マーティン、いやマーチンと一般には呼ばれてますが、マーチンのコミッティーモデル。世界で最もジャズジャズしいトランペット。あのマイルスも、リーモーガンも、ケニードーハムも、アートファーマーも、もちろんあのチェットだって愛用したモデルのトランペットです。

クラークテリーだって晩年はルブランが再生産したモデルの色物を使ってました。かつてはハードバップといったら皆、猫も杓子もこのCommitteeモデルを愛用してたんです。


今日は、そのコミッティーについて。

そもそもこのコミッティーモデル、有名な楽器の割に書かれている文献が少ない。特にWeb上には大した情報はありません。

 

私は、今まで3台のCommitteeを使いましたが、3台が全て全然違う楽器でした。けれども、そんな事、どこ探しても書いていない。だから、今日は書きます。好きかって書きます。ラッパヘタクソなコミッティーバカの紹介するコミッティーモデルです。

 

まず1台目に手に入れたコミッティーモデルはLeblancの再生産モデル。90年代に生産された黒ラッカーのモノでした。このモデルの特徴は、チューニングスライドがリバース管であるのはコミッティーだからもちろんですが、ベルはヴィンテージのコミッティーのようななだらかなテーパーではなく、ヤマハやBachのような急に広がるタイプ。そして何より、やたらとピストンストロークが長いのが特徴です。エンスーモデルのはずなのに、3番スライドにアジャスターがついたリングがついている。この辺はおそらくヴィンテージのコミッティーから受けついたのかと思っていました。

 

二つ目に手にしたのは46年製のCommittee。これを手に入れたとき一番びっくりしたのは、復刻版と思ったよりも違った楽器だったことです。まずはその重さ。ヴィンテージのコミッティーは凄く華奢な楽器です。かなり軽い。そして、クルークの下側の管が本体につながる位置が全然違います。そして、ピストンストロークは私の黒ラッカーのモノに比べるとそれほど長くはありません。ピストンからベルに向かって曲がる箇所の曲がり方も黒ラッカーのモデルは丸いのに対し、ヴィンテージは少し角張ってます。ベルは、40年代までの楽器によく見られるような緩やかなテーパーになってます。だから、黒ラッカーの楽器に使っていたミュートが使えないぐらい奥まで太いベル。

 

3台目に手にしたのは2005年製の赤のラッカーのMartin Committee。これは上の二つとは全く違う楽器です。

まず、ピストンのケージングが黒の復刻版とヴィンテージはよく似ていたのですが、こちらの2005年製は完全にホルトンのケージングです。リードパイプとチューニングスライドの接合部も上の二つはよく似ておりましたが、この赤いやつは接合部を短く、マウスパイプを長くとってあります。だから指掛けのフックはマウスパイプに直接蝋付けされております。

ピストンストロークは短め(Bachと同じくらい)。ベルのシェイプはヴィンテージと同様の緩やかなテーパー。


この楽器を手にしたとき、納得致しました。

Leblancはヴィンテージマーチンの復刻をつくりたいわけではない。マイルスの歴代使用モデルの復刻をしているのだ。と言うことです。


まず90年代の黒のラッカーだったモデルは60年代アコースティックからエレクトリックに移行するあたりの時代マイルスが使っていたブラックラッカーのモデルにそっくりです。チューニングスライドの本体との接合部分、ピストンストローク、3番管のリングの金具のつき方、それがアジャスタブルである点。すべてマイルス使用モデルのドンズバです。ベルのカーブが丸マナあたりもそっくりです。


2005年製の赤ラッカーのモデルは、これは80年代マイルスが復活してから使っていた黒ラッカーのモデルや赤ラッカーのモデルにそっくりです。もっとも、その時代のマイルスが使っていたコミッティーはホルトンがつくっていたでしょうから、まさにそれと同じしようにしているんでしょう。


しかし、まあ、この2000年代に入ってから造られたコミッティーの復刻版、いやマイルスデイビスモデルについては、全然記録が残っていないのです。誰か詳しい方に教えて頂きたいです。


最後に、音についてですが。

私が吹いている分にはどのモデルも息を強くベルにあてるように入れれば明るい音が出て、太くサブノート気味に入れるとダークな音になる使いやすいラッパです。

あえて言えば、ヴィンテージのコミッティーは音をベンドさせやすいので、逆に言うと音程をとるのは難しいです。どちらかというと、90年代製の黒ラッカーの楽器が一番息を入れやすく、音のあたりどころが明確で、モダンな楽器でした。ただ、ピストンストロークが長いのは、人によって好みはあると思います。日本人の平均的な手の大きさにはちょっと長過ぎる感があります。マイルスがオンマイクでとっているマーチンの音はいつもコシがあり、細い中にもシンがありますが、ああいう音を鳴らしたいのなら、バックやヤマハよりも近道かもしれません。

なんだか知らんが、バックやヤマハのような超優等生トランペットにはない、危うさと、コントロールの幅の広さがある楽器です。自分で、音をイメージしてやってみると、10回に一回ぐらい本当にそうゆう音が出てくるので不思議です。幻聴かもしれませんが。


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2014年

10月

13日

オギーとマーギー2

マーギーがマーギーと呼ばれるようになったのは変わり者のオギーと付き合い始めてからだ。オギーも変わり者だが、マーギーはその上を行く変わり者だ。
風呂の無いアパートに住むオギーが我々が集まる小さな狭いカフェに来たとき、たまたまいたのがマーギーだった。

久しぶりだね、オギー。最近あんまり遭わんかったね。仕事?

いや、なんだか家に篭りたくなって、絵とか文とか書いてたら一週間も外に出なかった。めしも、カップ麺がたくさん買い置きしてたから。結局コーヒーとカップ麺だけで一週間経っちゃった。

バイクは今日は?無いみたいだね。

ビール飲みにきたから。
と、オギーは小さな声で呟いてビールを飲み始めた。

それから30分くらい、或いは五分ぐらいか、オギー、わたし、マーギーの三人は黙ってビールを飲んだ。長くゆっくり時間が過ぎるのを、手持ち無沙汰になったわたしは独り耐えていた。それはマーギーも多分一緒だった。

もう少し黙っていようかと思っていたら、マーギーが話し始めた。

オギーさん、なんだかお疲れみたいですね。風呂入ってゆっくり寝たら良いんじゃ無いですか?わたしも明日早いし、帰って寝るかな。

彼女の言葉があまりにも白々しくてありふれたものだったので、わたしたちは何故だか照れ臭くなり、ポツリポツリと話し始めた。

そういう風に一時間ビールを飲みながら話しているうちに、オギーがマーギーの部屋に風呂に入れてもらいにいくことになった。それは、雨水が雨樋を辿るように、ごくすんなりと、あらかじめ決めてあった話のようにすすんだ。

佐々木さん、変な想像しないでね。俺、疲れてて、きっとそういうことできるパワー残って無いから。

 

 

二人の名誉のために書くが、その夜二人は寝た。オギーがマーギーのうちに風呂に入れてもらいに行った夜だ。
これはオギーからそう聞いたわけではないが、次に二人にカフェで逢ったときに気が付いた。

二人は狭いカフェの四人がけの席に二人並んで座っていた。わたしが店に来たことに気づいたとき、オギーは椅子の上に手をついていたマーギーの手の上に重ねていた自分の手をそっとどけた。

外では静かに雨が降っていたが、店の中は少しだけ暖かかった。

初めにわたしに気づいたのはオギーで、

あ、佐々木さん。お久しゅう。

とぎこちない古語でわたしに声をかけた。

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2014年

10月

13日

オギーとマーギー

マーギーの奇行についてはオギーからだいたい聞いている。彼はそれを三ノ輪の小さな狭いカフェで話してくれた。

マーギーが変なことは今に始まった事じゃないだろ。俺があいつに会ったときはもうかなり変だったよ。

いや、佐々木さん違うんだよ、そういうんじゃなくて、最近は普通にしている時も変なんだ。朝ごはんだって言ってパンにノリのふりかけかけて食べたり、チョコアイスに歯磨き粉つけてチョコミント味だとか言ったり。
それにあいつ、窓からコンドーム投げ捨てたりするんだ。

コンドーム?それ、投げ捨ててるの?

いや、俺も初めはあいつ、別の男と関係を持ったりしてるんだと思ったんだけど、あいつの部屋に行くたびに、もうコンドームないっていうから、いつもまた買いに出てたんだけど、この前たまたまあいつのアパートの前通ったとき、前の道の10メートル四方ぐらいに五つコンドーム落ちてたんだ。
それが、俺が買って行ったやつと同じやつだったから、そのあと会った時に聞いたら、コンドーム窓から投げ捨ててるって言うんだ。
俺が、なんでそんなもったいないことしてるんだって聞いたら、慈善事業だって言うんだ、オギーもやってみる?って。

ああ、わかるよ、わかる。マーギーはそういうとこあるもんな。お前だってあいつと親しくしてんだから少しは理解出来んだろ?オギーがバイクのタンクやエンジンにわざわざ傷つけたりしてるのだって、俺はあんまり変わらないと思うな。

いや、佐々木さん、そういうことじゃ無いんだよ!

 
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2014年

5月

15日

遠くで汽笛を聞きながら

5月のはじめに新潟へ行った。新潟で学校の先輩が写真展を開くとのことで、それを見に行った。同時期に音楽祭も開催されるというので、それを聴きがてら、一泊二日の一人旅をした。

カメラはプラウベルマキナ、30年代のアンチコマーがついているやつ。フィルムはトライエックスを念のため20本持って行った。フィルムを持って行って正解だった。新潟の街並は美しかった。一日目の午後に瞬く間に十数本を撮り終えた。東京で撮っている写真と並べてもわからないくらい自分の好きな風景が新潟にはあった。そのことを、今回の訪問まで知らなかった。

 

写真展を見て、その夜は新潟の酒を堪能した。堪能しすぎてしまった。時間が早く進んだ。

二日目はまた住宅街に行き写真を撮った。アポロンというギター屋さんが市内にあるので、見に行った。とてもステキなギター、東京でもまず見つからなさそうなギターが取り揃えてあった。

 

二日目も、写真展を見に行ったが、そこで出会った人たちと話しをしているとすぐに夕方になった。帰らねばならない。

 

新潟の駅前で東京に帰る電車を待つ間学校の先輩(写真家)に一杯付き合ってもらった。明日からまたいつもの仕事に戻る為に頭を切り替えたかったが、その前に新潟のうまい酒を二合ばかり飲んでおこうと思った。

店は席の半分くらいがうまっていて、まあまあ繁盛しているようだった。威勢のいい若い女性店員が熱燗を運んでくれた。

こうして、新潟の名残を熱燗二合で片付けようと入ったのだが、いざ帰るとなると、竜宮城を去る浦島氏の気持ちになった。うまい酒、美味い魚、ステキなギター屋、ステキな街並み、先輩を後にのこし、東京の日常に戻るのはとても辛かった。子供の頃田舎のばあちゃんの家から札幌に帰るあさの気持ちを思い出した。あの時も熱燗二合があれば良かったかな。

 

先輩と話すこともなく、押し黙って二人盃を交わしていると、ラジオからアリスの遠くで汽笛を聴きながらがかかった。

 

もう東京へ帰ろうと思った。

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2014年

5月

12日

すれ違いの世界と大便

拝啓、東京は初夏と言っても過言でないくらい、暑い日が続きますが、そちらは如何ですか?お元気にしてますか。あなたに最後に会ったのはいつでしたかね。もうすっかり忘れてしまいました。

 

今日こうして便りを書いているのは、僕たちが学生だった頃のことをふと思い出したからです。あの頃の僕は落第坊主で、ろくに大学にも行かず、酒ばっかり飲んでましたが、あなたはあの頃から優等生で、小難しい写真作品を撮られたりしてましたね。そう考えてみれば、僕は社会人医なっても相変わらずの落第坊主で、あなたは今でも写真を続けられて、社会人としてもエリートコースをたどっていますね。今の僕たちも、やっぱり然程変わってませんね。

変わったことは、私が結婚したことくらいかな。

 

落第坊主の私もあの頃は写真ばっかり撮ってました。あなたが、どちらかと言うと内省的な写真ばかり撮っていて、僕は街ばかり撮ってました。

学生会館覚えてますか?きたない所だったけど、僕たちが最初に会ったのはあのきたない建物の中でしたね。あなたは男みたいなカッコして馬鹿でかい一眼レフを持っていて、僕は安物のニコンを持ってましたね。

あの、暗室を覚えてますか。僕は数度しか使わかなったけど、あなたはいつもあそこで写真を焼いていた。僕はあの汚い暗室が苦手で使うのがイヤだったから自分のワンルームの部屋をすぐに暗室にしました。あの汚い暗室から、あんなに純粋で透明なあなたの写真ができ上がることが不思議でした。

 

そうそう、今日思いだしたのはその暗室を出たところにあった洗面台。洗面台というより手洗い場と言った方が良いのかもしれないけれど、汚いステンレスのながしが暗室の横にありましたね。

あそこのながしでおこった奇妙なことを思いだしました。

 

或る朝、殆ど学校に顔を出さない僕が、学生会館に行ったとき、暗室の方から異臭がしました。異臭というよりも、明らかに人間の大便の匂いでした。

近くまで行ってみたら、匂いは暗室からではなく、外にある流しの方からでした。どうやら誰かがそこで用を済ませて、大便がながしに詰まっていたのです。

 

学生会館には私の他にはほとんど誰もおらず、仕方なく私が学生課に行き事情を告げました。そうしたら、学生課で一番若い兄ちゃんが対応してくれるということになり、その兄ちゃんと二人で学生会館へ戻りました。

くだんのながしに到着すると、学生課の兄ちゃんはイヤな顔をひとつせず配管の詰まりを治すべく、長いワイヤーの様なもので作業をはじめました。その姿を見て、大人になっても絶対に大学の学生課でははたらくまいと思いました。

 

何故だかはわからないけれども、そんなことを、ふと思い出し、あなたに便りをしたためました。

 

いつか僕たちの子供が大きくなったら、また、あなたと一緒に学校を歩きたいです。僕等の子供を連れて。

不思議なことだけれど、きっと、学生時代のあなたとまた会えたような気持ちになれるのではないかと思います。

 

では、その時まで。お元気で。

 

敬具

 

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2014年

5月

09日

残された独りの時間の為に

あの、九十年代半ばの映画で、ミッシェルアンドロミーっていうやつあったろ。あれでさ、プロムで最後に女の子二人だけになっちゃって二人でタイムアフタータイムに合わせて踊るシーンあるだろ。

 

俺、あれ好きなんだよね。

きっとシンディーローパーもあれ見て誇りに思ったとおもうよ。あれ、知らない?

見たこと無いなら見た方がいいよ。あれ、男独りで金曜の夜にテレビで見たら、センチメンタルってのがどういうもんかわかるよ。俺は絶対に見ないけどね。死にたくなると嫌だから。

 

あと、ジャニスイアンが、ジャニスジョプリンじゃないよ、ジャニスイアンが17歳の頃って歌うたってるじゃない。あの曲、何もしなかった日曜日の夜に一人暮らしの部屋で独りで聴いたことある?

 

俺は絶対聴かないけどね。

前、日曜日の夜に独りであの曲ギターで弾いていたら、もうどうしょうもなく憂鬱になったよ。だからもう二度と聴かない。

 

けどね、人生って不思議なもんでね、望む望まぬに限らず家族とか、パートナーとか恋人とかできてね。本当に独りになれるのは今だけかも知んないんだ。

だから、それ、今のうちにやっとかないと死ぬまで出来ないよ。まあ、それでも良いんだけどね。

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2014年

5月

09日

薬をあてにするな。

もう何年も前にね、そのころ睡眠薬と精神安定剤を処方してもらっててね。けれどもほとんど飲んでなかったんだよ。

 

それでさ、その頃好きだった娘がね、くれって俺に頼むんだよ。その飲んでない薬を。何に使うんだよ、ってきいたら、死にたいっていうんだよ。旦那と上手くいってないし、暴力ふるわれたり、無視されたりするって言うんだ。

 

お前、そんなもんいくら飲んでも死なないよって言ってやったの。俺も前に女の子にふられて悔しくて、もらっていた薬バカのみしたけど何にもおこんなかったよって。そしたら彼女うつむいちゃって。

 

仕方ないから、じゃあ、俺が死ぬの付き合ってやるよ。二人でホテルでも行って死のうって言ってやったの。もう、清水寺から飛び降りるくらい大盤振る舞いな気持ちで。

 

そしたらさ、嫌だってんだよ、そんな気持ち悪い死に方。

 

おりゃーさみしかったね。こいつにとって俺ってそんなかよって思って。おれがここまで歩み寄っているってのにね。

 

けどね、その後もそいつと会わないようにするなんてことにはならなくてね、それからもズルズルやってるうちに、結局そいつの旦那の転勤でいなくなったよ。

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2014年

5月

09日

砂漠を歩く

時々、人と関わりたく無くなる。人が嫌いなわけではない。自分自身が弱くて、ついつい人に甘えてしまい、結果として迷惑をかけたり、身の回りの人が嫌がることをするのが嫌になるのである。
私の周りには、人付き合いがあまり上手くない人達が多い。だから、私はそこにつけ込んで面倒をかけるのだ。
そういう自分が嫌になりそうな時は、人を避けたくなる。自分に失望したくないからだ。
しかし、そうしているうちにすぐに人恋しくなり、外にでるのだ。世間には人の暖かさを感じられる場所は少ない。私の場合はいつも何処か一箇所である。
だから、その一箇所に行く。このだだっ広い砂漠に一箇所しかないオアシスに足を向ける。
それが、女性の部屋の時は厄介だ。あんた、家に奥さん待ってるでしょ、と言われる。確かに家には家内が待ってる。
家に居たければ家にいる。家に居たくないから砂漠を歩く。傍らにある蛇口をひねって飲める水がいつも甘露とは限らない。貴方のオアシスの水が飲みたくて、砂漠を歩く。
だから、私の世界には、家の水道と、砂漠のオアシス、砂漠のオアシスを模した飲食店。それしか存在しない。

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2014年

5月

01日

真夜中の電話、真夜中の修羅場

彼女から電話がかかって来たのは夜の1時過ぎだった。その夜は、ちょうど、今の私の嫁さん(当時の彼女)が東京にテストかなにかを受けにきたついでにうちに泊まって居たので、布団を抜け出して、台所の換気扇を回し、エコーに火をつけてから彼女の電話にでた。

 

電話口で彼女は泣いているようだった。

 

彼女は、今ちょうど彼氏が部屋に泊まりに来ているはずだった。今朝、布団を出た時、私のタバコの臭いが彼女の布団にのこらないように、ファブリーズを吹いたのだ。

 

どうしたの?こんな遅くに、彼、一緒にいるんだよね?

 

彼女は何も答えず泣いているようだ。

 

そっちへいこうか?

 

まあ、彼女は絶対来いとは言わないだろう。

 

どうしたの?なにかイヤなことあったの?

あのさ、俺、今まで彼女と寝てたんだよ。こんな時間に電話かけて来て、俺に泣きつかれてもどうすりゃいいのかね?君、そういうことのために、今、彼氏来てるんでしょ?

 

もう、いい!佐々木さんに電話なんてしなけりゃよかった。あんた、何にも私のこと考えて無いのね!

 

そう彼女がまくし立てると、永遠にも思える沈黙になり、私も何にも言えなかった。

今の嫁さんが布団から出て来て、どうしたの?と私に聞く。

いや、何でもない。ちょっと友達が泣いて電話かけて来てるから、先に寝てて。

 

再び、携帯を手に取り耳にあてた。

 

ごめん、ありがと。

 

彼女がそうつぶやいた。このまま電話を切ってしまったら、もう二度と彼女と会えないかもしれないと思った。それでも、私は言うべきセリフを探せないまま、電話を耳にあてていた。

五分程、そうしていたが、私の方から話しかけてみた。

 

きっと、君の夏休みももうすぐ終わるんだね。夏休みが終わったらまた君に会いたい。そしたらいっぱい楽しいことあるよ。わかんないけど。だから、今日は彼氏心配するから。もう寝なよ。彼氏がいなくなった後のことは、俺がなんとかするからさ。わかんないけど。

 

彼女が小さく頷く音が聞こえた。そうして電話が切れた。

 

わー、しまったなー、俺一世一代の漢気を見せるべきタイミングでしくじったかもしれない。もっと彼女の声に耳を傾ければ良かったかもしれない。

 

それから、そろそろ8年が経過するが、私はあのときどう彼女に言えば良かったか、まだわからないでいる。

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2014年

4月

30日

落第坊主の留年記と青春の瞬き

私は大学の講義というのが苦手だった。

何処が苦手かというと、90分というのが苦手だった。私の集中は三十分しかもたない。その上三十分毎に便意を催す。集中が切れると人の話が頭に入らない。

90分集中に耐える講義は鈴木良隆先生の商業史及び経営史と、松井先生の消費文化論だけだった。だから、どうしても聞いていたい講義の時は、先生にあらかじめ事情をはなし講義中二回抜け出してトイレに行きタバコを吸いに行っていた。そのような方法で瀧澤先生の失楽園についての講義と、高田先生の社会学系の授業を乗りきった。

だから、私が、大学六年間でまともに受けた講義はその四コマだけだった。当然私は落第坊主だった。

消費文化論二という、若くて美人の先生がやっていた講義は、初めの三十分だけは聞いていられたが、残りの六十分は飽きてしまって、カメラジャーナルという雑誌のバックナンバーを読むのに費やした。そのおかげで、カメラジャーナルのバックナンバーを全て読破し、消費文化論二の単位も頂いた。

全ての出席レポートにその日のはじめ三十分の感想と、残り六十分のカメラジャーナルの感想を書いたら、先生の方がそれに慣れてくれて、単位をくれた。講義の内容はフランスのデパート、ボンマルシェにおける主婦の万引きについてだったので、自分の中学時代の万引を引き合いに出して、デパートで万引きするような主婦連中はいくら言っても治らんだろうと毎回書いた。それより、今日の私はフランスのレンズ、アンジェニューのエロスとキノプラズマートが如何にシャープかの方が気になりましたと書いたら、先生から私の旦那もカメラ好きみたいです、と返事が返ってきた。

学生時代はカメラ以外のことに興味がわかなかったので、それも仕方なかった。

 

大学六年生の時はホント卒業出来ないかと思って必死だった。

特に夏学期のテスト期間。履修単位全て通さないと、留年確定だったから、テスト寝過ごしたら卒業が出来ない。

仕方ないから朝までやってるバーで一晩中勉強しながら飲んで、あさ八時半にバーを出てテスト受けに行く。そして、テストの間に一時限以上空く時は別のテストやっていても構わず次の教室に行って寝てた。

 

そうやって全てのテストが終わった日に、当時仲良くしてた学校の後輩の部屋に行って飲んで泊まった。彼女の彼氏が次の日の夕方に異国からくるというから、彼女とはひと夏の最後の一夜だったが、私は力尽きて、アッバスキアロスタミの映画の途中で寝た。

次の朝、10時頃起きると、快晴だった。おい、夏休みがやってきたぞと、寝てる彼女を起こして、とにかく今まで我慢していた人の悪口を気の済むまで言い合って、そのままヌード撮影会やって、裸のまま抱き合って昼過ぎまで寝た。

青春とは、そのときには何も感じないで、ただただそのことに夢中な時なのかもしれない。私は彼女を抱いて寝ているとき勃起すらすることを忘れていた。

 

あの日の朝が私の青春時代で最も美しい朝だったのかもしれない。

今思い出すと、とても牧歌的な学生時代だった。

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2014年

4月

24日

世田谷のえんま様

世田谷区は恐ろしいところで、私の住んでいたボロアパートの一階の部屋の下にはまだ部屋があって、そこには、いつもボロボロの服を着て、ボロボロのサンダルを履いた老人が住んでいた。そのアパートと道を挟んで向かい側は立派な塀に囲まれた高級分譲マンションがたっていた。

道路のボロアパートの並びは、同様のボロ屋が連なり、高級分譲マンションの側にはマンションとサミットという小綺麗なスーパーがあった。

貧乏だった私たち夫婦は、時折そのサミットのお惣菜が安くなる時間に買い物をしたが、大抵は食うや食わずの生活を送っていたので、コンビニか駅の近くの安売りスーパーか100均で食べ物を買っていた。

アパートの横にはゴミ捨て場があって、みんな同じ安売りスーパーで買い物をしているらしく、同じスーパーの袋に入れられたゴミが汚く雑に棄てられていた。

一方、高級分譲マンションの方には鍵のついた柵に囲まれたゴミ捨て場があって、売り物のゴミ袋に入ったゴミが、指定の日の朝だけ、綺麗にまとめられていた。

貧富の差はゴミ袋にまで現れ、貧しい者はゴミの捨て方も汚くなるということを知った。そして、住人が少ないはずのボロアパートの側の方が、いつもゴミが多かった。ゴミの中身はコンビニ弁当の空が大半だった。

私が無職になってからは、毎日家でゴロゴロしていたので、ゴミの観察が日課になった。ゴミの観察はつまらなかった。

ある日、ボロアパート側の並びの工事現場で男が頭から血を流して倒れていた。現場の作業員のようだった。珍しいのでしばらく観察していたが、男は全く動かなかった。

数日後に工事現場の作業が中止されて、現場に花が置いてあった。私は無感動に写真を撮ってみた。写真を撮っていると、こんな生活をやめたいと思った。

芦花公園までトランペットを背負い自転車で行った。デタラメに吹いてみたが、全然音が出なかった。

貧乏人は音楽をやっても、やはり貧しい音しか出ないと思った。それでも、その後半年以上その貧乏暮らしが続いた。クソみたいに辛かった。

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2014年

4月

19日

青春とは

それは今から14年ほど前の春、ハタチで大学に入学した。

同じクラスに小樽出身の男がいて、すぐに友達になった。もう一人神戸出身の男もいて、三人で毎週のように酒を飲んだ。

あの頃は三人ともまだ自分のパソコンは持っていなかったので、エロサイトとかの存在は知らなかったが、かといっても、エロ本やエロビデオを買ったりもしなかった。そもそもテレビを持っていなかった。

大学に入りたての女の子達は開放的で、春の陽気も手伝い、性欲のはけ口には苦労しなかった。

もっとも、私はあまり性欲は強くないので、月に一二度くらい何とかなればそれで性欲はおさまった。

しかし、男三人が集まり話すことといえばおよそ九割が下ネタと、クラスの女の子の話だった。

幸い、私のクラスにはかわいい女の子が比較的多くいた。とは言っても五人位だが。私はクラスの女の子の名前を列挙した星取表を作成し、三人で星取表をうめた。

その作業が終わると、性欲をどう解消しようかという話になった。学生の私たちは金がなく、風俗店とは縁が無かったので、やれテニスサークルの新歓コンパだ、やれダンス部のパーティーだと話し合ったが、どれも、性欲の解消という目的の為には、長過ぎる手続きが必要なので、今から準備するのは面倒だ、ということになった。

 

その時、小樽出身の男が、

あっ、いい方法がある!

と言って急いで自転車に乗り何処かへ行ってしまった。

 

三十分以上神戸出身の男と二人で酒を飲みながら、彼を待った。そのうちに私は酔いつぶれ、眠ってしまった。

 

起こされてみると、小樽出身の男がいっぱいに書籍の詰まったビニール袋を持っていた。彼の家の近所の古本屋で特価販売されていたという官能小説だった。

 

私たちは、とりあえず、眼鏡をとり、思い思いに官能小説にかぶりついた。確かに、なかなかよく書けてはいたが、性欲の「解消」には結びつかなかった。

 

思えば牧歌的な青春時代だった。 

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2014年

4月

17日

あいつだけはいつでも俺の女だろうという幻想

心の中で、何故かかなり長い間頼りにしていた、学校の後輩の連絡先を携帯から消した。フェイスブックもアンフレンドした。
彼女と今年の始めに会った。とても久々に。俺はその時ですら自分の幻想が幻想であることに気がつかなかった。


ある女性との関係についてぽろりと彼女に話した。


彼女に言われた。
あんた、いつもそうやって生きて来たの?私がそんな話聞いてなんとかしてくれると思うの?
そう、俺はいつでもきっとそう思っていた。そいつに捨てられても、きっと君がいるなんて思っていた。
それから何日かして、いや二ヶ月してやっと、そんな馬鹿なことはないと気付いた。あの人にだってあの人の都合がある。当たり前か。
けれども、私は、やっぱり自分の心の中にこのことを収めて置かないで、あの人のいなくなったFacebookでぼやいたりしている。

 
 

私はFacebookを懺悔の場か何かと勘違いしている節があり、時折ひどくプライベートなことを書いてしまいそうになる。よく考えてみると、Facebookはごく近しい間柄の方々同士でつながっていたりするので、プライベートなことを書くと、その当事者や、その当事者と私との関係をよくご存知の方々に読まれてしまう。だから、Facebookにはプライベートなことは書かない方が良い。口は災いの元。

 

私は惚れっぽい方で、いい齢していまでも頻繁に女性に惚れて盲目的になることがある。それが三ヶ月で素面に戻ることもあれば、何年も続くこともある。

そのせいで異性に迷惑をかけてしまったりする。そして、向こうから私を避けるようになり、結果独りになる。因果応報と言いましょうか。

独りになって、初めて気づくこともある。私は彼女を其れ程求めていなかった。ただ、恋愛というゲームで、世の中の煩わしさを忘れようとしていたのではないか。彼女を求めているような気分になっていたのは、自分を傷つけないでセンチメンタルを気取る為だったからではないのか。

そして、大抵の場合それは正しい。サクリファイスという古い歌があるが、あんな感じか。彼女達と戯れ、服に残る彼女達の残り香に傷心する、そういう男の勝手なセンチメンタル。

 

そうそう、五年(10年?)くらい前にサンボマスターというバンドが「そのぬくもりに用がある」という歌を歌っていて、私はその歌詞が嫌いだった。自分の醜い部分を鏡で見ているようで嫌だった。曲そのものはとても好きで何度も聴いたのだが、よくよく歌詞を聞くにつれて、その内容がわかるようになり、なんだか気恥ずかしくなった。

 

傷心のあとの自分も嫌な男の典型で、妻の元に帰り、泣き言を言う。俺はあいつに会わないとしんでしまいそうだ。とか、

それができない時は、何も話さない。

 

もちろん、この世界は私だけの為にあるわけではないのはわかっているつもりだが、いまだに妻は私だけの為に居るのだと思っているのだろう。

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2014年

4月

16日

或る女性のための小話

こういうと、やっぱり彼奴は同性愛者だったんだと言われてしまうかもしれないが、私は同性愛者ではない。バイセクシュアルである。


まあ、それはともかくとして、恋愛という器は砂型のように自由自在に見えて、実のところ金型のように異形を許容しない。だから、私たちは自分のわけのわからない感情のもつれを、どうにかして恋愛の型に押し付けようとして、しばしば痛みをおぼえる。


男には男同士にしか分かち合えない愛の形があると言えば簡単だが、それが愛という言葉で片付けられるものなのかそうでないのかは今でもよくわからない。ただ、私たちの場合それはアルバートアイラーだった。

彼と関係を持ったわけではないし(ケツほったりね)、彼は私の好きなタイプの人間では、いやこの場合は男では無かった。私には理解しがたい側面だらけの男だった。

アルバートアイラーが好きな高校の同級生がいた。私の知る限り、日曜日には、彼はアルバートアイラーをかけて、ベランダに座り日がな一日タバコをふかしていた。彼とまだあまり親しくなかった私は、とりあえず彼に倣いベランダに出てそのワケの分からないデタラメみたいな音楽に耳を傾けた。そんな午後を片手で数える程一緒に過ごした。


高校を卒業してから、浪人時代に入り彼と親しくするようになった。けれども、その頃は彼のターンテーブルの上にはアルバートアイラーではなく、キップハンラハンやアメリカンクラーベのレコードが回っていた。

もうアルバートアイラーは聴かないのかい?あんなに好きだったじゃない。と私が聞くと、

アルバートアイラーはもう死んだ音楽だ。私が彼の音楽に求めたのは母性のようなものだった。けれど、全ての音楽に母性を求めたのは間違えだった。アルバートアイラーはもうどこにもいないんだ。俺には今の音楽が必要になったんだ。ひとりで居ることの寂しさを紛らわす音楽が。

今でも時々アルバートアイラーを聴くよ。レコードラックで偶然彼の音楽と出会えた時に、彼が私の為に吹いてやってもいいぞという時に。それが死んだ音楽だってことには変わりないけど。

そんな台詞を口にしてもかれはキザに見えない男だった。そして、何処か東南アジアのお土産だという石のパイプにタバコを詰めて、ベランダで日がな一日ふかしていた。

 

そうして私は彼の家のベランダで、パーラメントライトをふかしながら、日がな一日レコードを聴いた。私たちは、毎日そんな午後が終わらないでくれることを期待して、そしていつも裏切られた。大抵は私の聴いたことのない、しみったれたラテンのレコードの真ん中の円を針が惨めったらしく回るのを5分程見届けて、ではまた明日となった。
異性に慣れていない私たちはそうやってデートの疑似体験を繰り返し、19の夏を過ごした。


今日このことを書いている。その彼も、私の前からいなくなってしまったから。

まるで過去の過ちを短壺に吐き捨てるように、私たちは会わなくなった。
家のレコードラックにアルバートアイラーのレコードもCDもなかったのだが、突然彼を懐かしく想い会社帰りにお茶の水に降りて、My name is Albert Aylerを買って来た。1,400円だった。

 

あれから15年が経ち、妻が寝息を立てているよこで、彼女を起こさないようボリュームを絞りアイラーを聴こう。

 

彼女の思い出のためにも。

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2014年

4月

08日

妻との約束

4月1日、今日世間では年度初めなのか。

私も十年近く前に、安い背広に親父から貰った貧相なネクタイつけて、社長から辞令貰った気がする。親会社から来た話のつまらん社長と、年功序列終身雇用のくだらない会社での生活が始まった。
くだらないのは同期社員まで揃いも揃ってで、女性社員がそこそこ綺麗なこと以外は何もいい事のない場所だった。
昼飯を役員とイタリアンレストランで食べて、ワインをたらふく飲んだので昼間っから頭がぼーっとして、気付いたら五時だった。
まだ明るい自宅への帰り道、桜が満開で、なんだか虚しい気持ちになった。俺はこのまま、この中小企業で冴えない生活を送って歳をとって行くんだと思い涙がでた。
すぐに田舎に帰っていた今の妻に電話をかけて、東京に出てきて、俺と住もうと言った。もうこんな生活を独りで続けられなかった。
半年後くらいに妻が上京し六畳での二人暮らしが始まった。
そういや、あの時約束したんだ。ずっと一緒にいようって。
それが私の年度初めの記憶だ。

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2014年

4月

08日

私の苦手な東北の街

俺は声を殺して泣いた。幾晩も泣いた。横で寝息を立てている嫁さんに気付かれぬよう、タオルを口にあてて、涙を堪えて泣いた。
しかしながら、私の小さな願いも届かず、結局あの人は旅立ってしまった。毎晩毎晩、俺が金持ちだったら、俺が留年せずにもっとマトモな職についていたら、と思い、けれども結局この結末は避けられなかったんだろうな、と思い、途方にくれた。
悲しみを忘れる為に、酒も飲んだ、メイドカフェにも行った、騒がしい音楽も聴きに行った、行きずりの女と…。
けれども何者も私の心を癒してはくれなかった。
俺はこの先一生北国のあの地名を耳にする度、今日と同じように絶望的な気分になるのか。

その街が憎い。何もかもを引き裂いた東京という町も憎い。

そういえば、もう十年ほど前、私は各駅停車を乗り継いで、札幌の実家に帰省した。そのとき、初めの晩はその街に降りたって酒を飲んだ。
その街で唯一の繁華街の店に入った。

カウンターには、それ程年増ではない、東北美人のママがいた。ママ一人でやっているスナックだった。
あんまり面倒くさい酒を頼んでもいけないと思い、ジンを頼んだ。

マティーニもできますよ

そうママに言われるままにマティーニをもらった。よく冷えていて、ドライなマティーニだった。ああ、これは私の好きなタンカレーだなと思いながら飲んだ。
そのまま、四杯ほど飲んでその店を出た。店をでて、ママの顔を思い出しながら、明日は山形に行こう。あの人の住む山形へ行って、もし会えたらあの人に会おう、と思った。

明日は花笠祭りだ。祭を見よう。

そのまま駅前のサウナに入って寝た。ホモの居ない安全なサウナだった。
 
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2014年

1月

16日

Well, it's all over now.

そりゃ、彼女を愛していたこともあったさ。けれど、そういうのはもう全て終わったことなんだよ。

 

ジョニーウィンターがスピーカーの向こうで叫んでいる。スタジアムに満員の聴衆。ギブソンのファイアーバードを搔き鳴らしながら叫んでいる。

 

そうだ、全て終わったことなんだ。

モトの話しはもう何年も前の話しになるし、そのままを書けば私の親しい友人ならこの話しの登場人物に心当たりがあるかもしれないが、ご自由に想像して頂ければ良いと思います。

 

同級生、なのか先輩と呼ぶべきか。私は大学で2年も留年していたので、彼女に出会ったときには彼女の方が上級生であったかもしれない。私は、都のはずれの街で学生をしていた。もう十年以上前である。毎日昼頃におきて、シャワーを浴びて、首にライカM4Pを下げて、ズボンの右のポケットにフィルムを5本入れて、家を出て、2時間ばかり写真を撮って家に帰るという生活を送っていた。

家に帰るのは、大体4時頃だったと思うが、ちょくちょくヨドバシカメラや中野、新宿の中古カメラ屋に寄り道をしていたので、帰りが7時頃になる日もあった。

 

家に着いてもすることはない。

カメラを家において、飲み屋にいく。千円もあれば飯も食って酔っぱらえる、そういう奇特な飲み屋がその街にはあった。そこのカウンターでホッピー、ビール、又は焼酎を飲んで、2時間もすれば酔っぱらって家に帰った。

 

そんな生活をしていたから、学校には殆ど行っていなかった。だから人とは殆ど会わなかった。その年の春に、その頃から付き合っていた今の私の妻が学校を卒業して、実家の九州に帰ったので、本当にぜんぜん人と会わなかった。ただ独りで、写真を撮ったり、煙草を吸ったり、本を読んだりして過ごしていた。

 

サークルには所属していた。モダンジャズ研究会である。私は吹けもしないトランペットを持って、月に一、二度くらいサークルにも顔を出したが、そもそも楽器の練習なんて殆どやっていなかったので、サークルに顔を出してもやることもなく、部室で酒を飲んだり、タバコを吸ったりしていた。サークルに顔を出した日は、決まってサークルの仲間と酒を飲みに出かけた。飲みにいった日は大抵店のカンバンまで飲んだ。だから、そういう日は、サークルの誰かがうちに泊まりにきていた。

 

学校にはほとんど行っていなかったと書いたが、週に一度月曜日にゼミというものがあって、少人数制の授業だったので、欠席しづらくて、大体毎週顔を出すようにはしていた。ゼミのある日は、大抵ゼミの後ゼミの仲間と飲みに行った。大抵はやはりカンバンまで飲んだ。だから、ゼミのある日は、大抵ゼミの後輩の女の子の部屋に行って泊まっていた。

 

その他に、これも少人数制のグループワークがある授業があった。これも、グループに配置されたため欠席しづらくて毎週顔を出していた。私は写真にしか興味なかったので、グループワークでは主に写真について私たちは討論していた。

 

彼女とはその授業で出会った。

彼女は中性的な人間で、女っ気もなく、煙草は吸わず、音楽の趣味も私と全く異なっていて、勉強家でとても頭がキレて、およそ私が積極的に仲良くなろうと思うような女性ではなかった。私も、その頃は若く、モテないくせに面食いで、女性の理想も高く、自分の好みの女性にしかこちらからお近づきになろうとは思わなかった。それに、インテリな女性は何となく鼻持ちならん奴と思っていたので、尚更距離をおいていた。

ただ、彼女は私の学校の知り合いの中でも珍しく、写真に強い興味もあったようで、ライカだったかコンタックスだったかのカメラを持っており、自分でもかなりの量の写真を撮っていた。

 

何度目かの、授業のときに彼女が自分の撮った写真を偶々持ってきており、見せてもらった。とくに、面白い写真だとは思わなかったが、普通の二十歳そこそこの女性が撮るような写真ではなかった。悪く言えば、パッと見ても全く面白くないのである。無愛想で、無表情で、不気味さすら感じた。私は、その頃学校の先生の影響でストリートスナップの写真にしか興味がなかったので、彼女の写真に魅力は感じなかったが、確かに良く見ると、それぞれの写真が少しづつ異なっていて、その偏差が不思議なバランスで均衡を崩していて、奇妙な写真だった。彼女に突然、不意に、私の知らなかった写真のあり方を提示されたので、私は正直いうと少しうろたえた。

 

そんなことがあり、私たちはほどなくして、その授業の少し前に学校の池と講堂の間で待ち合わせ、一緒に教室に行くようになった。正確には、待ち合わせているのではなく、その授業の前の時間は彼女も授業をとっていなかったらしくその辺りでいつも写真を撮ったり、ベンチに座って本を読んだりしていたのだ。だから、その授業の日には、私の毎日の撮影が終わる頃にそこに行けば彼女がだいたいそこにいるという手はずになっていた。

 

結局、彼女と私はその授業を二年間程とったのだが、私は二年目の途中で面倒くさくなってその授業に行くのをやめた。授業に行くのをやめたのと前後して、私は写真を撮ることもやめてしまい、リクルートスーツを買い、半年以上遅れた就職活動をし、ある中小企業に就職が決まり、卒業した。

 

彼女がその後どうなったかもわからない。

 

私が社会人になって4年か5年目ぐらいの11月ごろ、私は気まぐれでかつて学生の頃に写真を教えてくれた写真家の写真展を見に行った。土曜日の夕方だった。新宿御苑近くのギャラリーに入ると、彼女がいた。あの、授業で一年半ぐらい一緒だった彼女だった。彼女は、写真関係の知り合いと一緒に来ていたらしく、そのギャラリーにいた何人かの人と話していた。私は、小さく挨拶をして、「懐かしいですね」と声をかけた。あの授業で一緒だった人の思い出話をして、連絡先を交換して別れた。彼女は東京を離れて就職したらしい。

 

その数週間後、彼女の携帯電話にメールを入れた。

 

「こんにちは、佐々木です。今度いつ東京にいらっしゃいますか?もしこちらに来たときに、もし良かったら逢えませんか」

 

本当は、もう少し推敲に推敲を重ね、書いたのだが、何と書いたかよく憶えてはいない。彼女から返事はすぐに来た。

 

「今週末、東京に帰ります、土曜の夜独りで映画でも見ようかと思っていたので、もし良かったらご一緒にどうぞ」

 

という返事だった。私は映画館の場所を聞いて「行きます」と答えた。

 

土曜の夜に、新宿駅で待ち合わせをし、彼女と映画を見た。映画を見た後に、「ビールでも一杯如何ですか」と切り出すと、彼女は「良いですよ」と小さく答えた。

 

彼女と共通の話題はそれほどなかったので、ビールを飲んでも、あまり話しに花は咲かなかったが、ビールはうまかった。そして、私たちはお互い黙っていた。彼女の外見は学生時代と変らず、派手さはないが、成熟した女性の色気のようなものが加わっていた。モヒートを飲むしぐさも、洗練されていた。そして、彼女の語り口には学生の頃と変らず知的な香りがした。

 

どちらともなく、「もう出ましょうか」と言って外に出た、外は風が吹いていて寒かった。私は、そっと彼女に寄り添い、彼女の唇に唇を重ねた。彼女は静かに唇を開いて、そして閉じた。それが、私たち二人の間に何ももたらさなかったことは確かだった。私たちの間に、これまでも、これから先も何も起こることはないということを確認するための儀式のようなキスだった。その一方で、私は彼女に出会った頃からずっと、彼女とのキスを待っていたんだと気がついた。学生の頃から、彼女のことがきっと好きだったんだ、と気づいた。一方で、今日のキスは彼女にとって何の痕跡も残さないと感じた。

 

そのまま、彼女と手をつなぎ新宿駅まで歩いた。彼女の手は冷たかったので、私のコートのポケットにその手を入れた。

 

それから、彼女とは一度も逢っていない。そして、彼女の連絡先もどこかへ行ってしまった。

 

Well, it's all over now.

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2014年

1月

08日

書き出しの原案1

「佐々木さんを傷つけないように一応言っておくけど、私別に佐々木さんのことを嫌いとか、好きとか、そういうことを言っているんじゃないの。ただ、佐々木さんの書いているくだらない小説に出てくるような女にはなりたくないの。」

 

そうはっきり言われると、嫌いとか言われるより傷つくな。俺の小説なんてどうせろくに読んでもらっているわけじゃないのに。

 

一応、なんか言い返さないと格好がつかないから

「べつに、あなたのことモデルにして小説なんか書かないよ・・・」

 

と言い終わらないうちに

 

「だっていつも大体そうじゃない。奥さんのこと話したり、写真見せたりした後にすぐ、寝ようとか、キスしようとか・・・」

 

っと彼女

 

「いや、俺は寝ようなんて一言も言っていないし。それに嫁さんの話しは。いつも言っている通り、私は嫁さんを愛しているから、嫁さんを捨てて他の女と一緒になろうなんて考えていないんだよ。ただ、君のこと好きだっていうのはまた別のことで、だからこうしてキスしようと思うことはどうしょうもないことだろ。」

 

「だから、私はそういうどうしょうもないからってキスするような気持ちにはなれないの。なんでそんな事もわかんないの?佐々木さんの勝手な理論なんてどうでも良いの。

それに、パジャマ姿でベッドに座っている女の子にキスしようとするのは、寝ようと言っているのと変らない。」

 

確かに、彼女の言っている事はよく理解できる。しかし、それでも好きになったりするのが恋愛ってもんだろ。とにかく、今夜はこうして彼女の布団で寝るという運びになったんだ。ここまで漕ぎ着けるのに途方もなく時間がかかったんだ。俺はその間、ずっとずっと独りだったんだ。

 

「これから帰れって言っているわけじゃないんだからまだ良いじゃない。私、もっと早い段階で、お店にいる時とかに、もう帰ったらって言っても良かったのよ。どうせ奥さんが待っているんだろうし。でも、そんな事言わなかったじゃない。あなたが、ここまで一緒に帰ってきても特に文句は言わないし、眠たくなったら勝手に寝れば良いじゃない。でもだからって、キスして良いとかそんな事じゃないの。」

 

「いや、こんな遅くまで飲みにつきあってくれて、その上部屋に泊まらせてくれるって仰るのは大変有り難い事だと思っております。終電が無くなったからって、タクシーで帰れとか仰るのではなく、ここまで私がついてきても文句も仰らないでとっても有り難い事だと思います。

しかしながら、私も、男です。一緒の布団で寝ていいと仰る女性におやすみのキスもできないのは、どうも居心地が悪いというか、片手落ちというべきか・・・

キスなんて、しなくても良いんですよ。夜中に勝手におっぱいさわったりもしませんし。イヤラシい事考えたりもしません。朝になったらコーヒー沸かしてのんで、さっさと帰ります。」

 

「あのね、この部屋に布団は一組しかないから、その布団にはいっても良いって言ってあげてるの。それ以上の期待はしないでちょうだい。別にイヤラシい事考えるのも勝手だし、やりたくなったら布団の端の方で独りで勝手にやって下さい。私は、疲れてるので寝ます。

奥さん心配するんだから、朝んなったらさっさと帰るのよ。」

 

彼女は、寛容なのは素晴らしいと思うが、一体何を考えているのかちっともわからない。そもそも、女の子の一人暮らしの部屋に酔っぱらって転がり込んで、一緒の布団に入るなんて事になったら、まともな男だったらそりゃー最後までやるやらないは別にして、そこそこのこと期待するだろう?その流れで、キスしちゃうなんて事は、そりゃ、些細な事だと思うがね。

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2013年

9月

09日

記憶が消えてしまう前に⑥

I am not sure if she still remembers it, but I still remember the afternoon we played Hotel California with her on our temporal band in my high school day. 
I remember it because in that afternoon my left hand was so hurt since I had punched my host brother in the morning. It was so painful that I even could not hold my guitar properly.

And then, the band started to play the song. I missed a few codes because of the pain on my hand.
I believe that she never even had heard the song before. I noticed it by listening her sang by exploring codes from the start, however, it sounded great. Sounded like I had never heard the song before. I felt as if I was creating a whole new music. I wished that I could never go back to home that my host brother is waiting and I could play guitar for a little more time with my band.
Our band was not proficient, but was good enough to enjoy play music with.
I sometimes wish that l could still play music like I did in the afternoon. I remember the feeling of it with the pain on my hand. Maybe that is on of the reasons why I still play guitar today.
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2013年

8月

28日

Nelson's barでもう一度

人生は短いし、筆無精な私は、明日からもきちっとこのブログを続けていけるかはわからない。書きたくなくなったらやめてしまうかもしれないし、今夜だって、何から書いて良いかわからなくて、困っていたのだ。今夜は書くのやめようかと。

 

昨日の続きが、どうも思いだせない。何を次ぎに書いて良いかわからない。だから今夜はちょっとお休みして、もっと最近のことについて書く。最近のことだが、私の体調がとても悪かった時期のことなので、どこまでが記憶で、どこまでが創作かわからない。わからないし、事実をそのまま書いてしまうと、とても夢のない話しになることは請け合いだ。夢のない話しもこの世には必要なんだけれど。

 

だから、夢のない、儚い夢のような話しを読みたい方はお付き合いください。

雨が降っている、六本木の交差点で待ち合わせをする人たちは沢山いるが、皆これから何をしにいくのだろう?金曜日の夜とはいえ、あいにくの天気だし、こんな日はさっさと帰宅してしまえば良いのに。六本木だから、まさかこれからピクニックに行くわけではないだろうけれども、月末の金曜日なんて、きっとどの店もいっぱいだろうし、ガラガラの店があったら、そこはきっとろくな店じゃない。だから、こんなにたくさんの人たちがこの交差点で待ち合わせをしているのはなんだか滑稽で、哀しくもある。

 

「待ちましたか?すみません」

彼女は丁度7時をまわる頃に日比谷線の出口を上ってきた。

 

「いや、私も丁度仕事が終わって、着いたところだよ、あいにく雨だね」

それだけ手短かに言うと彼女を連れて、いつものライブバーに向かった。

 

金曜の夜に彼女に会うのはいつも嬉しいのだが、だからって金曜日に特別お洒落してきたりはしていない。会社はカジュアルフライデーとかを推奨しているというふれこみだが,それを提唱している人事部の部員が皆スーツにネクタイなので、私もさえないバーズアイの背広にオヤジくさい好きでもない柄のネクタイという姿だ。そういう私も、人事部員の一人なのだが。だから、傘もビニール傘だし、彼女もビニール傘だ。

 

「ホントはもっと可愛い傘欲しいんですけどね、黒地に水玉とか、今度探しにいこうかな」

 

確かに彼女には黒地に水玉のちょっとメルヘンチックな傘はよく似合うと思う。彼女はスカートははかないし、サスペンダーとか、いつもアニーホールのダイアンキートンみたいな格好をしている、そして帽子をかぶっている。黒い帽子を。形はまちまちだが。そんな彼女のファッションに、黒い水玉の傘はちぐはぐな感じもするが、逆によく似合うだろうとも思う。私も、ビニール傘ではなくて、女性に会うときにも恥ずかしくない傘が欲しいが、かといって、わざわざそれを買いにいこうとも思わない。結婚したばかりだからといっても、それほど金に困っているわけでもないし、かといって洒落た傘をわざわざ買う程の金の余裕があるワケでもない。

 

そんなわけで、傘について話しながら、いつものライブバーの扉を開けた。妻と店に入る時に、扉を開けてあげて、妻を先に通すことなんて殆ど無いのに、男というものはこういうところが不思議なもんで、彼女といる時はいつも私が扉を開けて、彼女を先に通す。そういえば、以前彼女が

「イギリスのおじさん達も、佐々木さんみたいにドアを開けてくれるんですよね。知らない人でも」

って言っていた。私も随分昔のことだが、一応オーストラリア帰りである。ほぼ、「イギリスのおじさん」のマナーは押さえている。

 

「そういえば、鼻をかむ時もみんな佐々木さんみたいにハンカチでかむ」

私のそんなところに親しみを感じると、一度彼女が口にしたことがある。

 

店は、ガラガラというわけではなかったが、満席でもなかった。丁度ステージの最前列に二人で並んで座れる席があったので、店の人に言ってそこに通してもらう。いつもよりも、ちょっと良い席に座れたのは雨のせいだろうか。こういう雨なら悪くない。

 

スパークリングワインを二人分頼み、簡単な食べ物も頼む。彼女も私もお酒を飲む時は殆ど食べないのだ。

「私、ゆうがた、家で食べてきたんです。」

と、決まり文句のように彼女が言う。きっと、私の出費がかさまないように気を遣ってくれているのだろうけれども、私は、素直にそれに甘える。私は、どうせ大して食べない。

 

スパークリングワインが届くとすぐにファーストステージが始まる。この店は7時20分にファーストステージが始まるのだ。いつも通り、ビートルズの曲が何曲か演奏される、その間に私はもう一杯ビールをもらい、彼女はスプモーニを頼む。スプモーニって未だになんなのかわからない。おそらく彼女も何も考えないで、それを頼んでるんだろう。

 

セカンドステージが終わることには、私はビールからバーボンのロックに切り替えている。先週か、先々週か、この店にボトルを入れたのだ。キャンペーンのはがきを持って行って確か5000円だった。

 

バンドが曲を演奏している間は私たちはあまり言葉を交わさない。ビートルズのレパートリーがそれほど好きなわけでもないが、あまり話すべき話題も見当たらない。毎週のように逢っていると、話すべき話題はほぼ話し尽くしている。だから殆ど話さない。

 

セカンドステージが終わって、店の灯りが明るくなると、彼女があくびをしながら伸びをしている。彼女は美人の類いではないが、お酒に顔を赤らめ伸びをしている姿は愛らしい。私は彼女のそんな姿を見るのが好きだ。そのために毎週こうして二人でライブバーに来るのかもしれない。

 

「どこか、外に出ようか、飲み直せるようなところで」

私から切り出すと、彼女も頷く。

 

店を出て六本木の街を歩く、何度か入ったことのある店が数件あるのだが、あいにく今夜はどこもいっぱいだ。

「面倒だから、銀座に行こうよ、銀座のネルソンズでも行こう」

彼女も小さく頷く。

 

銀座に出たなら彼女を早く帰さなければいけない、彼女は恵比寿のあたりで実家暮らしをしている、六本木や渋谷なら歩いて帰れるらしいが、銀座に出たら彼女はいつも地下鉄で帰る。何度か、電車がなくなりタクシーで帰したこともあったが、彼女はかたくなにタクシー代を受け取らなかった。未婚の女性を送らずに帰らせるのだから、と思い、運転手に直接彼女の家まで位の金額を渡した。

 

店を探すうち六本木駅から遠くなってしまって、雨もふっているので、二人でタクシーに乗る。二人とも、無言。こうして毎週のように彼女と飲み歩くようになって一年ぐらいたつだろうか、いや、おそらく半年も経っていないだろう。その年の四月に私が結婚した頃から、彼女と逢うようになったので、5ヶ月程か。彼女と、随分頻繁に逢っているので、今更、白々しい話題もふれないし、彼女も私の話しの相手をするより、酔い覚ましついでに窓の外を流れる街を見ている方が良いかもしれない。

 

20分程してネルソンズの前で降りる。ネルソンズに入る。ここはいつも混んではいるが、必ず席は見つかる。三回の屋根裏の席につき、バーボンのロックをもらう。彼女も同じものをもらう。無言でグラスを傾ける。無言をこわすのが怖くて、食べ物を頼むタイミングがつかめない。何か、話した方が良いか、無言も変だし。

 

「いま、好きな子いるの?」

女の子と二人でいるときに切り出す話題としては唐突すぎる話題である。けれども、何か話さないとと思っていて、出鱈目に出てきた言葉はこの言葉だった。

 

「佐々木さんはいるんですか?」

 

「俺? 俺は、嫁さんかな」

 

「そうでしたね」

 

「亜希ちゃんは?」亜希ちゃんが彼女の名前である。

 

「私は、なかなかむつかしいな、なんていうか、好きなのかどうなのかわからない人が三人いて、そのうち一人は私のことも好きみたいなんですけど」

 

余計なことを聞かなければ良かった。私はわりと嫉妬深い方なのだ。彼女の好きな男の話しなんて聞きたくはない。

「そうなんだ、じゃあその男と付き合えば良いじゃない」と精一杯素っ気なく言ってみる。

そして「そんな野郎よりも、俺の方が良い男だろうけどさ」と嫉妬と、照れ隠しに付け加える。

 

そのまま二人黙ってネルソンズで二杯程飲んで店を出た。

 

和光と天賞堂の前あたりまで歩く。通りまでいったん出て、地下鉄の入り口に入ろうかと思うが、思い返して、彼女の手を引っぱり、天賞堂と和光の間の路地に戻る。ここの路地はとても狭いのだが、かつては洒落たバーがあったのだ。バーがしまって、ただのボロボロのバラックのようになっているところは、丁度街灯があたらずに、真っ暗になっている。そこで、彼女の身体を壁に寄せる。ため息をつくように、彼女が私の唇を受け入れる。ほんとうに、ため息のような、諦めのような、すすり泣きのような短いキスを。

 

それからもう一度通りまで戻って、地下鉄の入り口の階段を二人で降りる。彼女の腰に、そっと手を回しながら降りる。

 

一番下の階段まで降りたら、小さな声で「じゃあね、気をつけて」といって彼女から手を離した。

 

 

それが、彼女とは最後の夜になると知らない私が、地下鉄に乗る。地下鉄の席に座り「彼女は、きっと俺に惚れてるな」とぼんやりと考える。伸びをする彼女の姿を反芻しながら家路につく。

 

それ以来、彼女と飲みにいくことはなかった。彼女と暫く連絡が取れなくなり、私も体調を崩し、金曜の夜に出歩かなくなった。彼女と逢っている時も、逢わなくなっても、妻との関係は変らなかったし、仕事も変らなかった。

 

ただ、それ以来私は大きな何かを失った。正確に言うと、本当に彼女を失ったのではない。私が彼女に求めていたもので、彼女がそれに応えていたものがあった、そして、彼女に求めても手に入らなかったものもあった。そのどちらとも区別がつかないものを、「失った」と感じ、今でも時々それを誰かに求める。あの頃、それが手に入っていたかどうかはだんだん忘れつつある。

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2013年

8月

27日

記憶が消えてしまう前に⑤

予備校に通いだしてから、すぐに友達ができたわけではない。

 

田中さんとテツさんとは、喫煙室で会う度に二言、三言言葉を交わすようになったが、友人という間柄になるまでは随分と時間を要した。随分、と言っても、19の頃の随分は、33になった今の随分よりも随分短期間ではあるのだけれど。けれども、私にとって予備校での一年は生涯でもっとも長い一年の一つだから、2〜3ヶ月は随分長い時間である。時間とは相対的なものなのだ。

 

19の春の私の相棒は、ちょっとオカマっぽい大庭君だった。

「ねえ、ヨシサブロさん、またその鳥のおもちゃで遊んでるんですか?飽きないんですか?」

 

「大庭君、ぼくはね、このチュンで遊んでると気持ちが落ち着くんだよ、まあ、なんていうか・・・」

 

「ヨシサブロさん、いい歳してそんなもんで遊ぶの変ですよ」と大庭君、

 

「放っといてくれ、大庭君こそオカマくさいじゃないか」

 

僕らは高校で同じクラスで、何度か言葉を交わしたことはあったが、今憶えているのは上記の会話だけだ。高校の頃は席もまあまあ遠くて、お互いわざわざ会話をしようとは思わなかった。私は高校2年から転入だったので、クラスにまだいまいち馴染んでいなかったし、大庭君は学校の成績はよく、運動神経も良いのだが、素行がオカマくさいという理由で皆から距離をおかれていた。

 

しかし、予備校に通うようになると、同じ「文系進学コース」に大庭君の姿もあったので、成り行きで、私たちはよく話しをするようになった。それでも、はじめの頃は高校でオカマくさいマイナーキャラだった大庭君と馴れ馴れしく話していることに若干の違和感も憶えていた。彼はタバコも吸わなかったので、休み時間の度に喫煙所に行く私とは行動パターンも異なっていた。

 

しかし、高校の同級は同級である。お互いに唯一の知り合い同士妙な親しみを感じていた。

 

或る日、気がついたのだが、大庭君はわりと女の子から気軽に声をかけられていそうなのだ。かれはそれほど冴えない風体で、おまけに言葉遣いやしぐさがちょっとだけオカマくさいのだが、女の子連中にはそんなかれのキャラクターが話しかけやすくて親しみやすいようだ。

 

大庭と親しくすることはヒップなことなんだ。

 

私は少しづつそう思うようになった。それと前後して、毎日昼食を大庭君と一緒に食べにいくようになった。予備校は札幌駅前にあったので、駅に併設されているレストラン街で毎日ランチを食べていたのである。もっとも、予備校生の身分なので、それほど立派な昼食は食べれない。だから、毎日うどん屋か、そば屋か、定食屋で食べていたのだが、それでも、お金がないときにはパン屋でパンを買って食べていた。そうやって、予備校の昼休みを、毎日のように大庭君と二人で過ごした。

 

大庭君も話してみると、案外まともな野郎だった。親に心配をかけたくない、とか、弟も進学を希望しているので、負担になりたくない。とか、そんなつまらんことを話しながら昼休みを過ごした。時々、大庭君が女の子にノートを貸したり、授業の内容を教えていたりする時は、私は一人で昼休みを過ごしたが。一人になると、時間を持て余し、ああ、大庭君がいるだけでも随分マシなんだな、と思うようになった。

 

或る日、昼休みに大庭君と一緒に蕎麦をすすりながら話していると、予備校に着てくる私服がないという話しになった。高校3年間はずっと毎日制服をきていたので、大庭君も私も、私服は殆ど持っていなかった。だから私は姉からのお下がりなんかを着ていたのだけれども、それでも2着や3着程で、毎日それの繰り返しだった。大庭君も、弟の服を着てきているらしい。

 

「ヨシサブロさん、今日の予備校終わったら大通りに服選びにいこう?」

 

とナヨナヨした口調で大庭君が言うので、

「うん、行こう」ということになった。

 

予備校の4時限目が終わり、4時過ぎ頃、私たち二人は大通りの「アルシュ」というテナントビルの最上階にあった古着屋に行った。古着屋へは何度か来たことがあるが、自分の服を買うのは初めてだった。

 

大庭君と私とで、交互に試着室に入って

「これ、どうだろうね?」とか「ヨシサブロさんこれどお?」なんていいながらお互いの服にああでもないこうでもないと言いながら服を選んだ。

 

結局、二人ともTシャツやシャツを2、3枚買って、1,500円程だったと思う。なかなか、今日は良い買い物をしたな、と思って帰宅した。

 

その後、気づくとほぼ毎週のように大庭君と古着屋へ行っては服を選んだ。何枚かシャツやズボンを買ったこともあったし、何も買わなかった時もあった。お互いの服に、ああでもないこうでもないとケチを付けるのは、浪人生にとってとてもいい気晴らしだったし、他の同級生が皆進学し、街に二人だけ残された私たちは、一致団結して今を生きるしかない。と思っていた。

 

ただ、その頃困ったのは、大庭君がたまに変な服を着たがることだった。今考えると、ユニセックスというか、フェミニンというべきなのか、そういう方向性だったのかもしれないが、大庭君はたまにレディースのぴちぴちのTシャツとか、「明らかにそれスカートだろ」というような服を試着することがあった。べつに、そういう趣味は否定しないが、彼の冴えない風体と、若白髪を青色に染めた頭髪と、ヒゲのそり跡が青々している見た目と、彼の選ぶ服は全く調和というものからかけ離れたとこにあった。

 

「大庭君、その服格好悪くはないけど、やっぱりやめた方が良いよ、サイズあわないよ」とか、「さっきのやつの方が良いよ」と私がコメントすると彼はわりとおとなしく、私のアドバイスに従うのだ。

 

あの頃は、あれで良かったのか、それとも彼の趣味を否定しない方が良かったのか、今でもよくわからない。

 

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2013年

8月

26日

記憶が消えてしまう前に④

映画館、それが今日たまちゃんから聞いた言葉だ。

珠ちゃんについては、過去に色々書いたから、今日は割愛しておく。私が注目している、才能あふれるジャズピアニストであり、私の好きな女性像を具現化したような、女神様みたいな女性だ。森田珠美さん。このブログを読んでくれて、彼女に興味を持ってくれたら、是非ライブに足を運んでみて下さい。

 

それで映画館。

 

私たち兄弟の思い出は、映画館からはじまる。映画館は特別な場所だ。

 

ああ、こんなに話し拡げちゃって収集つくのだろうか。時間が許したらお付き合いください。きっとためになる話しは全然出てこないでしょうが。

家族との記憶で、一番古い思い出は、映画館と花火大会だ。

 

記憶のある限り一番古い映画館の記憶は、スターウォーズだ。ジョージルーカスの出世作、スターウォーズの第一作。その映画に家族五人で行った。両親と姉二人と。

 

けれども、映画のことは殆ど憶えていない。なぜなら、幼い頃の私は映画の音声が大きくて、それが怖くて、映画を見れなかったのだ。だから、映画の前の予告編が始まった頃には泣き出して、結局映画は全く見れなかった。泣き出した私を父親が抱えて映画館のロビーに出して、泣き止むのを待って、館内に戻り、また泣き出したらロビーに出て、それの繰り返しだった。

 

けれども、映画を見に行くことは私たち家族にとって特別なことだった。映画を見に行くのはたいてい土曜日で、土曜日の午後、私が保育園で昼寝をしている時刻に、姉と父が私を迎えにきた。その頃は下の姉もまだ保育園にいたから、二人で昼寝を抜け出す。なんだか特別なことがこれから待っていると思うだけで、とてもウキウキした。

 

父と上の姉が保育園に迎えにきて、私と真ん中の姉をおこし、街へ出る。見慣れない高い建物、街の賑わい、そんな中を姉と手をつなぎながら歩く。その頃の私にはこれ以上のウキウキは知らなかった。クリスマスの朝、クリスマスイブに家族皆でいくロイヤルホスト、それと同じくらいウキウキした。もしかすると、それ以上にウキウキした。

 

映画館までの道すがら、その日に見る映画の話しや、映画の仕組み(フィルムをランプで投影して大きな画面に映すことなど)を父が教えてくれる。まるで、これから始まる世界は、全く新しくて、それでいて安心で、幸せであることを父が私たち兄弟に教えてくれているようだった。

 

それでも、いったん映画が始まれば、私は泣き出して、父はそんな私を抱えてロビーに出る。全く映画の本編を見ることなく。

 

スターウォーズにも行った,トムとジェリーにも行った、けれども、私の記憶の中にはそれらの映画は全く記憶にない。いつも、泣き出して父と一緒にロビーにいた記憶しかない。

 

けれども、今でも、家族で映画に行った日のウキウキは忘れられない。

 

それから十数年が経った。

 

子どもの頃の記憶のせいだろうか、姉は映画に熱中し、高校の頃から札幌のミニシアターでアルバイトをして、姉達と一緒に映画を見ることも多くなった。私も、小学校の低学年位から映画が怖くなくなって、家族皆ではじめから最後まで映画が見れるようになった。家族皆で映画をみる機会は随分減ってしまったけれども、映画館という場所に私たち家族の居場所はいつでもあるような気がする。

 

私を抱えて、ロビーに出ていたはずの父も、家族皆で見た映画のことは何故か憶えているようだ。スターウォーズがテレビで放映される度に、家族みんなで見に行ったことについて話す。家族皆で映画館に行き、帰りにファミリーレストランで夕ご飯を食べる。そんな幸せが本当にあったことを再確認する。

 

今でも、姉と一緒に映画を見に行く。姉と一緒に映画を見ることは、あの頃の家族を思いださせる。最後に、家族みんなで見に行ったのはたしか、シンドラーのリストだった気がするが、映画というものが時代を超えて、家族共通の体験になり得るということを再確認した。シンドラーのリストを見た夜は眠れなかった、きっと姉達もそうだったろう。

 

そんな家族の思い出が、映画館にはある。

 

さあ、これからどうやって予備校時代の話しに戻せば良いのやら、

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2013年

8月

24日

記憶が消えてしまう前に③

田中さんとテツさんは二人とも理系の浪人生だった。

 

予備校にいつ行ってもこの二人は最上階の喫煙室におり、その他の場所では殆ど見かけたことはなかった。もっとも、私は文系だったから、授業がひとつもかぶっていなかったことも関係しているのだが。しかし、私が喫煙室に行くときにはいつもこの二人がいた。

 

この二人と、初めて話した時の記憶は殆ど無い。ただ、憶えているのは、父親と予備校の入学案内を聞きにいったとき、父親が授業料を納め帰った後、私が喫煙室に入った時初めて会話したことは憶えている。おそらく、入学案内の内容についてだったと思うが、内容は憶えていない。

田中さんは小太りで19歳とは思えぬ程大人びており、25歳位に見えた。皆に「田中さん」と呼ばれ、ついに下の名前はわからずじまいだった。いつもクリーニングされたワイシャツを着て、清潔なチノパンかスラックスをはいており、一目見ただけで、金持ちの御曹司であることが窺い知れた。タバコはマイルドセブンを吸っており、腕を組んでゆっくり煙を吐き出すしぐさが、なおさら歳をとって見えた。普段話す内容も、社会情勢だとか、人生訓だとかで、まるでサラリーマンのようだった。医学部志望と聞いていたが、確かに成績は良かった。あんなにいつも喫煙室にいるのにいつ、勉強していたのだろう。

 

テツさんは、色黒で男前で、シャイで、やんちゃで、いつも携帯電話でメールを送っていた。皆から「テツさん」もしくは「テツ」と呼ばれており、ついに名字はわからずじまいだった。メールは、出会い系サイトで知り合った女性と交換しているらしく、喫煙所にいない時はパチスロに行っているかそれらの女性と会っていたらしい。出会い系のメールについての話しを、時々独り言のようにボソボソ話すだけで、殆ど無口だった。

 

初めて彼ら二人にあった頃は、なぜこうも違う二人がいつも一緒にいるのかわからなかった。二人の共通点は、理系で2浪目ということだけだった。そしてそれは、その一年が終わるまでずっとそうだった。

 

予備校の入学案内の日に二人と言葉を交わしてから、喫煙室で会う度に一言二言言葉を交わすようになった。はじめは私と彼らはあまり親しいというような関係ではなかったが、入学案内の日には既に私は二人に「芳三郎」と名前で呼ばれていた。それは、馴れ馴れしいという感じではなく、私が浪人生としてのその予備校での生活を始めることを歓迎しているような響きだった。

 

予備校生活へ、ようこそ。

 

数日して予備校の授業が始まるようになると、喫煙室で田中さん、テツさん以外の人たちと一緒になることはあったが、はじめの頃は殆ど言葉は交わさなかった。だから、他の人たちが出て行き、田中さん、テツさんと私だけになると、何となくくつろげるような気分になった。

 

相変わらず、田中さんはテツさんを相手に、持っている新聞記事についてだとか、社会情勢について話し、テツさんは黙ってメールをうちながら相づちだけを返していた。

 

札幌の予備校というところはそういう場所だった。全道から高校を卒業し浪人したことだけが共通点の知らない人が集まり、1年間を過ごす。志望校も興味関心もバラバラで、育ってきた環境もバラバラ、中には医学部を志望する20代後半の予備校生もいた。だから、基本的には話しは噛み合ない。志望校によってとっている授業もバラバラだ。

 

話しは噛み合ないけれども、浪人生で同じ境遇であること、受験に失敗したという同じ傷を負っていることをお互いに知っているので、他人同士でも自然とお互いに優しさを感じた。

 

私たちは

 

「お互い頑張ろうな」とか、「来年の春にはみんな合格しよう」とかそういうことは絶対に口にしなかった。そんな薄ら寒いことはアホくさくて口にできない。

 

受験は頑張ったからといって必ず報われることはなく、ただ恐怖と焦りだけがある。そして、これから過ごす1年間の浪人生活という暗いものに既にうんざりしているのだ。だから、誰も受験については話さなかった。ただごくたまに、お互いに噛み合ない世間話をボソボソとしながら、タバコの煙の行方を目で追うくらいしかできなかった。そしてそれが、お互いへの一番の優しさだった。

 

そうやって、喫煙室で一緒になっては、噛み合ない話しをして、最初の一ヶ月は過ぎた。

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2013年

8月

22日

記憶が消えてしまう前に②

予備校で「さん」付けで呼ばれる人は、2浪以上だ。

誰もが予備校に入った日にはもうそれが当たり前のことになる。

 

田中さん、テツさんも、私が予備校に入った日にはもうさん付けで呼ばれていた。そしてその日には私は彼らに「芳三郎」と呼ばれていた。それが全ての始まりだった。私の十九、二十歳の始まりだった。

 

その年の3月に私は高校を卒業した。一年遅れのそつぎょうだった。

 

高校は、中高一貫の男子校だった。教員も含め男ばかりの学校だったような気がする。とにかく、高校を卒業するまで、姉以外の女性とあうことは殆ど無かった。友人の彼女が、学校帰りのスクールバスの降り口で待っていて、一週間に一度程彼女達に会って、十分ばかり話しをした。日常的に会う女性は彼女達だけだった。

 

極たまに、彼女達の女友達が待っていた。女友達がいる時は、バス停の近くの公園で、タバコをふかしながら彼女達と一時間ばかり過ごした。そんな時はなるべく当たり障りのない話しをした。高校で毎日繰り広げられる会話は9割方下ネタだったから、彼女達と話す時は特別な注意が必要だった。それでも、時々つい下ネタが出てしまい、彼女達に白い目で見られることもあった。そのころはそれでも良かった。自分が、一人の女性と付き合うことなんか、夢のまた夢だった。だから、彼女達が自分をどう思っているかとても知りたかったけれど、何もわからなかった。

 

公園でその一時間を過ごす時は、常にタバコを吸い、精一杯背伸びをしていた。まるで、自分が今まで何人もの女性と付き合っているかのような雰囲気を醸し出そうとした。結局それは大体無駄に終わったのだが。それが女性との接し方のような気がしていた。

 

彼女達も男性については興味があったようだったが、男性と直接向き合うのに勇気を要しているようだった。僕らの股間にはおちんちんがあり、それが僕らの日常の多くを支配していることまでは知りたくないようだった。だから私も彼女達のイマジネーションに任せて、自分にもそうあろうとつとめた。それは、結局は大した意味のない悪あがきだったに違いないのだが。

 

そのような環境で高校時代を過ごした。

 

だから、予備校に入った日には、女の子が隣に座ることすら非日常だった。私はもちろんそれに興奮した。自分が同年代の女性に「君」付けで呼ばれるのも、新鮮だった。

 

けれども、女性になれていなかった私は、彼女達と話しをすることすらとても困難だった。彼女達と目を合わせて話せなかった。彼女達の髪の匂いがすることを自然に受け止められなかった。それは、非日常だった。女性とすれ違うときにほのかに感じる甘い香りに、つい気をとられてしまった。そのせいで、予備校に入ってから三ヶ月は、自分がここでどのように振る舞えば良いのか、そればかり考えていた。男子校ではそういうことは全く学ばなかった。

 

「佐々木君、今日授業終わった後どうするの?」と、初めて同年代の女性に言われたのは、予備校に入ってしばらくしてからだ。なんて答えていいかわからなかった。

 

「わからない、きめてない、けれども、きっと街をうろついてから帰る」と、やっと口から出た。その後何を話したかはわからないけれども、一分位彼女と話して、それでまっすぐ家に帰った。今なら、彼女をお茶に誘うことくらいできただろうが、それは叶わぬ夢だった。彼女が誰で、どんな顔をしていたかすら憶えていない。

 

そういう私の状況を一番最初に気づいてくれて、共感してくれたのが、田中さんとテツさんだった。

 

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2013年

8月

20日

記憶が消えてしまう前に①

私の歳まで生きている方々にはおそらく誰もが平等に十九、二十歳の頃があったはずだ。不思議なことだけれど、あの人にもこの人にも十九、二十歳の頃はあったのだ。これから産まれてくる赤ちゃんにも特に問題がなければ、おそらく十九、二十歳になる日が来る。それが青春と呼べる日々であるのかどうなのかは学術的なことがわからないからはっきりとは言えないが、私自身に関して言えば、まさに十九、二十歳の頃が私の青春だった。二十歳になって大学に入学したが、その後の数年間は青春に附属しているおまけみたいなもんだった。

 

実際、大学に入ってからは殆ど青春時代らしきことはしなかった。模型飛行機の製作と、スナップ写真の撮影に明け暮れていて、他には殆ど何もしなかった。

それなのに、社会人になったら、飛行機も、写真も殆ど興味が無くなってしまった。

 

恋愛も殆どしなかった。今の妻とその頃既に付き合っていたので、他の女性と恋愛をすることは殆ど無かった。ただ一人、学生の頃知り合った女の子で好きだった娘はいた。その後も、ずっと好きだったが、結局一度も付き合うことはなかったし、二人きりでデートしたことすらない。ついにその娘も数年前に結婚してしまった。

 

だから、今手元には大学時代に手に入れたものは殆ど無い。嫁さんと、数人の友達だけだ。

誰もが十九、二十歳の頃のことなら、結構色んなことが書けると思う。その辺りの年齢は多感な時期だし、色々初めての経験をする。学校を卒業したりして、身の回りの環境も変わる。何より、成人して、すこしづつ世間では大人扱いされるようになる。

 

このごろになって、十九、二十歳の頃のことがだんだん思いだせなくなってきた。友人だった人たちの名前、時系列、現実と妄想、そういうものがだんだんぼやけてわからなくなってきた。

だから、まだ憶えているうちに、その頃のことを書き記しておこうと思う。

 

 

私の身の回りで、十九、二十歳になれなかった人はただ一人だ。

高校の先輩の石川さん。これから書く文章でただ一人実名で登場してもらう。彼は十七の冬に死んでしまった。急死である。だから石川さんには十八の春は訪れなかった。ちょっと変わり者だったが、凄くギターが上手い人だった。高校の音楽室に行くと殆どいつも石川さんはそこにいて、弦が切れたままそこに放置されている数台のギターの中から、わりとましな一台を見つけ、ピックでバリバリ、まるでエレキギターのように奏でていた。後にも先にも、あんなにメロディアスな速弾きができる人はいないんじゃないかと思う程、人の心を引きつけるものがあった。彼があんまり上手いので、私はその頃からギターで人一倍上手くなろうという気持ちにはなれなかった。

石川さんとの思い出はそんなに多くない、彼からBOSSのスーパーコーラスというエフェクターを6000円で買ったことくらいだ。結局そのエフェクターもよく使い方がわからないまま、大学時代に人に貸してそのままになってしまった。

けれども、高校の頃の私に大きな影響を与えた人には違いない。

彼は高校の冬休みが始まる前日に亡くなった。バンドの練習をした後に倒れて、そのまま亡くなったそうだ。彼の葬式に参列した時のことはよく覚えていないけれど、葬式の帰りに同級生が数人一緒になったので、駅前のスーパーで缶チューハイを買って、空き地でまわし飲みしたことは覚えている。ラッキーストライクを吹かしながら飲んだ缶チューハイの味は殆ど覚えていない。覚えていないけれども、不思議と哀しい気分になれない自分に違和感を憶えていたことだけは記憶がある。

 

私には十九の春が来た。田端義夫の唄うあの十九の春だ。

十九の春に私は受験を失敗して浪人生になった。正確には、北海道大学の文学部に合格したのだが、合格してみると文学部には全く興味が持てなく、仮面浪人したのだ。いや、それも正確ではないな。

実家を出たかったのだ、姉と父親の仲が悪いのもイヤだったし、親元に住んでいるのがイヤだった。私は、それまでも今までもずっと親には良い一面しか見せないようにしている。酒を飲んで暴れたり、女の子にイヤラシいことを迫ったり、タバコを吸ったり、そういう面は見せたことがない。普通のことだけど。その普通のことに嫌気がさしていた。どこか別の都会で、一人暮らしをしたかった。

だから、北大に行くのをやめ、浪人することにした。

それが十九の春である。

札幌駅前にある数件の予備校に父親と二人で足を運び、予備校を物色した。

結局、その中で、学費を5割引にしてやるという予備校があったので、そこに通うことにした。その日に父親が学費を振込み、私は独り予備校に残り説明会が始まるのを待った。

予備校の最上階に食堂と喫煙室があり、はじめは食堂でお茶でも飲んで待ってようと思ったが、食堂に座っていると小学校の優等生にでもなったような気分になったので、そういうのはハードボイルドじゃないので、結局喫煙室に入り、持っていたケントマイルドに火をつけた。

 

浪人が決まってから、私は何故かケントマイルドを吸うようになっていた。高校の頃は、同級生の共同購入で否応なしにみなマイルドセブンを吸っていた。高校2年生から転入だった私はそれまでずっとラッキーストライクを吸っていたのだが、お小遣いを出来るだけCDの購入に使いたく、共同購入のマイルドセブンに鞍替えした。それは誰かが万引きしてきていたのかもしれないし、奇特な共同購入者が沢山払ってくれていたのかはわからないが、割安だった。それに、通学時にタバコを必要以上に持ち歩かなくて良いので、親に喫煙が見つかるリスクも軽減してくれた。

 

高校を卒業すると同時に共同購入の恩恵に預かれなくなったので、私はとりあえず友人が吸っていたケントマイルドを買って吸っていた。ケントマイルドはうまくもまずくもなかった。そのうまくもまずくもないタバコは初めて訪れた予備校の喫煙所で吸う煙草にピッタリだった。

 

喫煙所に入ったら、2名先客がいた。その二人の場の馴染み方で、一目見て二浪以上だということが窺い知れた。二人の前では、私は新入りの下っ端なので、とりあえず控えめに喫煙所の端に座っていた。予備校の最上階には他に人もいなく、静まり返っていたが、その二人の話し声だけがカラリと響いていた。

 

ああ、こういう人たちと同じようになってはいけない。予備校なんて本当は私のいるべき場所ではないのだ、ここは単なる腰掛けに過ぎない。そもそも、私は選んでこの場所に来たのだ。ああいう人たちと仲良くなり、この喫煙所に馴染むようになってはいけない。そう思った。

そう思いながらも、予備校という場所に自分がいるその現実を受け入れることを拒んでいた。現役生時代に充分できることはやった、これからまた来年の受験に向けて勉強をするということがどうも受け入れがたかった。

 

そう思いながら、ケントマイルドを2本吸った。

 

それが私の十九の春の始まりだった。

続きはまた明日

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2013年

5月

20日

Rickenbacker 620の音抜け改善!

私事で恐縮ですが、先日Rickenbackerの620を購入しました。

 

リッケンは前から気にはなっていたのです。なぜって、ギブソン、フェンダー系のギターってこの世には沢山あって、世の中の大半のギターメーカーがそのうちのどちらかもしくは両方の影響を受けているのです。

 

特に、ストラトシェイプのギターなんかはかなり世の中に流通しておりますが、あれはフェンダーストラトキャスターの流れをくむギターと言えるでしょう。最近のメーカーではPRSなんかはギブソンの良いとこにちょっと手を加えたギターと言えます。グレッチなんかは個性の強いブランドですが、基本的な造りはギブソン系です。

 

私はギブソンとフェンダーのギターを既に持っているので、ほぼ、これだけで、エレキギターのようは足ります。しかし、ギブソンフェンダーだけではギターは語れないとつくづく思わせられるのはリッケンバッカーというギターです。

リッケンバッカーはフェンダーともギブソンとも異なるギターです。もちろん、フェンダー、ギブソンの良いところの影響はありますが、ギターの造りは全く異なります。リッケンバッカー系という系譜があると行っても過言ではないでしょう。

 

例えば、モズライトというギターブランドがありますが、あれなんかは完全にリッケンの系譜です。ネックの造り、ボディーの造りにリッケンの影響を感じます。強いて言えば、リッケンのギターにギブソンの良いところを加えて、トレモロを付けたのがモズライトと言えます。

 

モズライトは前から好きなギターでしたが、リッケンを一度弾いてみたとき、モズライトの良い部分のほぼ全てがリッケンにはある、と感じました。個性的な音色、強いアタック、短いサスティン、細いのに握りやすいネックグリップ、個性的なルックス、それがリッケンにはあります。モズライトとの違いはビブラミュートがついていないことと、トラスロッドが二本入っていること、ピックアップの出力です。モズライトのあの細いネックグリップはどこに紀元があるのだろうとずっと謎でしたが、その紀元はリッケンのネックを握って初めて、わかりました。

 

リッケンがモズライトよりも優れている点はそのシンプルさです。テレキャスター同様に、シンプルであるが故完成度も高いギターと言えます。

 

それで、暫くリッケンを物色しておりましたが、国立にある某楽器店に私が探していたモデルが中古ででたので、購入致しました。

 

購入して、自分のアンプに通して弾いてみたところ、リアピックアップのハイの抜けがいまいち良くないことに気がつきました。店で試奏した時は店のフェンダーのアンプにつないだ為ハイがきれいに抜けてましたが、自宅のPeaveyはフェンダー程トレブリーじゃないので、620のリアの音が曇った音に聴こえました。ボリュームをフルアップにした時は良いのですが、ボリュームを絞るとハイが抜けません。

 

リッケンのVintageのギターにはリアピックアップとトグルスイッチの間にLow-cutのコンデンサーが挟まっていますが、私の620にはついていなかったので、0.0047μFのコンデンサーを試しに付けてみましたが、音が痩せただけであまり良い効果はありませんでした。そもそも、ボリュームから直列にコンデンサーをかますことになんだかちょっと抵抗がありました。なので、やっぱりはずしてもとの通りにしました。

 

テレキャスターに以前バイパスコンデンサを付けたら、音抜けが改善したことを思いだし、バイパスコンデンサを付けてみました。0.0022μFのフィルムコンデンサーです。

 

すると、高音が抜け、私の好みの音になりました。

エレキギターはやっぱり電子部品で音が随分変るということがわかりました。

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2013年

5月

15日

ボンタンをご存知でしょうか

今夜は妻と一緒に代官山の「ヤギに、聞く?」に山梨ワインを囲む会に行ってきた。

 

山梨ワイン、湯葉料理、そしてジャズ。

 

そういう会だった。なぜ、そういう会に妻と出かけたかというと、学生の頃のジャズ研の友人(先輩?)がジャズ演奏をするというので、ワインもジャズも好きなんだからまあ、イッチョ嫁さんと一緒にジャズと山梨ワインでも堪能しようじゃないかということで、出かけた。

 

バンドの名前は佐野大介andバップス。バップス、あのビバップとかハードバップとかのバップである。うーん、ジャジーでオヤジくさい名前である。もう、ヘアトニックとバーボンと仁丹のニヨイがするのである。佐野大介&バップス。

佐野大介andバップスは、何度かメンバーが変わっているのだが、まあメンバーが変わる度新しい方向性ができて、それはそれで良いと思う。ジャズにマンネリは禁物。

 

禁物なのだが、ジャズ研の先輩でありドラマーの佐野さんは、まあリーダーだから彼の好きにやれば良いと思う。けれども、私のお目当てはピアニスト、森田珠美さん、彼女のピアノがしっとり、時に激しく、音楽を引っぱる、そういう構図が気に入って毎回聴きにいっているのである。マンネリも禁物だが、珠ちゃんのピアノは聴きたい。バップスが今後どうなるかはわからんが、珠ちゃんのピアノをイキのいいメンバーで聴けるという意味では、今のバップスは面白い。ただ、トリオ編成の頃に比べると、まとまりは無くなった。ベースがより自由に動くようになったので、リズムにハリがでた、サックスも入ったので華がついた、これはバンドにとってプラスなのだが、きっとリーダーの佐野さんも今の編成のバンドで統一感を出すのには以前より苦戦していると思う。ピアノトリオの頃は、ストイックなハードバップのコンボだったので、そのギャップが今後どうなっていくのか気にはなる。

 

まあ、そんなことを思いながら、のんきにワインを飲めて良かった。贅沢をいうと、ジャズの演奏はそんなに熱い演奏じゃなくても良い。酒を飲みながら真剣に音楽に耳を傾けるのは難しい。だから、ワインかジャズかどっちかにした方が良いかもしれない。飯はよかった。

 

今夜の話題に移ろう。

 

中学のとき、何年生だったか忘れたが、きっと中学2年の学校祭で、同級生と初めてバンドを組んで、学校祭でライブを行った。今考えてみると、ろくにコードも押さえられなかったのによくもバンドができたもんだと思うが、まあ、中学生のバンドなんて勢いだけで何とかなるのだ。

 

私はギター、ベースに小学生の頃からの仲のタツヤ、ベース、ドラム、ボーカルは誰がやったのか覚えていないが、きっとテキトウに先輩にお願いしてやってもらったんだと思う。それで、やった曲は、タツヤの持って来たLUNA SEAのジーザス、僕の持って来たチャックベリーのジョニービーグッド、ボーカルのやつが持ってきた尾崎豊のオーマイリトルガールだったと思う。それ以外の曲もやったかもしれんが、よく覚えていない。とにかく、まとまりのない選曲であった。ヒトに聴いてもらおうと思うより、とにかく、仲間と一緒に音楽をやる方法はバンドしか知らなかった。

 

それで、練習は殆ど、タツヤと私の二人でやった、ボーカルのやつも、ドラムとかをお願いしたと思う先輩も、殆ど練習には顔を出さなかった。前日のサウンドチェックで少々あわせた程度だった。

 

今なら、それくらいでも、まあまあ演奏はできるかもしれないが、いや、物覚え悪いから無理かもな。チューボーの頃はそんな練習だけだとろくにバンドとしてのていを為していなかった。

 

それでいきなり、学校祭当日である。本番である。

初めての生本番、本番絶対禁止のあの本番である。

 

とりあえず、下級生のバンドのサウンドチェックを聴く。うーん、我々よりも上手い。というか、ギタリストの私のリズム感の悪さは、ギターを始めて以来ずっとなのだが、下級生のバンドのリズムはタイトである。後の同級生になるタケハラ、こいつが奏でるディープパープルのリフにはなんだか貫禄があった。LUNA SEAのリフも満足に弾けてない私とは雲泥の差である。

 

しかし、こいつらのバンドには大きな欠点があった。

ボーカルがいないのだ。ディープパープルのギター、キーボード、ベース、ドラムを演奏できるメンツは揃ったのだが、哀しいかな中学一年生。ディープパープルの英語の歌詞を歌えるやつはいなかったのだ。それでも、しょうがない、もう本番である。

 

我々が見守る中、ボーカルなしで彼らはライブを敢行、スモークオンザウォーター、バーン、ハイウエースターとディープパープル三点止めをキメてきた。まあ、ボーカルがいなくても、バンドを聴きにくる奴らの大半は何らかの音楽好きな連中だから、歌わないなら俺が歌う、みたいになって上手いことライブは進められている。中学生ってのはいきよいがあるからこういう時重宝するね。

 

次に、我々の番が来た。

うまれて初めての本番である。初めてギターを人前で弾くということでガチガチに緊張していた。

 

本番5分前に、タツヤが私のとこきて、「おい、バンドの衣装どうスルベ?」と聞いてきた。衣装?あたしゃーギター弾くことしか考えてなかったから、衣装なんて考えてもいなかった。そういうファクターがライブに存在することをそのとき初めて認識した。衣装まで気がまわるとは、さすがLUNA SEAを持ち込んできたタツヤだ。ヴィジュアル系なのである。私は、フェンダージャパンの新しいギターを親に買ってもらって用意するまではやったけれど、衣装までは考えてもいなかった。このまま学校のジャージで良いんじゃないかと思っていた。

 

するとタツヤが「おれ、ボンタン2着持ってきたから、お前もはくか?」と聞いてきた。おー、衣装持ってきてるなんてさすがビジュアル系じゃないの。このままジャージじゃ格好つかないもんね。すぐに制服に着替えて、とりあえずボンタンをはいた。

 

あたしゃー、毎日制服しか着てなかったから、私服なんてパジャマか芋ジャーしか持っていなかった。シャツも柄シャツとか着たこともなかった。白い肌着のシャツだけしか持ってなかった。だから、ボンタンなんて、東京のイケてる若者とか、ジャニーズのアイドルとかが着てるもんだと思っていたから、こんな晴れ舞台にそのボンタンを着用できるのは何にも増して嬉しいことだった。さすがヴィジュアル系のタツヤである。そういうアイテムを揃えてきている。

 

それで、タツヤと私は、中学の制服のブレザーに、ワイシャツの胸をはだけて肌着をチラチラさせながらボンタンを着用して、ジーザスだのジョニービーグッド等を一生懸命演奏した。

 

今考えてみれば、ダサイ服装だったが、もう少し軌道修正をしていれば、ルースターズみたいに見えたかもしれん。その時の写真はないので、私たちの胸の中だけに残っている、ボンタンを着用し盲滅法にギターをかき鳴らしたあの夏の日。

 

あれから20年。ボンタンなんてあの日以来いちども履いたことはない。

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2013年

4月

09日

涙が出るからつまんないこと言わないでよ。と言われたい

James TaylorのMud Slide Slimを聴いている。優しいアルバムだ。アコースティックギターの弾き語りは奥が深い。ジェームステイラー程の名人になると、ギターの音が良い。弾き語りのギターの方がきめ細かくて、それぞれの曲にピッタリの音色で弦が鳴る。こういう風にギターを弾けるのであれば、ギタリスト冥利に尽きるであろう。

 

今日は、帰宅してから約3回イーグルスの「The Sad Cafe」を聴いた。The Sad Cafeは物悲しいしんみりとした曲だけれど、同時にとてもロマンチックな歌だ。そのせいか、今夜はずっとそういうちょっと陰りのあるロマンチックなバラードを聴いていた。

イーグルスの「I can't tell you why」、マライヤキャリーの歌う「Without you」、「I'll be there」、Ray Charlesの歌う「Sorry seems to be the hardest word」なんかを聴いていた。

 

きっと春も落ち着いてきて何となくこういうしっとりとした気分に鳴りたかったのだろう。

 

今日は、筆が進まないので、表題の話しについては後日。

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2013年

4月

04日

Sorry seems to be the hardest wordのSorryは誰の言葉か

クラプトンの新譜、「Old sock」を聴くであります。

 

クラプトンのカバー曲のセンスはとてもいい。クラプトンはとても熱心に他のアーティストの曲を聴いているのだろう。カントリーの比較的マイナーな曲とかでも、クラプトンが歌うと名曲になる。クラプトンはブルースミュージシャンやめて、カントリーシンガーに転向すれば良いと思う。

 

それはそうとして、今日の話題はエルトンジョンの名曲「Sorry seems to be the hardest word」である。

人と人との関係は思うようにいかないものである。人間はヒトに勝手なものを求め、勝手なものを押し付ける。強引に引き寄せたり、強くはねとばしたりする。ましてや男と女の関係であればなおさらである。男と男、女と女の関係でもなおさらである。

 

クラプトンがカバーしたカントリーの名曲に「Promises」という曲があるが、その中で、

 

 ちょっとまいってることがあるんだ、相談してもいいかい?今俺には実は女がいて、愛と憎悪がごちゃごちゃになっているんだ。俺たち約束したろう、友達でいようって。その約束がやぶられることなんてないよね?

 

っていう部分があるんだけれど、この歌の歌詞のように、男と女だっていうだけで、色々な面倒が起こってくる。それが時には恋愛になるし、全く駄目な時もある。その中間でいるっていうのはある程度距離をおかなければ難しい。私の場合は。けれども、まあ、長年の付き合いのある女の子だったら、少しづつ「友達」として付き合っていくうまいおとしどころがわかってくる。そこまで、どこまで自分を律して、相手を尊重できるかが人間として問われていると思う。

 

ああ、本題と全然関係ない話しになってしまった。

 

今日は、男と女の関係が上手く行かなかった時のはなし。想いを募らせても全く受け入れられなかった時の話しだ。

 

Elton Johnの曲にSorry seems to be the hardest wordという曲がある。

 

What have I got to do to make you love me
What have I got to do to make you care
What do I do when lightning strikes me
And I wake to find that you're not there
What do I do to make you want me
What have I got to do to be heard
What do I say when it's all over
And sorry seems to be the hardest word
It's sad, so sad
It's a sad, sad situation
And it's getting more and more absurd
It's sad, so sad
Why can't we talk it over
Oh it seems to me
That sorry seems to be the hardest word
という歌詞なのだけれど、この曲に出てくるSorryって誰の台詞なんだろう。と考えていた。一般的には、恋人同士の男女が喧嘩し、その関係修復のために自分の方から折れるのはとても難しいのよ、っていう意味の歌詞として解釈されているようだ。
しかし、今まで叶わぬ恋ばかりしてきた私には以下のように聴こえる。

 

ある女性に恋をした男性が、その子を一生懸命振り向かせようとする。色んなことで気を惹いて自分のことわかって欲しい、好きになって欲しいと思う。彼女を振り向かせてみたくて、居ても立っても居られない。それでも、彼女は振り向いてくれない。

彼女が振り向いてくれるなら、雷に打たれてもいい。でも、きっとそうなっても、あなたは僕の側には来てくれない。独りもがいて、結局君に愛してもらえないことに気づくだけなんだ。

君の「Sorry、でもあなたとは付き合えない」っていう言葉を受け止めるのはとっても辛い。

 

こんな風に聴こえる。特に、このJoe Cockerが歌うバージョンはそういう切なさのようなものを感じる。

俺は、どうすればいいんだ。きみに振り向いて欲しい、どうすればいいのだ。こういう風に自分に問うているように聴こえる。

 

こういう風に聴こえる僕はおかしくなっているのだろうか。33回目の春が、私を狂わせようとしているのでしょうか?

もし、あなたがこのブログを読んで、この曲をきいてくれていたら、感想を聞かせて欲しい。

 

私にできることは、こうして宛もなく雑文を書くだけ。

What else have I got to do?

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2013年

4月

03日

不義理とは、なんと冷たい言葉なんだろう。ノルウェイの世界に寄せて

小説を読み終わりそうなときに、書店に行って次に読む本を探すのは、すごく不義理で汚らしい行為だと思う。今読んでいる小説の中に入っていながら、その心は一度こちらにどけてしまって、次の本を選ぶ。そういうことは世間では浮気と呼ばれる行為だ。

 

しかし、不道徳なこと、汚らしいことは、皆様ご存知の通り甘美な側面もある。不義理をはたらき、女性を捨てるとか、裏でコソコソ女をつくるという行為は世の中ではいけないことになっている。その理由もなんとかわからなくはない。むしろ、当然そういう風に思われるべきだと思わなくもない。

 

しかし、我が身に振り返ってみると、自分という人間はそういう不道徳で汚らしいことにも確かに魅力を感じる。

一昨日から、約5年ぶりに「ノルウェイの森」を読んでいた。最後に読んだのは、確か27〜28歳の頃じゃなかったか、

 

そうそう、確かそのくらい。僕はそのとき精神的にはかなり不安定な時期だったんだけれど、二週に一度くらい精神科医に会いに行っていて、大学の後輩の女の子と毎週金曜日に逢っていた。その相手の娘がたしか、その頃「ノルウェイの森」を読んだって話しをしていて、村上春樹を片っ端から読んでいたらしかった。僕は彼女に好意は抱いていたが、別に真剣にお付き合いしたいとか、エッチなことをしたいとはそれほど思っていなかったのだが、彼女との感情の交流はしたいと思っていて、彼女とある種の感情の共有をしたいと強く思っていた。

 

それで、とりあえず書店に行って村上春樹の「ノルウェイの森」を上下間買って、読んだ。その頃はあんまり小説を読む程の心の余裕は多分無かったのだろう。読み終わったのは半年くらいあとになったと思う。いや、正確には、読み始めて間もなく投げ出してしまい、そのうち入院生活が始まり、本を読む気力も無くなってしまい、退院してから再度あの本を手にしたんだったと思う。

 

だから、読み終わったのは半年以上後だったような気がする。読み終わったときに、もうその後輩の女の子とは疎遠になってしまっていたのだけれど、「ノルウェーの森」は私の心の中にザックリと刺さり、読み終わって5日くらいは余韻に浸っていたと思う。実際、私は今でもあの本には結末なんて無くて、まだ話しは続いているのではないかという錯覚をおぼえるくらいだ。

 

その「ノルウェイの森」を約5年ぶりに読んだ。初めて読んだ時程の感慨はなかったような気がするが、この本の内容が変わっていなかったのがとても嬉しかった。私の知っているこの話しの世界が、やはりそこにはあった。よかったよかった。

 

それで、この本を読みだしたとたん。不意に人恋しく、悲しい気持ちになった。5年前のことを思いだしたわけではない。けれども、不安になり、独りでビールが飲みたくなり、最近知り合った女の子の声が聞きたくなり、世間が春だってことがとっても苦しく感じた。この話しは、そういう麻薬みたいなところがあったっけ、

 

それで、今読み終わって。今度はなんとかモトの世界に戻ってこられた。けれども、やっぱり、最近知り合った女の子にメールを送ってしまった。

 

「なんだかノルウェイの森を読んでたら変な気持ちになった。いい歳して情けないけれど、急に人恋しくなった、妻との関係がまずくなったわけではない」と私

 

「日本人は何年も夫婦連れ添うと、男と女ではなくなって家族になってしまうから、夜うまくいかなくなる傾向があるらしい。私も何となくなっとくする」と彼女

 

「いやそういうことじゃないんだ、嫁さんとは今でも男と女だよ。きっと春のせいで僕の頭が変になっているのだ。多分そうだ。今週末医者に行って聞いてみる」

 

その後のやり取りは恥ずかしいので割愛するが、このメールのやり取りのおかげで、さわさわした私の心は落ち着きを取り戻し、モトの世界に戻って来れた。

 

それで、心に余裕が出たので会社帰りに秋葉原の書店に入り、次に読むべき本を探した。まだ、20ページ程ノルウェイは残っていたのだが。

 

「風立ちぬ」買った。クラプトンの新譜も買った。なんつうセレクションなのかと、自分でもちょっと恥ずかしいが、もう少し春と戯れてみても良いのではないかと思ったのだ。ただし、例の最近知り合った女の子には迷惑をかけないようにして。私の妻も寛容でものわかりの良い人間だが、彼女も、ちょっとそれとは違う寛容さがある。僕はそんな彼女に好感を持っている。あ、これ、随分上から目線な表現だな。

 

ノルウェイの世界は今でも続いていて欲しい、私の知らないところで。そしてそのまま、誰にも干渉されないでいて欲しい。小説にそれぐらいのこと許したって良いと思う。

 

ちなみに、その最近知り合った女の子は、僕の大好きな女の子から紹介してもらったのだ。小説のチェーンスモーキングは実害はないが、人間関係のチェーンスモーキングは甚だけしからんことだと思う。しかし、人と人とは結局1対1でしか付き合えないし、瞬間瞬間の連続なのだから、時にはそういうこともある。

 

「風立ちぬ」読んで心を改めよう。

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2013年

4月

01日

What have I got do to make you love me?

このところ数週間、僕はため息ばかりついている。

 

嬉しいこと、楽しいこともある。僕はそれを否定できない。けれども、僕はふとした拍子に、自分が何か間違いをおかしたのではないかと不安になり、後悔をし、自分の心に問いつめる。私は何を求めているのだろう。私の求めてるものは何だろう。

 

そして、やっぱりため息をつく。僕の心の行き場はあるのだろうか。

春になり、花が咲く。こんな些細なことでも、僕は不安になる。このまま二度ともとの自分には戻れないのではないか。結局すべてを失ってしまうのではないか。そして、時間のスピードの速さと、遅さにうんざりする。

 

この気持ちが季節のせいなら、ずっとずっと春のままでいてほしい。ため息が枯れて、心の中が空になってしまうまでこうしていたい。

 

谷崎潤一郎の短編を読んだ。「母を恋いうる記」。とても哀しく、美しい小説だった。

 

不忍池の対岸にある桜並木を見た。池の水面を悠々と泳ぐ鴨の群れ。

 

このまま季節が止まって欲しい。そして、次にこんな気持ちになるまで、早く時だけが過ぎ去って欲しい。

 

このところ数週間、僕はため息ばかりついている。

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2013年

3月

18日

人付き合いの希薄さを超えて、潮田文「風に吹かれて」

先週末は風邪を引いてしまい寝込んでいた。

 

寝込んではいたが、寝てばかりいても良いことは無いので、新宿御苑方面に散歩に行った。御苑方面に行ったのは目的があったからだ。南原四郎さんこと潮田文氏の写真集「風に吹かれて」を蒼穹舎まで買いにいったのだ。

 

潮田文氏の写真はご覧になったことが無くても、氏の文章に接したことがある方もいるかもしれない。月光という文芸誌の編集長を南原四郎という名で何年も続けてらっしゃるから、月光を読まれ氏のことをご存知の方もいらっしゃるだろう。

 

「風に吹かれて」は一風変わった写真集である。

この写真集はおよそ600ページからなっており、500枚くらいの写真が掲載されている。

 

このボリュームの写真集はなかなかお目にかかれない。桑原甲子雄さんの「東京」という写真集があったっけ。あれもやはり数百枚の写真が掲載されていた。森山大道の「新宿」もそうとうの量の写真が掲載されていた。

 

潮田文氏の写真は、プリントは何度か見させて頂いたことがあったが、写真集となってまとまったものは初めて見る。もっとも、この写真集をまとまっていると表現するのは間違えかもしれない。この写真集のまとまり方は一般に世の中で言われる「まとまっている」とは趣を異にしている。

 

とりとめも無い写真の集合体と表現すると潮田氏に怒られそうだが、写真集としてまとまることをどこかで拒否しつつも、はじめっから最後までペラペラとめくり楽しめる範囲におとし込まれている。写真一つ一つが強過ぎず、かつわざとらしさの破片も無い。冷静にパチリパチリと撮影された写真が、それらに写されたモノ自身が読み手に静かに語りかける。

 

それぞれのストーリーがすべて語られるでもなく、しかしながら確かにそこには時間の流れのようなものがあって。やはりストーリーがある。

 

この写真集をそのようにしているのは、掲載されている写真の多くが同じ日に同じ場所で撮影されたいくつかの組に寄って構成されているせいかもしれない。四コマ漫画みたいに、時系列に続いていればそこにストーリーが存在するような錯覚を持つのは当然かもしれないが、潮田氏の写真は時系列に「続いている」という印象はうすい。むしろ、写真一つ一つが語り過ぎず、その他の写真との関わりなど、大した重要性を持たない。ただ、写真の塊が、その隣の写真の塊を補完しあいながら、途切れ途切れのストーリーを紡いでいる。

 

話しは変わるが、人間関係も連続した時間の共有ではない。バラバラになった二人の、交わった時間の塊と塊、それらが互いに補完しあいながら、一つの関係を形成する。時間の塊は一瞬のこともあるし、長い期間になることもある。出会ったり、話したり、喧嘩したり、電話したり、何もしなかったり。

 

とくに、近頃はスマートフォンやらFacebookやらがあるから、交わった時間という「時間」の定義もとても難しい。メール交換だけで形成される人間関係に共有した「時間」は存在するのだろうか。ただ「逢う」ということでしかその不安は払拭できないのだが、果たして「逢って」何になるのかは誰も知らない。

 

今の私の人間関係の希薄さに比べたら、南原さん、いや潮田文さんの写真はもっと写真どうしが有機的に関わり、交わりあっていると思える。こういう、交わることの希薄な毎日に、交わり過ぎない写真の塊を見ていると、心が休まる。

 

潮田文氏の「風に吹かれて」是非見てみて下さい。

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2013年

3月

14日

あまく危険な香り。女性関係の失敗の数々

昨日も書いたけれど、春の訪れが私の身体にも確実に影響を与えている。

 

それはそれでやる気が出ていいことなのだけれど、バリバリやる気にあふれている時はそれだけ失敗も多い。特に、異性との遭遇、関係において失敗をしがちである。

 

失敗と言っても、関係を持つといったことや、できてしまうとか、そういった本物の失敗ではない。もっと軽微な失敗。言い換えれば、フラれるということだ。

私は惚れっぽい方だと思う。いや、確実に惚れっぽい。

 

以前勤めていた会社の同僚と酒を飲んだとき、どんな女が好きかという話題になった。髪の長いのが良い、胸のでかいのが良い、目が大きいのが良い等と色々な意見が出たが、私の答えは簡単であった。私を好きになってくれる女の子が好きだ。私の門戸は広い。

 

もちろん、会って一目惚れっていう女の子もいる。しかし、私は不器用なのでそういう娘とは恋仲になることは無い。殆ど無い。一目惚れの女の子達はなんとなく神々しくて手を出しにくいし、大抵うまいこと行かない。もちろん、例外はあるけれど。

 

そんなんだから、ころころ、すぐ女の子達を好きになってしまう。特に躁状態のときは気をつけなければならない。それで、気づいたらあっという間に深みにはまってしまい、あっという間にふられ、がっくりきてしまう。

 

去年の5月にもそんなことがあった。もうずっと前のことだからブログに書いてるのだけれども、こっぴどく失敗した。

 

去年の5月、これもまた元勤めていた会社の同僚と久しぶりに会って酒を飲んだ。そのとき、私の知らない女の子達3人と一緒だった。話しによれば元同僚の知り合いらしい。まあ、言ってみれば合コンのような感じになった。そのとき私はかなり元気な頃だったので、酒はがぶがぶ飲めるし、言葉は口からマシンガンのように飛び出し、確実に女の子の笑いをとり、その合コンではほぼ一人勝ちだった。

 

2件目のカラオケを出て、さあもう一件行こうとなったときに、私は3人の娘のうち一番気に入った娘と二人でタクシーに乗って他の連中と別れた。お持ち帰りである。

 

そのあと、とりあえず新宿に出てちょっと静かそうなお店に二人で入り酒を飲んだ。飲んで話しているうちにどうやら相手の女性が既婚者だということがわかり、彼女の家庭での悩みを聞いたりした。彼女は「死にたい」という、

 

「ねえ、死にたいと思ったことある」

 

彼女に聞かれた。

私は、鬱で入院したクチであるから、そっち方面は得意分野である。「死にたいと思って、死のうとしたことがある」と答えた。

 

テーブルの上に置いた彼女の手が震えていたので、とりあえず私の手を重ねた。彼女は涙を流していた。どうして、と聞くと、「私の死にたいと思う気持ちをわかってくれる人に会えて、こうして二人でいられて嬉しい」という。あー、長い間うつ病を患っていて良かった。今日この日のために、何年間も毎日薬を飲み続けてきたのかもしれない、と思った。

 

話しもしみったれてきたし、時計は12時を超えてしまっていたので帰ることにした。帰り際に、彼女が肩を寄せるので、「キスしようかな」っとちょっと思ったが、お互いに既婚者であることを思いだして、鼻と鼻を付けあわせて別れた。こういうところ、私は酔っぱらっても律義だ。

 

ここまでは、とても上手く行っていたのだが、ここからがいけなかった。私はそのとき、バリバリ、ビンビン、元気だった。それだけではない。なんだか自分が世界を征服したような気持ちだった。万能感があった。私に不可能は無い、そう思っていた。今おもえば、病気だったんだな。

 

次の日から、彼女に何通もメールを送った。はじめのうちは彼女も相手をしてくれたのだが、1週間もしないうちに、彼女から「もう二度とメール送るな」と言われた。既婚者同士が日がな一日何通もメールをやり取りするのは絶対におかしい、すぐにやめるべきだ、というのである。

 

そこで、引いておけば良かったのかもしれないが、私はバリバリ元気で、万能感である。「じゃあ、二人で逢おう」と迫ったら、「ばかなこと言ってんじゃないよ、どうゆうつもりなの」と言われたので、「俺と付き合おう」と返したら、「なんで私があんたなんかと付き合わなくちゃいけないのさ、ふざけんじゃないわよ」と言われた。

 

突然のサヨナラであった。腹いせに薬を沢山飲んで死んでやろうと思った。まあ、薬を沢山飲んでも命に別状が無かったおかげで今の私がいるのだが、妻にはとても心配をかけた。

 

事の次第を妻と、主治医に全て話した。妻は優しく許してくれた。素晴らしいパートナーである。主治医は「今回の失敗を活かして、次に失敗しないようにしましょう」と言ってくれた。有り難いアドバイスである。

 

冷静に考えると、熱くなっていたのは私だけで、相手の彼女は、ちょっと二人で酒飲んだ相手にしつこく付きまとわれた、としか思ってなかったのだろう。けれども、私はそれに気がつかなかった。万能感、バリバリ元気、ビンビンのせいである。

 

季節は春から夏へと変りつつあった。私の躁状態もそれからほどなくして終わった。

 

この件があってから、私は自分の体調と、異性との関わりあいについて、慎重な姿勢をとるようにしている。

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2013年

3月

13日

新しい私へ。古い私から

ついにきてしまったというべきなのか、ずっと前からこうだったのか。わからない。

 

けれども、おそらくこれは必然で、季節によるものなのかもしれないし、身体のサイクルによるものなのかもしれない。けれど、またけれどだけれども、私は新しい私になるのだ。古い私とはお別れの時が来た。新しい私が何ものなのかはわからないけれど、古い私を忘れ去らなければ行けないことはおそらく確かなことだろう。

 

そんなことを、今日会社帰りの地下鉄三ノ輪駅でおもった。

 

春という季節が、どうも好きなようだ。春が来ると、振り袖に袴のかわいらしい女子大生が街を歩くし、桜も咲く。そんな街をライカでパチリパチリとするのが好きなのだ。そして、春は出会いの季節。あたらしい人たちと知り合って、笑ったり泣いたりする。

 

そういう春の訪れとともに、私は毎年躁状態になる。写真の現像を始め、恋に落ち、ギターが欲しくなり、飲めない酒を飲み。まあ、写真の現像以外はあまり褒められたもんじゃない。

 

躁の後に来るのは、鬱だ。写真の現像をやめ、撮影もやめ、家にこもり、失恋し、ギターへの興味が無くなり、飲めない酒を飲む。酒はやっぱり飲む。

 

犬、猫と私は変らない。3年サイクルくらいでこういう春が訪れる。そして、私はその度に新しい私になるのだ。昨日までの、いや、ついさっきまでの自分の感情を羞じ、否定し、夢遊病のように眠ったまま毎日が過ぎ行く。

 

しかし、何度新しい自分になっても、改善することはない。ただ新しい自分になるだけだ。思いやりや想像力が備わるわけではない。ただ、疑い、悲観し、傷つき。

 

それが、おそらく今年の私にも訪れている。

ここを眠ったまま通り過ぎて、早く夏になってしまいたいが、過ぎ去った時間は短いが、目の前の時間は長い。出口の見えない春のトンネルに入る度に、昨日までの自分を忘れ、否定し、疑い、新しい自分になる。

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2013年

3月

11日

上野アメ横「ヤング」が今ナウい!!

上野アメ横「ヤング」が今ヤバいことになっている。

何と、ほぼ全品半額セールを行っているのだ。

 

「ヤング」をご存じない方にそっとお知らせしよう。「ヤング」はアメ横でも老舗のウエスタンショップだ。ウエスタンと言ったらヤング。ウエスタンを気取りたい方はとりあえずヤングに言ってつま先から頭のてっぺんまで全て揃えるが良い。あ、ブーツは売ってなかったかな。

ブーツはBtoBで買えば良い。だからブーツはおいといて、ウエスタンなパンツ、シャツ、ジャケット、ループタイ、テンガロンハット、何でも揃う。

 

そのヤングがいま売りつくし半額セールを行っているのだ。

ウエスタンについてよく知らない方にこっそり教えますが、ウエスタンシャツ等のウエスタンな服は案外良い値段するのです。ウエスタンシャツとかも、まともなやつを買おうとすると1万3千円くらいします。

 

だからおいそれと買えない。

 

テンガロンハットはまともなやつは2万円以上します。

 

だからおいそれとは買えない。

 

ベルトもちょっとかっこいいやつは1万円以上します。

 

だからおいそれとは買えない。

 

そのおいそれとは買えないウエスタンなファッションアイテムが何と半額で売られているのだ!!これは絶対最初で最後のチャンス。

 

それで、買ってしまいました。ウエスタンシャツとテンガロンハット(ストローハット)。どうです、このウエスタンなコーディネート。この格好で街を歩いていると間違いなく怪しい。怪しいけれど、カウボーイに徹するためにはこういう怪しい格好で堂々と街をあるけなくては行けません。

 

それで、行ってきました。森田珠美さんの出るライブに。このウエスタンな出立ちで。珠ちゃんの生ピアノよかったー。Loose Voxのマスターもトムウェイツみたいでかっこ良かったです。珠ちゃんはジャズじゃなくてもそつなくこなして凄いです。グランドピアノの音って、やっぱり良い。エレピはチューニングが何となく固い。ピアノの調律ってなかなか微妙な世界なんだな。明らかにエレピとボイシングの感じが違う。なんだか生々しいグランドピアノの音で聴く珠ちゃんのピアノは清々しくて良かったです。

 

それで、このウエスタンなコーディネートで前の方の席で見てたら、前で一生懸命ステージの写真撮ってた写真愛好家のおじさんが、一枚撮らせてくれって言うのです。あたしゃー見せもんじゃないよ、ってことわろうかとも思ったんですが。やっぱりこういう風にウエスタンに反応してもらえると嬉しいね。もう何枚でも撮って撮って、って言いました。

 

それでそのライブの帰りにまた寄ってしまいました。ヤングに。

あー、「ヤング」店ごと買っちまいたい。

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2013年

2月

26日

東京マラソンを見る。そのあと踊りに行く。

2月24日は東京マラソンを見に行った。

マラソンを観戦するのっていうのはとても曖昧な行為で、路肩で観戦していても全然試合の状況は確認できない。マラソンを本当に見たいならテレビで見るのが一番だろう。

 

だから、マラソンを応援しにいったと言った方が近いかもしれない。マラソンを、応援しにいった。うん、まあなんとなくわかるようなわからないような。応援しにいったと言っても、特定の選手を応援していたわけではない。何となく茅場町あたりで張っていて、通り過ぎるランナーを応援した。

応援だから、「ナントカ、頑張れー」とか叫んだりするのがスジだと思うが、一度も叫ばなかった。

だから、応援というのもちょっと違うな。

 

そうそう、マラソンを見物しにいった、っていうのが一番しっくり来る。そうそう、見物しにいった。

 

近頃の東京マラソンはどんな様子だろう、と見物しにいった。見物しにいったら走ってた走ってた、沢山走ってた。なんだかマラソンというものがスポーツで、順位を競ったりするのが本来の目的なんだろうけど、立ち止ったり、バナナを食べたり、コスプレしたりしながらみんな走ったり歩いたりしてた。

 

ああ、マラソンって、レースじゃないんだ。レースはマラソンの本の一部で、あとの大半は仮装したり、バナナ食べたり、立ち止って伸脚したり。あれだな、パレードに近いな。パレードをみんな思い思いのやり方でやってる。これがマラソンなんだな。それで、ついでにタイムもはかる。これがマラソンの本質のようだった。

 

マラソンのあとは家に帰って、餅喰ってから六本木に出かけた。佐野さんと珠ちゃんの出るライブイベントを聴きにいった。

「ジャズと踊りを楽しむ会」という名の、イベントだ。六本木のお洒落なライブバー、ヴァニラムードでしめやかに執り行われた。

 

ジャズと踊り、というから、ジャズで踊るのだけれども、実際はDJさん達はジャズ以外も結構かけていて、始まって一時間は普通のクラブイベントのようだった。その間、ビールを飲みながら少々身体をクネクネしたりして時間を過ごす。約一時間。

 

そのあと、ジャズのライブ。森田珠美さんのピアノは洗練されていて、力強い。ああいう風にピアノを弾けたらなんて素晴らしいだろう。佐野さんのドラムもビシビシオカズをキメていく。やっぱりこのバンドは良いな。聴いていて楽しい。

 

そして、ジャズのライブ演奏に合わせてダンサーがダンスを踊る、私たちも、身体をクネクネしながらそれを見物する。なかなか悪くない。

 

最後にジャムセッション。ダンサーも交えてのセッションは新鮮だ。ジャズと踊りはもともと良くあうんだなと思いながら、それを見物する。たまに身体をクネクネしながら見物する。

 

そうやって身体をクネクネしながら一日が終わった。

たまには、恥ずかしい気持ちを捨てて、自分を解放してこうやって身体をクネクネさせるのもなかなか楽しい、と思った。

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2013年

1月

29日

50年代の彼方からの響き。L−50

L-50
L-50

私はアーチドトップのギターが好きなのだけれど、ギブソンのアーチドトップもずっと気になっていた。なかなか良いのが買える値段で出ていなかったので、今まで諦めてきたが、L−50の良いやつがあったので、33歳の記念に購入した。

 

結局結構な出費にはなったが、音はカラカラ乾いてて、低音もジーンと鳴る美しいギターである。やっぱりギブソンは良いギターを作る。50年代の普及版のアーチドトップだけれど、作りはしっかりしていて手抜きは無い。L−5やSuper400等最高級ラインのような重厚感は無いけれど、音量、音質ともに独り家でつま弾くには最適なギターである。

 

こういうギターをそれほど高くない価格帯で国内でも作れるようになったら面白いのだけれど、なかなか作れないのかもしれない。

このギターを手にするまで、ピックギターは茶木のP−1を専ら使っていて気に入っていたのだけれど、L−50に比べるとチャキの作りはいまいちに見えてしまう。もちろん楽器だから作りの良さだけが重要なのではなく音や引き心地が重要なのだけれど、茶木のP−1はそれにしか出せない音がするけれど、L−50のようなまとまった音色は出せない。

 

L−50を一言で言うと、品が良いギターだと思う。チャキのように暴れる音色ではなく、コードも単音も品よくまとまっていて、弾いていて心地いい。これをずっと使っているとチャキに持ち替えたときのギャップを感じるだろう。L−50のネックの太さも気に入っている。ずっとチャキをのP−1のネックの薄さが気になっていたが、L−50はそれに比べるとずっと太めで厚みがあるけれど、手が疲れないちょうどいい太さがある。このネックの太さは私の持っているES-165と丁度同じくらいで、ギブソンの50年代のグリップは私の好みに合っているらしい。70年代のテレキャスターを持っているが、そのテレキャスターのネックも大体同じくらいの太さである。最近のGibson USAのネックは細めだけれど、L-50のネックは近年のリイシューの50‘sプロファイルより若干太めである。

 

装飾も少なめで地味なところも私の好みに合っている。ChakiのP−1の装飾を省いたデザインもとても気に入っているが、L−50も装飾が控えめでとても良い。ひとりつま弾くギターは装飾が地味な方が良い。

 

暫く使ってみて、あらためてチャキと比べてみたら面白いだろう。チャキの暴れる感じが懐かしく感じるかもしれない。それほどL−50は品がよいギターである。

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2013年

1月

24日

大人になるって言うことはEsquireの魅力がわかることです。

私事ですみませんが今日は私の誕生日でした。結構いい歳になりました。

 

そこで、今夜はギターの配線を修正しました。誕生日にふさわしい作業です。電気関係のものをいじっていると、なんだか頭の整理になっていいですな。エスクワイヤの配線もなかなか奥が深いのです。

 

実はこのEsquireもともとはテレキャスターでした。ピックガードをはずすと今でもテレキャスターです。テレキャスターの方が音のバリエーションがあって使いやすいのです。実際エレキギターの中で一番使い勝手が良いのはストラトかテレキャスでしょう。どちらもサウンドのバリエーションが豊富ですから、何でもこなせるギターだと思います。だから、テレキャスターのままの方が使い勝手は良いのです。

 

では、なぜEsquireにしたのか。これが今日の話題です。

まず、はじめにエレキギターというものを考えたとき、マイクで弦の振動を増強して出力するものです。アコースティックギターはボディー自身が共鳴することで音を大きくしますが、エレキギターは弦の振動を直接マイクで拾って増強します。エレキギター周りの機材って色んなバリエーションがあって、一体そのなかでギターって何なんだと考えると、答えが出なくなります。

 

その答えが出なくなるあり地獄の入り口が、私はピックアップセレクターだと思います。ああいうもんがあるから色んな音を出したくなる。そういう意味ではトーンコントロールとボリュームコントロールも邪魔なのですが、実用上ないと困るわけで、まああれ位は勘弁してやろうかな、と思っております。

 

それで、ピックアップが一つのギターは、ピックアップを選んだりブレンドしたりしなくてすむのが良いところです。ピント合わせがないバカチョンカメラとかと一緒で、ピックアップの選択という概念が無い世界です。私はそういうギターが好きなようで、グレッチのアニバーサリーとか、レスポールジュニアとかに強く惹かれます。その中で、一番プリミティブなギターがEsquireでしょう。

 

ピックアップが一つしか無いギターは、よりアコースティックギターの感覚に近いギターだと思います。「このギターはそういう音のするギターだ」という主張を感じます。道具はこれしか無い、これしか無い中でどう表現するかが問われています。色々な選択肢があるとついついそれらの選択肢に目がいってしまい、本当に自分が何を求めているかがわかりづらくなってしまいます。Esquireのように選択肢が少ないと、逆に自分はどのような音を求めているかを考えることに集中できます。

 

これは、音楽や楽器に限ったことでなく、道具はシンプルな方が自分が道具に求めることがハッキリとわかります。最近のデジカメとか、色んな機能が沢山ついてて、色んなことができますが、どんな写真を撮りたいのかを考えるとき、その色々な機能がかえって邪魔になるような気がします。その点、写ルンですは良くできた道具だと思います。

 

話はそれましたが、グレッチのアニバーサリー、1ピックアップの6119とか、レスポールジュニア、エスクワイヤ現振動とギターの割切った関係は、音楽に対するプレーヤーのスタンスを問うているのだと思います。

 

ちなみに、今日の配線の修正はテレキャスターの配線のままになっていたものを、バイパス、トーンコントロール、プリセットトーンのセレクトに変えました。

 

えっ、選択肢増やしてるじゃないかって?

まあ、そうとも言えますね。

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2013年

1月

22日

フルテンにすると発振が止まらないアンプヘッド。でもハイゲインです。

自作アンプヘッド

昨日は5E3のクローンのハムノイズを消したことについてブログに書いたが、今日はノイズが消えなかったことについて。

 

実は昨日の夜ブログに載せたやつ以外に、もう一つ5E3 Fender Deluxeのクローンを制作したのですが、その一台が今日の写真のヘッドです。なんでそんなに5E3ばかり作ったのかと言いますと、私はこれ以外のアンプを製作したことが無いからです。

 

じつはもう一台アンプを作れる部品は持っているのです。あるムックに載っていたギターアンプの回路を参考に制作したのですが結局完成しないままトランスと真空管が手元に残っているのです。でもそっちは怖いから見なかったことにして、5E3のクローンが2台手元に残りました。

アンプって何台あってもしかたが無いのですが、同じ回路で作ってもトランスやコンデンサーが違うと音が違うのが不思議です。

今日の写真のアンプヘッドは回路は5E3なのですが、フェイズインバーターの後ろに可変抵抗をかましマスターボリュームがついています。

 

フェンダーのアンプは音は素晴らしいのですが、多くのモデルはマスターボリュームがついていないので、歪ませるためには音量をバカでかくしないと歪みません。そこがちょっと困ったところなのですが、これって結構アンプの音を左右する大きなファクターなのです。

 

フェンダーのアンプのボリュームを目一杯上げて得られる歪みは、パワーアンプ部が作り出すひずみで、ディストーションというよりもジャリンとしたオーバードライブの歪みです。この歪みってなかなかエフェクターでは再現できないのです。できないわけでは無いのかもしれませんが、音の輪郭がシャープでトレブルがつぶれない歪みって私の持っているダイオードクリップのエフェクターでは出せません。そして、この歪みはアンプによって少しずつクセが違うので、フェンダーのアンプのオーバードライブの音はおそらくフェンダーのアンプにしか再現できないのです。

 

それで、私はできるだけフェンダーの設計に近く、部品も今手に入る中で極力フェンダーの採用している部品と近いものを、トランスはマーキュリーのヴィンテージレプリカを使って5E3のクローンを一台作ってみたのです。そしたら、そこそこフェンダーの音に近い一台ができ上がりました。それが昨日のブログで紹介した一台です。

 

それで、まあまあ満足はしたのです。けれども使い勝手がいまいちなので、フェンダーの音は変えずに、マスターボリュームを追加したアンプを作ろうと思い、今日の写真のヘッドを作成したのです。こっちの方はトランスを国産のもので作りました。その他の部品はほぼ最初の一台と同じく作りました。

 

しかし、ちょっとしたことでアンプの音ってがらりと変わるもんなんですね。なんとなくマスターボリューム付きのヘッドの歪みはよりディストーションに近い歪みなのです。それに、歪み始めるポイントも違うのです。出力トランスの影響でしょうか。

 

そして、こっちのアンプはフルテンにすると発振し始めるのです。いろいろといじってみましたが、どうも発振は止まりません。フェイズインバーターの後ろにマスターボリュームを突っ込んだせいでしょうか。抵抗の値を替えたり、コンデンサーを替えたりしましたが発振は止まりません。ほぼ同じ回路なのに。

 

また後日、いじってみようと思います。

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2012年

12月

19日

お店出します。12月になると思いだす叶わなかった想いの数々

また長らくブログをサボってしまった。読んで頂いている方申し訳ないです。最近あまり書くことが無いのです。毎日が本当に速く過ぎていき、前回ブログを書いてから未だ数日しか過ぎていないと思っていたら、もう数週間、数ヶ月があっという間に過ぎているのです。

 

仕事がそんなに忙しいわけでもなく、家に帰ってからも色々自分の時間が持てているのでそれはそれでとても有り難いことなのですが、それでも、気づいたらもう夜中になっていて、寝る時間なのです。もう、今日何があったとか、今度何があるとか、週末何しようとか、週末何をしたとかそういうのが特にないまま、日々だけが過ぎていくのです。

 

それで、そのさっさと過ぎていく時の流れに抗うように、モノクロの写真を撮影したりしているのです。数年ぶりに写真に取り組んでいます。今日は、そんな日常から。

そもそもこのブログを書き始めたのは、一つの思いつきからです。学生時代からの友人が結婚して、そのパーティーに呼んでもらって、そこで学生時代好きだった女の子に会いました。ほんの一言、二言くらい言葉を交わしましたが、なんていうんでしょう、なんにも話せること無いんですね。私とその娘の間に共有してきたものがあまり無いので、懐かしいという気持ちはあるのですが、それをどの話題で語りかければ良いかわからなかったのです。

 

ああ、こんなことじゃ駄目だ、色んな話題、彼女が喜びそうな話題、そういうのをさっと出せるようにならなくてはならない。そう思ったのですが、一体何をすれば良いかわからない。そして、今の私には何か「これをやっている」っていう話題が無い。

 

それで思いついたのは、起業しよう。なにか、人に届けれることをしよう。とそう思ったのです。なんだか話が急にとんでしまったような気もしますが、なぜかそのパーティーのあと考えたのは、起業して、人に何か面白いことを提供したい。そう思ったのでした。

 

それで、急いで本屋行って買いました。起業の本。そしたらとりあえず、ブログを書いて、何でも良いから面白いことを熱く、そして読み手が楽しめるように書け。って書いてありました。

 

だからまず、音楽と写真について、恋愛というものについて、私なりの思うところを書きました。正直読み手が楽しめるようなものを書いてきたとは思っていません。ただ、熱く書いてきたつもりではあります。

 

それで、今般、とりあえずWebショップをはじめようかと思っています。まずは写真関係のものから、何を扱うかは未だはっきりと決めてはおりませんが、何か自分が熱く語れるもの、そして誰かに楽しんでもらえるもの、を探して、時には作って売りたいと考えています。Webショップができたら、このブログでも紹介致します。

 

お店という形で、私は何を提供できるか。それを考え、具現化したいと思います。

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2012年

11月

11日

MacBook壊れる。MacBook Pro購入。全く同じパソコンを使ってるみたい!!

ブログの更新を一ヶ月以上サボってしまっているので、前回更新した時から随分世間は変ってしまっているんですが、私の周りは変りません。

仕事はそこそこ順調で、生活に困る程ではありませんが、だからといって蓄えも無く、妻に言わせれば家の家計は火の車らしいのですが、まあ私自身何か我慢しているかというと、特に我慢はしていないので、本当は良くないのでしょうけれど。

 

それで、その他も特に前回更新した時と変りません、ギターが上達したわけでもなく、トランペットの練習はもう一ヶ月以上サボったままで。珠ちゃんのライブは今でも聴きにいっております。珠ちゃんは相変わらずとびきり可愛いのです。しかし、11月はライブをされないとのことで、残念です。

 

そんな私の身の回りで、変ったことが一つありました。

パソコンが壊れてしまったのです。

突然ディスプレーのバックライトが突然消えて、真っ暗になるのです。暫く、使わないうちに大変なことになってしまいました。

 

それでまあ、修理だろうということで、今週末修理屋に持ってったのですが、聞いたら五万ですって!!もう、いやんなっちゃいますね。五万だったら新しいパソコン買えちゃうだろうよ。そんな大金この古いマックにかけてらんねえですよ。けど、ディスプレー以外は今でも十分現役で頑張れるくらいなんですけど、どこも不具合なくて、けれども、ディスプレーがブラックアウトしちゃったらもうノートパソコンとしては致命傷なんですよ。もう、ノートパソコンの用を為さない。

 

もともと、我が家の家族計画ならぬパソコン計画は、今年の12月に出るiMacを買って、妻が主にそっちを使って、私は使い慣れたMacBookを使おうと思ってたのですが、MacBookがお釈迦になってしまったので、その夢も敗れちゃって、妻と二人どうしようか途方に暮れちゃったわけです。

 

一つの解決方法としては、外付けディスプレーを買ってそれで今のMacBookを使うというもの。でも、それで、iMacを買ったら家にディスプレーがゴロゴロということになってしまう。それでは、とりあえずiMacが出るまで待てば良いのではないかと思うでしょうが、iMacがあってもやっぱりノートパソコンは欲しい。私はノートパソコンしか使わないから、iMacは要らない。ああでもない、こうでもないと妻と一晩話しました。それで、妻も横になりながらも無言で色々考えてみたみたいです。

 

今朝起きたらもう頭の中はパソコンのことしかありません。それじゃあ、ヨドバシにパソコン見に行こうってことになって、見に行ってああでもないこうでもないって考えて、結局MacBook Proの13インチが良いんじゃないかって話になって、買っちゃいました。お金もないのに。まあ、明日からもまた頑張って働けば、また給料日も何度か巡ってくるわけで、それでやっとまあこのパソコンの出費もまかなえる時が来るでしょう。

 

で、買って使ってみたら。前まで使っていたMacBookをそのまま使っているような使い心地。新しいパソコン買ったって感じじゃない。MacBookを修理して使ってますって言う感じです。ファイルもアプリケーションも全部そのまま移したからなんの不便も無い。

 

いっこだけ不満を言わせてもらうと、愛用していたスキャナCanoScan8800fのドライバーソフトがOSに対応していないので、対応しているドライバーが出るのを待たなきゃ行けないのと、Photoshopエレメントがこれまたつかえなくなっちゃったのが痛い。フォトショはそのうちまた何かについてくるの待つしか無いのかな。

 

だれか、Photoshop余ってませんか?

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2012年

10月

15日

青春再訪。なかなか上達しない楽器の練習

随分ブログをサボってしまっているが、その間私には何の進展もありません。仕事も、プライベートもあんまり変らず、週末の過ごし方も変わらず。

 

しかしながら、世間というのは常に変化しているわけで、それにどうにかついていくのはなかなか大変なことです。まあ、そもそも時代についていこうと思った時点で既に時代遅れで、時代の流れを感じない状態が、やっと時代についていけている証拠なのでしょうが。そういう面倒なことは二十歳の頃は気にしましたが、今じゃもう気になりません。

 

今夜は音楽の話をしましょう。お時間あればお付き合いください。

珠ちゃん(森田珠美さん)に夢中になり始めたのが確か今年の5月のことだったと思いますが、今でも彼女に夢中です。彼女のパワフルかつ繊細なピアノの美しさ、彼女の美貌、何をとってもここ10年で出会った女の子のべストオブべストの一人であることは間違えありません。

 

昨日、その珠ちゃんが出演するジャズのライブを聴いてきました、妻と二人で。出演者は皆私たち夫婦と同じくらいか、もっと若い方々でしたが、元気で、清々しい演奏でした。荒削りとは言っても、とても整っていて、バラードを弾かせてもイヤらしくなり過ぎない、節度のある演奏でした。私は音楽には節度が重要だと思うので、そういう意味では良い演奏でした。これから、どうなるんだろう、どうもなりようが無くならなければ良いのだが、と余計な心配をしたりもしました。もちろん珠ちゃんのピアノはパワーがあって、コンパクトにまとまっていて、派手ではないけれど、きらびやかでした。この路線で、どこまでできるのか、とっても興味があります。彼女のピアノを今後ずっと聴いていきたい、そう思いました。

 

馴れ馴れしく珠ちゃんと呼んでしまいましたが、森田さんは私にとって雲の上のような存在です。彼女のピアノが美しいのは今更言うことではないのですが、彼女の容姿の美しさもまた彼女を雲の上の存在にしています。ああ、もう少し普通の女の子だったら、ひょっとしたら私もお近づきになれたかもしれないのに。

 

森田さんのピアノの話はこれ位にしておきましょう。今夜はもう一つ話したいことがあるのです。

 

以前も書きましたが、私が二十歳の頃、吉田拓郎の歌に夢中でした。拓郎の歌を聴いて、田舎から出てきて、拓郎の歌を聴きながら友と語り合い、恋愛をし、失恋をして酒を飲み、そんな青春を過ごしました。

 

その頃、最も良く聴いた拓郎のレコードが「Tour 1979」だったのですが、最近このレコードがCD化されていることを知りました。元のレコードは今でも持っているんですが、もうかなり聴き込んですり切れてきたので、CDで聴けるなんてもう夢みたいです。

 

欲しくて,欲しくて、三日くらい考えましたが、やっぱり買いました。3枚組で4000円ちょっとはなかなか大きな出費でしたが、買って良かったです。

 

今そのCDを聴いているんですが、やっぱり今聴いても好きな音楽です。特に2枚目に入っている「御伽草子」と「冷たい雨が降っている」が好きなのですが、あらためて聴いてみるとどの曲も良い。拓郎の力強い歌声は、32になった私にも響いてきます。現状に満足してはいけない、前に進まなければいけない、つらいことは全身で受け止め乗り越えなくてはいけない、そう私に諭しているような歌声に、勇気をもらいます。

 

二十歳の頃だって楽しい思い出だけじゃありません。引きこもったこともあったし、恋に敗れたこともあったし、友達を傷つけたこともあった、そんな自分の傷が、傷跡が、今の私を作っているのだ、今後もそうなのだ、ということを、吉田拓郎と珠ちゃんのピアノは私に気づかせてくれます。だから、この世の中の美しいものを美しいと感じられるのでしょう。

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2012年

7月

23日

胸は張れないけれど大型二輪免許の検定に合格。

以前にも書いたけれど、私はトライアンフに跨がれるようになるのがさしあたっての夢である。

 

1年程前に中型2輪の免許を取得し、妻にスティードを買ってもらって乗り回しているが、なんというか、クルーザー乗りとしてはやっぱり将来はハーレーを乗り回したい。何と短絡的なことかとあきれてしまうけれど、やっぱりナックルヘッドとかをレストアして乗り回すのはバイク乗りの一つの理想型である。

 

スティードはとても乗りやすいし、とり回しやすい割に結構スピードも出てくれるので重宝しているけれど、やっぱりいつかはスティードを卒業して、大きなやつに乗りたい。かといって、いきなりハーレーに乗るのはちょっと気が引ける。ハーレーのナックルヘッドやショベルヘッドはやっぱりいつまでも憧れでとっておきたいし、実際値段も高いのでおいそれとは手が出ないし、メンテナンスもなんぼかかるもんかもわからない。

それで、まずはスティードをぼろぼろになるまで乗り回して、バイクのイロハをこのバイクで学びたい。幸いホンダのバイクは故障が無くて、今までに、ミラーが折れて交換したのと、ブレーキオイルを入れ替えただけで、問題なく乗れている。

 

じゃあ、スティードを卒業したら何に乗りたいか。これからが私の夢の一つなんだけれど、トライアンフのスピードマスターに乗りたい。英国製のクルーザーって言うちょっとよくわからない存在のスピードマスターが気になる。

 

その夢への第一歩として、大型二輪免許の教習に通っていた。このたび、晴れて検定に合格し、あとは免許センターで併記してくるだけとなった。

 

合格したと言っても、検定の内容はボロボロだったので、これから少しずつ練習して乗れるようになりたい。ほんとボロボロだった。特別課題はどれもタイムが全然出てなかったし、エンストも全部で3回もしてしまった。これで、絶対落ちたと思っていたのだが、何故か合格できた。検定とは不思議なもんである。

 

それで、まあ、次はトライアンフに向けて貯金である。少しずつ貯めて、スピードマスターを手に入れたい。でも、もしお金が貯まってきたらやっぱりハーレーが欲しくなったりして。わからないもんであるが、とりあえず免許はなんとかとれた。

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2012年

6月

11日

勝手なことを言うようだけれど、私を許してほしい。

来し方を思うと、このところ私は軽い躁状態だったのかもしれない。土曜日に医者にかかり、精神安定剤が追加された。薬は減ることはなくても増えるほうはどんどん増える。まあ、それで体調を保てるのであれば、文句はないけれど。

 

それで、ここのところ2週間ほどを振り返って、自分が行った愚かな行為を悔やんでいた。気になる女の子ができて、しつこく連絡を取り、嫌がられる。こういう自分の愚かなところに気付きながらも、なぜ止められなかったのか。自分が嫌になる。

トモコさんがこのブログを読んでる可能性は限りなく低いけれど、この場を借りてお詫びしたい。どうか許してほしい。あなたとなら、きっといい友達になれたと思うのに、その可能性を自分でつぶしてしまった。

 

もっと穏やかな心の状態のときであったら、もっと一歩引いたスタンスで君と付き合えたなら、きっと楽しい時間を一緒に過ごせたと思うけれど、過ぎてしまったことは仕方ない。

 

どうか、江戸川乱歩の「芋虫」のようなおおらかな愛で、いつか私を許してくれたら。「許す」とだけでいいから、連絡ください。

 

女々しいブログでした。

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2012年

6月

01日

降ったら土砂降りという重篤な病

今週は長かった。長かった今週も終わった。そして、何も良いことが無いであろう週末。すぐ終わってしまう週末。こうしてどんどんわけもわからず時間だけが過ぎて、歳をとって死んでしまうのである。人生は良いことなんて無い。今日を楽しめば良いのかもしれないけれど、今日は全然楽しくない。生きていても良いことは無い。

 

昨日に引き続き自分自身の話。つまらないと思ったら読まないでいいです。

私は、何をやっても盲目的になってしまう。

 

ギターのことが気になったら何週間もギターのことしか考えられなくなる。毎日毎日寝ても覚めてもギターのことばかり考えて、他のことを考えない。そのことしか考えられない。写真にハマったら何日も写真のことしか考えられない。

 

そのくらいであれば、それほどヒトに迷惑はかけないから良いのだけれど、お酒と人間関係はそうはいかない。

 

飲み始めるとベロベロに酔っぱらうまで飲んでしまう。途中でやめられない。これは困ったもんだ。そのせいで沢山失敗をしてきた。もう飲みたくないと思うこともあるけれど、ひとたびお酒を口にするとどんどん飲んでしまう。その上、酒に弱い。全然飲めない。すぐに酔ってしまう。

 

人間関係もそうだ、例えば誰か気になるヒトができたらずーっとその人のことが頭から離れない。そのせいで色んなヒトからしつこいと思われ、実際しつこくつきまとって嫌われてしまう。

 

酒と人間関係以外でも、困ったことがある。何か物が欲しくなったらずっとそのことしか考えられなくなる。そして、結局それを購入するもしくは手に入れることでしかそれを解決できない。それを、今日という日までずっと続けてきた。

 

もうこういう自分がいやになった。きょうで、そういう自分とは永遠にお別れしたい。

 

 

物に依存したり、酒に依存したり、友人に依存したり、妻に依存したりするのはもういやだ。周りに迷惑をかけて、只空しくなるだけ。こういう自分と別れられる薬が欲しい。

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2012年

5月

31日

Between dependence and deep blue sea

長い一週間。今の仕事をはじめて一番長い一週間。出口は見えるけれど、その出口にたどり着きたいような、このままでいたいような。このままではいけない。先に進まなければ。人生は続いていくのだから。

 

今夜は何の話をしようか。

もしかして、誰にも読んでもらえないかもしれないけれど、僕自身について話そう。つまらないかもしれないけれど、お時間許しましたらお付き合いください。

何年か前に、学生時代の友人とリハーサルバンドを組んでいた。リハーサルバンドとは、永遠に本番のステージを迎えないスタジオ練習だけのバンドだ。古い歌謡曲をトリオでどれだけできるかの実験だった。

 

実験は上手く行かなかった。今はなつかしドリカム編成だったのだけれども、上手く行かなかったのは男女の関係のせいではない。ドラムの女の子がリハーサルバンドというあり方に我慢できなかったのだ。

 

彼女の気持ちはわかった。だからすぐ解散した。彼女がいなければバンドは続かなかった。結局殆ど決まったレパートリーができる前に崩壊した。それ以来バンドはやってない。ギターも殆ど弾いてない。

 

それで、そのバンドの数少ないレパートリーが「大きなタマネギの下で」だった。

 

ご存知ですか「大きなタマネギの下で」。文通のはかなさ、織り姫と彦星は結局一度も逢うことなく銀河へ消えてしまう。私はこの曲が好きだった。メンバーもみんな好きだった。いつも練習中に大合唱になって、時々泣いた。本当に気持ちを込めて歌うと上手く歌えない。だから、適当に他のこと考えて歌った方が良いのだけれども、この歌はなかなか自分を他のところに連れて行ってくれなかった。

 

私も、17の頃オーストラリアに留学していて、その頃文通をしていた女の子に恋をした。何度目かの初恋だった。思春期の真っただ中の片想いだった。彼女とは何十通も手紙のやり取りをしたけれども、結局一度も逢えないまま終わった。いや、正確には一度だけあっただけだった。私が日本をたつ一週間位前に友達と男女何人かで一緒にあった。そのとき、一番地味だったのが彼女だった。

 

今どんなに思い返しても彼女の顔を思いだせない。何日か前にフェイスブックで当時同居していたジョニーからその頃の私が写った写真がおくられてきた。その写真に彼女の写真を持った自分が写っていて懐かしく思いだした。

 

その頃は、思春期のどうしようもなく心のやり場も無い自分を何かに引っ掛けておかなければ生きていけなかったのだ。そんな自分を引っ掛けておける場所として文通相手の彼女がいた。本当に恋愛だったのかどうかはわからない。だいいち、一度しかあったことのない女の子のことは、何度手紙をやり取りしても結局はわからない。私の中で勝手に彼女を作り上げて、その彼女に恋をしてたのかもしれない。

 

結局自分の感情なんて説明できないし、誰にも理解されないかもしれない。今私の隣ですやすやと寝息をたてている嫁さんも私の心の中まではわからないのかもしれない。そのまえに自分自身も自分のことがわからない。

 

福山雅治の歌に「どんなに深く愛し合ってもわからないこともあるでしょう。その孤独と向き合い生きることが、愛するということかもしれないから」という歌詞があった。良いことを言うぜ福山雅治。

 

結局、その孤独と向き合い生きていければ、恋人とも上手くやっていけるのかもしれない。けれども、本当にそうなのかな?福山雅治の世界と比べて、この世の中は複雑すぎて、何もかもが遠すぎる。オーストラリアと札幌も遠かったけれど、絶対的距離なんて何の意味も無い。逢えない時はいくらもがいても逢えない。何度か国際電話かけたけど、結局彼女の心はつかめなかった。結局逢えなくて孤独なままではヒトを愛せない。

 

だから結婚して良かった。家に帰れば嫁さんに会える。これほど良いことは無い。うまく行かないこともあるし、いつも精一杯愛せるわけではない。けれども、ほぼ毎日逢える。ザマ見ろサンプラザ中野。逢えれば、自分の本当の気持ちに直面することができる。僕は、あんまり好きじゃなかった女の子とそこそこの関係になったことがあったけれど彼女と会っているときに、「俺この娘のことあんまり好きじゃないな」ってはっきりわかった。彼女と会う時間があって本当によかった。逢わなかったらどうなっていたのかわかったもんじゃない。オー、クワバラクワバラ。

 

話が横道にそれてしまった。「大きなタマネギの下で」はこういう私みたいな男性一般にはざっくり刺さってくる歌だ。結局、恋とは何なのかわからんし、友達と何が違うのかもわからんけれど、思春期に限らずヒトはやり場の無い心を引っ掛けておけるところが必要だ。今は大人だからそれが女の子でなくても、バイクやギター、カメラなんかでも代用できるようになった。それに、いつも嫁さんが近くにいる。

 

そういうものたちに依存しながら、自分だけ美しく生きていければ良いと思う。それを自分勝手と呼ぶのかもしれないけれど、自分勝手よりサイテーの奴らは沢山いるし、自分だって自信がない。私を支えてくれる皆さんへのせめてもの恩返しに、精一杯美しく生きていたいと思う。

 

それで、そう、リハーサルバンドだった。永遠に本番のステージにたつことが無いことは確かに物足りないかもしれない。その気持ちもわかる。けれども、僕はそうやって仲間達と音楽を楽しむことさえできればよかった。何かの形にすることは求めていなかった。それを理解してくれるパートナーが見つかったらリハーサルバンドをまた組もうと思う。誰か組んでくれますか?

 

結局何が言いたいのかわからなくなってしまった。わからなくなってしまったから、「大きなタマネギの下で」でも聴いて下さい。

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2012年

5月

27日

短絡的だけど、ロカビリー50’sファッション。

秋葉原といえばアロハシャツである。

アロハシャツが最も密集しているところは、ホノルルでも船橋健康センターでもなくて、電気街のあたりかもしれない。

 

秋葉原に来られる方はファッションに無頓着な方が多いと思われているかもしれないけれど(そう思ってるのは俺だけか)実のところ、ファッションについてはこだわりを持たれている方が多いと思う。

 

ちょっと前なら、襟のところがダラダラになったTシャツにハイテクスニーカーをはいてリュックを背負っているヒトばかりだったけれど、いまは実にお洒落な方々が沢山いる。ファッション誌とかも一度秋葉原の路上をチェックして頂きたい。いや、それはちょっと言いすぎかな。

 

それで、今日はアロハシャツ、じゃなくてボーリングシャツである。

今日は嫁さんと秋葉原のドンキホーテという店を見物に行った。その途中UDXの横を通ったら沢山の露店が出ていた。一種のフリーマーケットなのだけれど、出店しているヒトのほとんどは業者だ。

 

それで、何件か古着屋が出ていたんだけれど、その中でアロハシャツを専門に扱っている店があった。秋葉原の方々はアロハシャツをお召の方が多いので、そんな秋葉にピッタリの露店である。

 

それで、アロハシャツにはあんまり興味がなかったのだけれど、ボーリングシャツも何着か混ざっていたので、その中を物色して一着購入した。3000円也。安い。アメ横でボーリングシャツを買ったら一万円はゆうにするだろうから、古着とは言え3分の1だ。

 

私は昨年まで自分の腕が細いことが恥ずかしくて、一度も半袖の服を着て出歩いたことは無かった。夏でもいつも長袖シャツにジャケットを羽織っていた。

 

しかし、近年デブになってきたので、自分がヒトからどう見えているかあんまり気にしなくなってきた。それで、30を過ぎて半袖デビューである。何故か無性にボーリングシャツやアロハシャツを着たくなって半袖のシャツを買った。それと同時にユニクロでタンクトップを3着買った。タンクトップなんて今まで恥ずかしくて着れなかったけれど、このくらいの歳になってきたら、こういう服を着てられるのもあと何年あるかわからない。だから、着てみたかった服はとにかく買ってみた。

 

秋口になれば、タンクトップに革ジャンを羽織ったりも出来るかもしれないし、アロハシャツの中にきるにもちょうど良い。

 

それで、アロハシャツやボーリングシャツを羽織って、コンビのロファーを履いて、ボトムにはディッキーズのワークパンツをはいて、ちょっとチンピラ気取りで上野の街を歩いてみた。なかなかいい気分である。アロハシャツとかボーリングシャツを着ると、誰もがチンピラか秋葉系に見えてしまうけれど、私が目指してるのはそのどちらでもない。

 

出来れば、50‘sのおめでたいアメリカの若者のような着こなしをしたいと密かに思っているのだ。「アメリカングラフィティー」っていう映画ご覧になったことありますか?ジョージルーカスだから結構有名な映画なんだけれど、あれに出てくる若者みたいになりたい。と、書いている私もあの映画見たのもう何年も前だからどんな登場人物がいたかは覚えてないけれど。けれども、あそこで描かれていたのは50‘sのアメリカンカルチャーだった。まだ、ヒッピーもいないロン毛もいないアメリカである。テディーボーイは皆髪の毛をダックテールに撫で付けて、レイバンのサングラスをかけて、テロンテロンのレーヨンだとかポリエステルだとかそういったモダンな素材で出来たシャツを着て、女の子はボリュームのあるスカートか、もうちょっとあとの時代になるとホットパンツとかを履いて、ジュークボックスのロカビリーにあわせて踊る。

 

ああいう、悩みとかあんまりな異様な、ちょっとアホみたいな若者を気取ってみたいと本気で思ったのだ。けれど、まあ私は平凡な日本人だから、いくら頑張ってもああいう風にはいかない。せいぜいタケシ映画に出てくるチンピラが関の山である。あんまり格好にうるさい会社ではないけれど、一応は会社員だし、あんまり髪を伸ばしたりも出来ない。親もまだ健在だからタトゥーも入れるわけにはいかない。だから、とっても中途半端な50‘s気取りなのだ。

 

そんな格好をして、電気工作の部品を買うために秋葉原の電気街を歩いてみた。しばらく歩いていて、妙な連帯感のようなものを感じた。私の格好が、まさにこの秋葉に集まっている方々のファッションの方向性とマッチしているのだ。50‘sを気取ろうと思ったら、期せずして秋葉系になっていた。秋葉原とは何でも飲み込んで自分の一部としてしまう恐ろしい街なのだ。

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2012年

5月

22日

大型二輪免許に挑戦!絶対とるぞ!

私事でとても恐縮なのですが、このたび大型二輪の免許を取るために教習所に通うことにしました。先週末に申し込みをしてきて、実際の教習は今週末の土曜日からです。

 

かなりハードなスケジュールで教習の予約をしてきたのですが、高い教習費用をもう払ってしまったので、頑張って通います。通って、徹底的に鍛えてもらって、大型二輪の免許を取りたいと思います。

 

皆さんに取って教習所っていうところがどういうイメージなのかはわかりませんが、私にとって教習所は地獄です。

いく前から苦手意識を持つとよくないと思いますが、過去の経験においては、教習所で良い想いをしたことは殆どありません。

 

学生の頃普通免許をとったときは苦戦しました。ダブりまくって、人の2倍くらいの時間技能教習を受け、仮免をとるまでに半年くらいかかり、やっとのことで免許を取りました。それはそれはもう、苦労の連続でした。車庫入れとか縦列駐車とかどんな風にやったのか、まったく覚えてません。

 

中型二輪の免許を取りにいった時も大変でした。やっぱりヒトの2倍以上の技能教習を受け、検定の期限ギリギリで免許を取りました。今思い出してもヒヤヒヤするようなギリギリの成績で免許を取りました。もし、教習所の成績順位票みたいなのがあったら、おそらく私はビリで卒業でしょう。それだけに免許が取れた時はとっても嬉しかったですが。

 

今回の大型二輪免許はどうなるでしょうか。あらためて2輪車の技能教習を受けることになるので、復習の意味もあるので、この機会にバイクの腕を上げたいと思ってます。だから、期待と不安が入り交じった気分です。スラロームとか一本橋とかまたあらためてやるんでしょうから、気合いを入れて望もうと思ってます。八の字とか、また出来る気がしませんが、まあ、せいぜい頑張りたいと思います。

 

なにかコツとかご存知の方がおられましたら、コメントください。

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2012年

5月

21日

日蝕を見た。丸かった

今日は午前中仕事を休んでしまった。身体が辛く起きれなかった。こんなことでは困ると思いながらも、午前中を過ごした。

 

けれども、今日は悪いことばかりでもなかった。

今朝日蝕を見た。金環日蝕を。

 

金環日蝕って日本では何十年に一度しか観測できないらしいので、一生のうちで金環日蝕を見れるのは最初で最後かもしれない。その一生で一度だけしか無いかもしれない5分間を、寝床から空を見上げて過ごした。

それだけではない、高校の頃からの友人が先週末結婚したとの報告があった。結婚式もやらない地味婚なので、わざわざのこのこ結婚式に行かないでもすむし、式場でどうでも良い話聞かないで済むので、よかった。結婚式は嫌いじゃないけれど、高校時代の友人だから、共通の知り合いで結婚式に来そうな人はあまりいない。大学の頃の交友関係もあまり知らない。まして、仕事をするようになってからの交友関係はまったく知らない。だから、もし結婚式があって、出席したとしても、知らないことばっかりで退屈だろうし。

 

せいぜい幸せになって欲しい。あいつも、仕事大変で、家の事情とかで結構苦労したクチだから結婚生活が穏やかで、明るいものであって欲しいと思う。本当なら既婚者の私からいろいろアドバイスも出来るのだろうけれど、あんまり先輩風ふかせない方が良いと思い、「結婚したら人妻とも対等に付き合える」ということだけ伝えておいた。このインフォメーションが役に立ってくれるとうれしい。

 

それで、そいつは結婚に備えて貯蓄をしたらしいので、私もこれからは無駄遣いを5分の1くらいに抑えて、毎月貯蓄できるようになろうと思った。とりあえず、今月はもうかなりの金額を自分の趣味にかけたので、これから無駄遣いを極力しないように心がけ、CDや楽器をなるべく買わないように心がけ、フィルムも余計に消費しないように心がけ、バイク周りのものも極力買い足さないようにして、とにかくモノを買うのを極力減らして、一年後には貯金を100万円くらいためれるように頑張りたいと思った。今年は既にギターとカメラとバイクの教習所代で50万円は使ってしまったので、そういう消費を極力抑えたら、少しは貯蓄も出来るだろう。

 

今日のこの決意を忘れないように、とにかく頑張りたい。

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2012年

5月

20日

AKBじゃない、Forty Eightも素晴らしい。

今日日48といえば、AKBだ。

AKBについて私はよく知らないけれど、世間じゃ相当人気あるらしい。ヤフーのトップニュースでも頻繁にAKBの文字を見るし、国民的アイドルと呼んでも差し支えないだろう。私も詳しいことはわからないが、「ヘビーローテーション」のPVはYou Tubeで何度も見たし、蜷川実花は好きではないが、PVはすばらしいできだと思う。若い女の子達がランジェリーを身につけて戯れている映像がいやな男性はそう多くはないと思う。高感度100%である。

 

しかし、今私の中でホットな48はAKBではない。Harley Davidson Forty Eightだ。

ついにハーレーもワケの分からないアイドルを売り出したかと思うようなネーミングだけれども、これがまたちょっとカッコいいのだ。

 

Web上ではあんまり人気はないようだけれども、私は現行のハーレーのラインナップではトップクラスの格好良さだと思う。スポーツスターはハーレーの中では一番廉価で軽く見られているかもしれないが、バイクは高ければ良いってもんじゃない。

 

ハーレーのバイクはどれも重そうでボテボテしてて、それが故にハーレーはいまいち好きになれないという方も多いと思われますが、スポーツスターはそういうハーレーのイメージを払拭するスタイリングで、私は好きだ。けれどもスポーツスターにはイマイチカッコいいモデルが無かった。乗りやすそうだけどオッサンが乗るとちょっとダサイ、これがスポーツスターのイメージだった。

 

そこに登場したのがHD48だ。長距離ツーリングばかりがハーレーではない。街乗りでもハーレーに乗りたいと思わせる一台だと思う。セパハンでは無いけれど短いハンドル。16インチのスポークホイールに図太いタイヤ。パット見乗りづらそうだけれど、実際はどうなんだろう。やっぱり乗りづらいのかな。7.9リッターしか入んないピーナツタンクはハーレーの燃費だとしょっちゅうガソリンを補給しなきゃいけないだろうし、長距離ツーリングには明らかに向いていない。けれども、出来の悪い末の兄弟のようで、ちょっとやんちゃで親しみが持てる。

 

今まで、ハーレーを買うなら絶対ファットボーイだと思っていたが、Forty Eightもちょっと気になる。私の中で今Forty Eightは「ヘビーローテーション」である。

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2012年

5月

15日

噂に寄るとAKBと250ccのバイクの世界は深いらしい。

このごろいつも、個人的な話で申し訳ございません。

このブログという形態は、どうしてもモノローグですから、私の話に終始してしまいがちになります。色々なページをご覧になられている中で、小生の拙いブログに目を留めて頂けたのでしたら、どうか少しでも役に立つことを書きたいと思い、今日までやって参りました。

 

それで、何について書けば良いのかもわからないまま手探りの日々ですが、とりあえず、またバイクの話題から。どうかお付き合いください。

バイクなんていいますと、近頃はあまり流行らないそうですね。田舎の方に足を運んで参りますと、今でも暴走族なんていう方々もいらっしゃって、特攻服なんていう独特のファッションと、独特のカスタマイズされた2輪車に股がり、エグゾーストノートを奏でておりますが、私の住んでるあたりじゃとんと見かけません。バイクが下火になっている証拠ですね。

 

上野の方へ参りますと、昭和通り沿いにバイク街なんて地域がございます。あれは、もうシーラカンスのような、生きた化石みたいなもんでして、いやもう息も絶え絶えの化石ですね。あの地域がかつて全盛だった頃はそこいら中にバイク屋があって、バイク乗りたちがひしめいていたそうでございます。

 

私も、バイクが好きなので、月に何度か足を運んだりしてますが、今でも数は減ってしまいましたが、バイクを扱う商店がございます。その中に、コーリンの残務処理をしながらお店を続けているビッグビートっていうお店があって。あの店にはバイクに必要なありとあらゆるものが廉価で手に入るので、とても重宝しています。私が毎週末はいている革パンもあの店で買いました。なかなか上等な革で出来たズボンが比較的手に入りやすい価格で売ってありました。

 

そのビッグビートが昨年ヴィンテージバイクの、特に英国車のコレクションの展示オークションを開催されてまして、沢山の貴重なバイクを生でみることが出来ました。とっても貴重な体験でした。3回も足を運んでしまいました。そのオークションに出ていたバイクのなかに、名前は忘れましたが、250ccのバイクがあって、とっても落ち着いたデザインで、なんていいますか、あのトワイニングの紅茶のパッケージみたいな完成されたデザインでして、とっても気に入ってジロジロ見ていました。オークションなので、お金を出せば買えるのですが、そのようなバイクを買ってもどうすることも出来ないので、買うのは我慢してじっくり見ていますと、お店の人が話しかけてきてくれたのですよ。

 

話に寄れば、なんでも、250くらいの排気量のバイクはそのエンジンの強さや取り回しの良さにおいて、大型バイクには無い魅力があるのだそうです。色々なバイクを乗ってきた最後に行き着くのは、ひょっとして250ccかもしれないとおっしゃってました。

 

確かに、50年以上前の250ですから、その馬力もそこまで大きくはないでしょう。今の中型バイクとはまた違ったフィーリングがあって、乗りこなすのは大変でしょう。その反面、バイクそのものが軽く出来ていて、小振りなので、独特の乗り味でしょう。わたしは、その話を聞いて、大型バイクに乗ってみたいと思いました。大型に乗った経験が無ければ、バイクの大きさによるノリ味の違いは語れないな、と思いました。ビッグビートはワルキューレとか超大型バイクの愛好家が集まる店だから、おそらく店員さんも大型バイクに乗った経験もあるでしょう。その上で、語られる話には、わかる人にしかわからない深さがありました。

 

それで、AKBの高橋みなみの動画をYou Tubeで見ながら感じたのですが、AKBにも、玄人好みする魅力っていうのがきっとあるんでしょうね。スーパーモデルとか、ハリウッド女優とかには無い拙さ、身近な感じ、俺が応援しなければいけない、と思わせる何かが彼女達にはあります。それは250のバイクの話と、重なって、今日はちょっとそこんところを話してみたいと思いました。

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2012年

5月

10日

TriumphとGolden Virginia 英国車への憧れ

先日、ハーレーのソフテイルが欲しいとブログに書いたけれど、実は英国車も乗ってみたいのです。どちらかというと、トライアンフの方が街乗りする分には便利なんじゃないかと思っているのです。

 

トライアンフ、なんて美しいバイクを作っているのでしょうか。トライアンフの完成されたデザイン、エロティックに輝くエンジン周りのメッキパーツ、無骨なシート。英国車ってなんでこんなに洗練されているのでしょう。それだけ英国のバイクメーカーのバイクへの探求度合いが深いということなのでしょう。ああ、トライアンフに乗りたい。その為にはまず大型免許を取らねば。

 

スティーブマックイーンへのオマージュのボンネビルのモデルがありますね。最近出たのでしょうけれど、あれ見てたらGolden Virginiaを思いだしました。

ご存知ですか、ゴールデンバージニア。日本でも比較的手に入りやすい手巻きタバコです。あのグリーンのパッケージのけれんみのないデザイン。パッケージを開けた時のちょっと梅干しににたタバコの葉の香り。火をつけて香るスムーズで甘い煙。あまり高いタバコではありませんが、世界中のタバコの中でもかなり洗練されたブレンドのタバコだと思います。あの洗練は英国車の洗練と共通するところがあります。

 

イギリスって行ったことも無いし、イギリス人の友人もいないので、詳しいことはわかりませんが、ダビドフやダンヒル等のクオリティーの高いタバコブランドも、アリエル、BSA、ノートン、Triumph等のバイクブランドも世界中の紳士淑女より愛され続けていることは確かです。

 

その中でも、トライアンフはちょっとやんちゃなブランドといえるのではないでしょうか。ロッカーズの連中がカフェの周りで乗り回していた改造トライアンフを思うとき、そこにノーブルなイメージとちょっとスノッブな香りを同時に感じるのは私だけでしょうか。Golden Virginiaをふかしたりしててちょっと労働者の香りも漂わせながら、革ジャンなんかも、ルイスレザーとか結構高いのに、あの連中は結構普通に着こなしてますよね。ホントはそこそこ金がある家庭の坊ちゃんなのかもしれませんが、乗ってるバイクはピカピカっていうわけでもなく、程よくくたびれてて、ああいう風にバイクとおつきあいできたら幸せでしょうね。

 

ハーレーが地平線を超えて何処までも遠くへ私たちを誘うのに対し、トライアンフはちょっと町中で乗り回したいイメージです。実際トライアンフに乗ったことが無いので、はっきりとしたことは言えませんが。

 

銀座の中央通で、たまにVintageのトライアンフのサンダーバードを見かけますが、うらやましいですね、ああいうの。バイクとの理想的なおつきあいだと思います。いつか金が貯まったらトライアンフに乗りたいと思います。早く大型免許とらないと。

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2012年

4月

14日

ガールフレンドが妊娠した。子どもは俺の子じゃない

と、こんなこと書くと、多方面から色々いわれるかもしれませんが、本当のことを書くと、大した話じゃありません。

 

前の仕事の先輩でよく一緒に飲みにいく女の子がいるのですが、その娘が子どもを身ごもったらしいのです。まあ、彼女は既婚者なのでどちらかというと喜ばしいニュースなのですが。これが、マイケルジャクソンの、ビリージーンのようなドラマチックな話だったらもう少し話題性もあるのですが、あたしの周りにはこんなニュースくらいしか無いのです。

 

とは言ったものの、身の回りで妊娠してる女の子って今まであんまりいなかったので、どんなもんなのか結構気になります。彼女はもともとあんまり付き合いの良い方じゃないのですが、妊娠してしばらくはそれにさらに磨きがかかって、連絡も2ヶ月程途切れておりました。

 

そんな彼女に2ヶ月ぶりに連絡したら、2通程メールが返ってきました。

どうやら、バッサリ切られたわけでは無かったようです。彼女といると女の子っていうのはなにを考えてるのかちっともわからないと思うのですが、きゅうに2ヶ月も連絡が途絶えて、久しぶりに連絡が来たかと思うと「あとひと月くらいしたら、きっとまた会えるくらい体調も回復するかもしれないので、一ヶ月後くらいに連絡くれ」とのメールの返事がありました。

 

どうやら、妊娠っていうのは結構体調管理とか、難しくなるみたいで、気分の浮き沈みも激しくなるみたいです。僕は女じゃないからよくわからないけど、やっぱり子ども出来るって人生の一大事だから大変よね。僕も嫁さんが妊娠したらそういうこと気をつけようと思います。

 

それで、今日はなにを書こうかと思ったかというと、体調管理の難しさです。

 

私は持病があって、2週間に一回医者に通っているのですが、医者に行って医者を前にすると、自分にはなんの問題も無いような気がするのです。2週間を振り返って、自分はなんの問題も無かった、どちらかというと元気だった。健康な人より健康だった。薬も忘れずに飲んだ。そう報告したくなるのです。

 

けれども、実際の毎日の生活の中では、気分がひどく落ち込んだり、ひどく疲れたり、薬を飲み忘れたりするのです。まあ、以前みたいに死にたくなったりはしませんが。それで、あさ辛くなって座り込んだりしているのですが、医者に行くとそういうことを全て忘れて、なんだか健康で幸せな人生をおくっているような気がするのです。

 

今日医者に行ってそのことをボーッと考えながら、「病は気から」ということばを思いだしておりました。それは、病気は気持ちの持ちようで発症するという意味ではなくて、病気になるとまず気分が落ち込んだり不安定になる、という意味で「病は気から」なんだな、とふと思ったのです。

 

僕の茶飲み友達の彼女が妊娠して急に2ヶ月も連絡がとれなくなったのも、そういう体調の変化による心境の変化からだったのかもしれません。まあ、とりあえずそういうことだったのではないかと思って、自分を納得させるようにします。僕の周りは全然女っけなくて、数少ない女の子の友達に捨てられそうになったと思うとショックですから。

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2012年

4月

03日

雨の午後、独りエディー・コンドンを

ねえさんはそれをオッサンくさいと言っていたけれど、僕はハーレーのソフテイル、その中でもファットボーイが好きだ。いつか大型バイクに乗れるようになったらよくメンテナンスされた中古のソフテイルにウインドシールドをつけて乗りたいと思う。ほんとにそう思う。その時、ねえさんと僕がまだ接点を持っているかどうかはわからないけれど、そんな僕のソフテイルをみて「しょうがないわね」っと笑って許して欲しい。オヤジくさくなった私を。

 

そんなことを考えながら「空気さなぎ」、いや『1Q84』をさっきまで読んでた。だから、ちょっと村上春樹にかぶれたようなキザなことを書いてみたくなった。

 

今日は随分雨が降ったみたいだ。たぶん、あの震災の後遺症だと思うけれど、私の会社は自然の猛威にナーバスになっている。今日も12時過ぎには帰宅し、自宅勤務をするように指示が出た。正確には指示が出たというよりも、自発的にみんな帰宅した。

帰宅してもやる仕事がたんとあるのなら自宅勤務も出来るだろうけれど、あいにく私の手元に自宅で作業できるようなことはあまり無かった。だから、ちょっとだけ自宅で作業をして、それで、パソコンの前で本を読んでいた。

 

つい先日村上春樹の『1Q84』が文庫化されたのでそれを読んでたんだけれど、なんだかこのお手軽な文学気分にちょっと気恥ずかしさを感じながらも、そこそこのめり込んでしまった。のめり込んで、続編が読みたくなってBook 2のハードカバーを買って読んだ。写真集以外でハードカバーの本を買ったのはいつぶりだろうかと考えると、おそらく数年ぶりではないかと思う。いや、そんなことも無いか。

 

それで、まあ村上春樹を読んでる分には特に困ったことはないんだけれど、30を過ぎた健康な男が仕事もしないで、平日の午後家で本を読んでるだけでは、果たすべき責任を果たしていないような気がした。その責任問題の云々を考えだしたら私の人生とってもお粗末なんだけれども、少なくとも毎日朝会社に行って、夜まで働いていたらそういうことを考えないですむ。

 

それで、ちょっと後ろめたさを感じながら4時頃になって、ちょっと音楽でも聞いてみようかと思い、エディーコンドンの『Bixieland』をかけた。最近新調したCDプレーヤーはすこぶる調子がいい。アマゾンで1万5千円弱だったけれど、充分その役目は果たしている。前まで使っていたCDプレーヤーが壊れてからもう一年以上DVDプレーヤーでCDを聴いていたので、この安物のプレーヤーでも驚くほどCDの臨場感が出るようになった。うれしい。

 

それで、外は豪雨の中、寝室で寝転び本を読みながらディキシーランドジャズに耳を傾けた。こういう音楽は、ちょっと気になって立ち寄った喫茶店とか、ジャズバーとかにいかない限りは耳にしない類いの音楽ではあるけれど、我が家には何故かこのCDが在った。以前、ジャズギターにハマった時買ったのだけれど、あんまりギターの参考にならなかったからそのまま忘れ去られていたのだ。

 

そもそも、私はディキシーにはあんまり詳しくないんだけれど、モダンジャズもあまり好きではない。ジャズはシンプルでオールドファッションの方が好みである。だから、エディーコンドンの音楽そのものはとっても素敵で味わい深いと思う。好きじゃない人にとってはなんだかおめでたいジャズの演奏だとしか思わないかもしれないけれど、エディーコンドンのバンドは、演奏のクオリティーが高いのはもちろんのこと、節度をわきまえているところが素晴らしい。名人の集まりんなんだけれど、只の名人芸合戦になっていない。音楽として収まりがいいように、演奏に節度があり、余裕がある。その余裕が、こういう手持ち無沙汰な夕方にちょうど良くマッチする。

 

私の音響機材はそれほど高価なものではないけれど、一般家庭の平均的な音響機材よりは良い音のする機材だと思う。こういう音響機材を持っていて良かったとつくづく感じた。今日、こうして手持ち無沙汰な午後にエディーコンドンを聴くために私のステレオセットはあるのかもしれない。

 

話は変わるけれど、今欲しい本がある。値段は3000円程なので、買おうと思って買えなくはないけれど、はたして買ったところでその本を開くことがあるのかと考えると、ちょっとわからない。その本とはイラストレーターとか漫画とかを書く人向きの少女のヌードポーズ集なんだけれど、絵を描かない私にはまったく必要がない。けれども、少女のヌード(モデルさんは多分大人なんだけど)をこんなに沢山開けっぴろげに掲載している本は今後出ないかもしれない。それにこの本自体、本当に絵を描くためのポーズ集として出版されているかどうかも疑わしい。おそらく私と同じように少女のヌードに萌え〜っていう人たち向けのほんなんだろうけれど、それでも構わない。ヌードの写真集の中でも一つの完成された形として、今後マイルストーンになるような出版物だと思う。丁度広辞苑とか、そういった類いの出版物のような存在といえば良いのでしょうか。

 

とにかく、持っている人が居たら感想を聞かせて下さい。僕は今までに2回程立ち読みをしましたが、立ち読みではなく自宅でまじまじとみたいとおもうのです。

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2012年

3月

27日

国破れて山河あり.春はいつ訪れるのか

今日昼休みに写真弘社のギャラリーで杵島隆の写真を見た。植田正治の影響なのだろうか、それともその時代のはやりなのか、マンレイのような即物性とシュルレアリスティックな写真だと思った。何となくその時代性を感じさせる要素が強くてなかなか写真そのものに集中しずらい展示であったけれど、植田正治さんの写真に比べるとちょっと親しみやすく、悪くいえば田舎くさい写真だった。

 

もう、ずーっと写真からはなれてしまったので,以前のように写真を鑑賞する機会は減ってしまったけれど、たまに見るのは良い。これからも機会を見つけて見に行こうと思う。

 

今日は大学の話を少々。

青山テルマさんっていう歌手が5年半で大学を卒業したとのニュースを読んだ。お仕事をしながら大学を卒業されて、エラいもんだと思った。

 

実は、かく言う私も大学を卒業するのに5年半かかってしまったクチである。私の場合は別にお仕事をしていたわけでなく、専業学生であった。それでも、5年半もかかってしまったのだから、何とも情けない。けれども、両親や先生のおかげで、なんとか大学を卒業できた。今でも、時々まだ大学を卒業できていない夢を見る。秋になって大学が始まるのだけれど、何日も大学を休んでしまう夢だ。

 

私の場合、大学が嫌で嫌でたまらなかった。友達はどんどん卒業していくし、憧れの女の子達は当たり前のように進級していくのに、僕だけ何年もずるずると留年してしまう。それとともに大学から足が遠のいていく。ますます単位が取れなくなる。大学3年生の年にはたったの4単位しかとれなかった。ほとんど学校に行かなかった。夜眠れず、明け方まで起きていて、8時半頃に眠たくなって寝る。起きたら夕方。居酒屋に行って夕ご飯を食べる。部屋に戻る。そのまま眠れずに明け方まで起きている。この繰り返しで毎日が過ぎていく。それで、気がついたらテストの季節になっているのにまだ履修登録をしていない。

 

こんなどうしようもない生活が約4年半続いた。だから、青春時代の約4年半は昼夜逆転して、何も出来ないまま過ごしてしまった。

 

青山テルマさんみたいな方と私を同列に語ってはいけないと思うけれど、青山さんもきっと大学に行けなかったりして、時間だけが過ぎていって、私と同じように焦燥感だけを胸に過ごした日々も在っただろう。そんな中、大学をやめずに卒業されたのはとってもエラいと思う。

 

大学時代なんて、要領よく出来る奴らはトントン拍子に進級して、良いとこに就職が決まり、4年で卒業していくもんだけれど、僕みたいにドロップアウトしかけているものにとっては、苦痛以外の何ものでもない。それで、そのままドロップアウトしちゃう人もいれば、僕みたいに運良く卒業できるやつもいる。

 

留年したり落第したりしているうちに、どんどん大学がいやになっていく、それで自然と大学から足が遠のく、生活習慣が乱れる。そのまま、大学以外でも何もしないまま時が流れていく。自分が嫌いになる。

 

今だってそんなに楽しい毎日じゃないけれど、大学に居た頃に比べるとよっぽど充実している。もう二度とあの頃には戻りたくない。もう二度と大学生にはなりたくない。

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2012年

3月

25日

オートバイよ永遠に。

今日は妻と東京モーターサイクルショーに行ってきた。

 

バイクっていうものは、何故これほど私の心を引きつけるのかはわからないが、とにかくバイクを沢山見れて楽しかった。

 

東京モーターショーの凄さに比べて、モーターサイクルショーはいたって地味だった。場所こそ東京ビッグサイトで行われているとはいえ、来場者はどのくらいだろう?トーキョーモーターショーの10分の1くらいか?とにかく、それほど大規模ではない。コンパニオンのお姉さんもモーターショーに比べるとずっと少ない。

 

とはいえ、世界中のバイクが一堂に会してそれをみたり股がったりできるんだから、バイク好きにはたまらない。

私はミーハーなとこがあって、ついトライアンフとハーレーのブースをじっくり見て、股がってみたけれど、やっぱりハーレー、トライアンフは作りがでかい。ボンネビルのギアシフトなんてつま先が届かない。こんなに足がでかいやつが世の中にどれくらい居るんだろう?ハーレーなんかは車格もでかい。いかにも長距離をぶっ飛ばせそうで、だだっ広いアメリカとかオーストラリアとかでバイク乗るんだったら絶対ハーレーが良いだろう。

 

ああ、いつかこんなバイクに乗れる日が来ると良いなと思いながら、憧れのハーレー、トライアンフをまじまじと見た。

 

イタ車のバイクに惹かれる気持ちもわかるけれど、なんだかああいうバイクは乗りこなせなそうで僕はあんまり憧れない。それでも、イタ車もやっぱりカッコいい。一応まじまじと見てきて、ドカティーに股がったりしてきた。

 

東京モーターサイクルショーでちょっと気になったのは、松葉杖をついた人や、車いすに乗っている方々が沢山居たことだ。あれってやっぱりバイク乗ったせいでああいうことになったのかな?そう思うと何となくバイクに乗るのが怖くなった。バイク乗っているといつかはあんな風になってしまうんじゃないかって思うとちょっと恐ろしい。

 

今回のモーターサイクルショーで案外良かったのがロイヤルエンフィールド、インドで作っていると聞いてたけど、みた感じそんなに作りは悪くない。さすが英国の名門ブランド、風格が漂っている。最近は日本製パーツを使っているからあんまり壊れなくなってきているんだそうです。これだったら中型免許でも乗れる。一気に親近感が湧いた。

 

よし、明日からも仕事頑張っていつかはトライアンフに跨がれるように頑張るぞ!!!!

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2012年

1月

04日

遅ればせながら新年のご挨拶を

遅ればせながら、あけましておめでとうございます。

 

昨年は震災が在ったりしたので、沢山の方々が犠牲になり、大変な年でしたが、今年はああいう災害の無い、平穏な一年になることを祈っております。景気がいくら悪くっても、災害や事件で人が犠牲にならない方が良いね。その為に税金が高くなっても仕方ない。

 

それで、今年も、このブログなるべくサボんないようにして細々と続けていければ良いと思っております。

 

また、今年は、できれば大型二輪免許を取得したいと思っております。

どうせバイクに乗るなら、大型のバイクにも乗ってみたいのが人情ってもんです。400のバイクは乗り馴れてきたけれど、やっぱり長距離走ったりするには、もうちょっとパワーが欲しい。だから、大型免許を取って、大型のバイクに股がりたい。

 

ハーレーやトライアンフとか、色々気になるバイクはありますが、国産のバイクも捨てたもんじゃない。ホンダのナナハンとか、大きめのクルーザーとか乗ってみたい気もする。でも、やっぱりクルーザー乗るならハーレーかね。ああいうバイクもちょっと乗ってみたい気はするね。

 

まあ、まずは免許の取得が先ですね。免許持ってたって別に今乗っているバイクに乗っても良いわけだし、スティードは結構気に入っているし乗りやすいから、長く乗り続けたいしね。

 

今年は、写真も頑張りたい。去年全然写真に時間をさけなくて、殆ど暗室作業もできなかったから、今年は、デジタルでも良いから沢山写真を撮りたい。それで、少しポートフォリオをまとめれる位まではやってみたい。

 

まあ、いろいろやりたいことはあるけど、事故と病気だけは気をつけて関わりあわないような一年にしたいです。

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2011年

12月

20日

狭い玄関にTony Lamaのブーツ

昨日のブログでも書いたけれど、センチメンタルになってテンガロンハットとウエスタンブーツを買いました。テンガロンハットのつばが風に吹かれて、グッとこの感傷を演出するのです。

 

それで、ウエスタンブーツはなんていうか、舞台装置ですな。心の演出にこういう小物は必須なのですよ。この冷たく乾いた傷跡の記念碑として、テンガロンハットとウエスタンブーツを手に入れたのです。

 

ウエスタンブーツ、前々から気にはなっていたのですが、何て言ったって値段が高い。値段が高いから、比較的安価な靴を作業用、バイク用の靴として使っていたのですが、結構ぼろぼろになってしまい、もっと大切に履けば良かったと深く後悔していたところです。安価な靴とはいえ、赤と黒のコンビのウィングチップなので、安もんではないんですよ。でも、出張の時とか倉庫作業の時もこれ履いていたから結構ぼろぼろになってしまった。今週末磨いておこう。

 

Tony Lamaっていうブランドご存知ですか?

トニーラマってきいて「おっ」と思うのはウエスタンものが好きな方でしょう。ウエスタンものを扱っている店に行くと大体ステットソン、ジャスティン、トニーラマなんていう普段あんまり聞かないブランドの品物が置いてありますな。

 

トニー・ラマはそんなかでもそこそこ高いブランドなんですよ。だからあんまり縁がなかった。でも、なんていうかトニー・ラマのブーツってウェスタンの定番なんですよ。だから、いつかは一足と思ってたのですがこのほど安売りしていたので、一足買いました。

 

でも、このブーツって狭い玄関に他の靴と一緒にごたごた並べるような類いの靴じゃないんですよ。学校の上靴みたいに玄関にごった返しているような風景が似合う靴じゃないのです。

 

ベッドのサイドに脱ぎ捨てられている、そういう風景に馴染む靴なんです。大体映画に出てくるようなカウボーイは家ん中でも靴履いてますから。靴はいてないと、いつ何時外に出ないといけなくなるか、わかんないから。だから靴を脱ぐのは寝る時だけ。

 

だからウエスタンブーツは玄関には似合わない。

 

そんなトニーラマのブーツが、仕事に行く靴なんかと一緒に狭い玄関にたたずんでいる。こういう風景が、豊かではありながら満たされない日本の労働者階級の家庭を象徴しているのではないでしょうか。

 

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2011年

12月

19日

Blowin' the blues away! 憂鬱と無気力で満たされて

私はこの季節が苦手なのかもしれない。昨年の12月は鬱の症状が悪くなって一ヶ月近く会社を休んでしまった。

 

今日も、気力が出なくて朝会社を遅刻してしまった。先週一週間の出張の疲れと、その前の週末の憂鬱な結婚パーティーが重なり、心がやせ細ってしまったのかもしれない。

 

その割に、今週末は気分が高揚して帽子とブーツを購入した。今日のデプレッションはその反動かもしれない。けれども、いつまでも調子悪いとは言ってられないから、今日はゆっくり休んで、明日からまた頑張って仕事をしないといけないな。

 

今日は、個人的な振り返りと、その所感について。

先週末、12月の11日、ついにその日がおとずれてしまった。ピンキーの結婚パーティーである。もう、2ヶ月程前からアナウンスはされていたことだし、心の準備もしていたつもりだったのだけれども、やっぱりその時がやってきてしまうとそれはそれでショックだ。

 

結婚とはおめでたいことだ。ことそれが私の大好きなピンキーの結婚なんだからなおさら嬉しいことであるべきだ。そうなんだけれども、なぜかちょっと寂しい。大きな歓びもこみ上げてきてはくれない。

 

ああ、僕にとって彼女は僕の二十歳の頃の楽しくて、悲しくて、悔しかった日々の象徴だったんだ、ということが再確認できて、そのことを思うだけで気持ちが胸につかえてしまう。そのどうして良いかわからない気持ちを飲み込むことも、取り出して眺めることも出来ない。きっと、僕の甘くせつない記憶が、この結婚パーティーをもって終焉を迎える。いままでずっと先延ばしにしようとしてきた終焉を。

 

そのことを受け入れられないまま、結婚パーティーは終わり、夕暮れ時になった。パーティーの疲れをそれぞれ抱えながらパーティーに参列した同級生達とカフェに入る。彼女らも僕の大切な記憶の証人なのだ。その彼女達もそれぞれ結婚して、子どもがうまれたりしているらしい。やっぱり時間は確実に流れていたのである。

 

近況を報告しあう。転勤で、東京住まいになったこと、夫の転勤で別居生活をおくっていること、マイホームを購入すること。それらの全ての話題が、時間の経過を裏付けてくれる。そして、ピンキーの結婚。

 

そのすべてを飲み込みきれないまま、今日も一日が過ぎていく。思えば二十歳のころも、二十歳の自分の生活の変化や人間関係の複雑さを飲み込めないまま過ごした。10年時間が経過した今、振り返って、その10年の間のいつの間にかそれを飲み込んで記憶に消化したことを思う。

 

ピンキーの結婚は10年後にも飲み込めてないかもしれないし、案外近日中に飲み込めてしまうかもしれない。

 

センチメンタルな気持ちを演出する為に、一昨日テンガロンハットとブーツを購入した。カウボーイには傷心がよく似合う。傷心をやり過ごす為にしばらくカウボーイを気取っていたい。

 

そんなことを思っていたら明日は妻の誕生日。

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2011年

11月

30日

こういうバイク雑誌在ったら良いのにな

今日は会社帰り本屋に寄った。

月末だからバイク雑誌が新しく出てるだろうと思って寄ったけれど、あんまりぱっとしない感じだった。

 

バイク雑誌って今の時代読者を確保するのでけっこうたいへんなんだろうけど、それでも面白そうなのがあんまりない。いや、けっこうその割に種類はあって、なかなかヴァリエーションも豊富なんだけれど、買って毎月読もうって思う雑誌が無い。

 

これはギター雑誌もそうなんだけれど、いっつも同じような特集ばかりやっているようで、ぜんぜん読み応えが無い。まあ、ギター雑誌はまだ読みごたえがある記事が載ってたりしたことも在ったけれど、それでも、買って半日も読めば飽きてしまう。記事が薄っぺらいのだ。

バイク雑誌はなかなかコアで深ーい話をしているものもあるようだけれど、カスタムにあんまり興味のない私にはいまいち読み応えが無い。ローラー(でしたっけ?)とか、カスタムに興味ない私にも案外面白いような記事が在ってちょっと買おうかなって思うんだけれど、じっくり読みたくなるような記事が無い。

 

バイク雑誌の記事書いている人って誰に向けて書いてるのかいまいちわからなくなってしまってるのではないだろうか。旧車のレストアとか、知られざる昔のブランドとかの話を取り扱っているのはモーターサイクルクラシックスくらいだけれど、あれも何ヶ月に一回しか出ないから、何ヶ月も退屈してしまう。

 

それと、面白くない原因は、どの雑誌もハーレーのことばっかり取り扱っているからだろう。

 

確かにハーレーは私にとっても憧れで、いつかはボンネビルかハーレーに乗りたいとは思っているけれど、大人向けのバイク雑誌のほぼすべてがハーレー特集ばっかりなのには辟易する。ハーレーってそんなに良いのかどうかは、乗ったこと無いからわからないけれど、すぐに手が出ない私にとってはハーレーの特集あんなにされてもつまらない。

 

だいたいハーレーのオーナーだって、もう他のハーレー見たってどうとも思わないよ。

 

せっかくバイクっていう面白いネタがあるのに、バイク雑誌はその一部しかつついていない。もっと英国車の歴史とか、メカニズムとか、エロティシズムとか、そういうのをこってりと扱ってくれる雑誌が欲しい。自動車雑誌でいうと「エンジン」みたいなバイク雑誌が出てくれると良いのですが、なんか無いですかね?

 

在ったら教えて下さい。

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2011年

11月

28日

鉄の弾丸に股がり制御するという歓び

今日仕事終わって家路についているとき、昭和通りを渡るのですが、その昭和通りをスクーターがビュンビュン飛ばすんですよ。

 

スクーターっていうと最近は排気量の大きなビッグスクーターってのがありますけれど、あれも飛ばしてるけど、感心するのは原チャリね。あの50ccの小さなエンジンであんなに良くとばすよな。だいたい50ccのエンジンのポテンシャルの凄さも驚くけど、あの小さなスクーターに股がって60キロ以上出せる人の根性が凄いね。自転車で凄くスピード出している人もいるけれど、さすがに車と同じ車道を、車と同じ条件では走ってないもんな。

 

スクーターは凄いよ。あの根性が凄いよ。「俺たちに明日は無い」ってな感じの刹那主義。

それで、まあそんな方々と比べると私なんて箸にも棒にもかからないくらい控えめな攻め方なのですが、私もバイク乗りのハシクレです。

 

それでまあ、400ccのバイクに股がってすっ飛ばしてるのでありますが、あのバイクに股がる快感ってどこから来るのですかね。まったく人の頭っていうのは単純に作られてるというべきか、複雑に出来ているというべきか。

 

バイクっていうのは結構重い鉄の塊なのです。だいたい250キロ、大型だと300キロオーバーです。エンジンをかけないで手で押したり引いたりするときにはあんなに重たくてぐったりしてる代物なのですが、いったんエンジンをかけてアクセルをひねると弾丸の如く突っ走るし、ハンドルをひねればそれに沿ってくるっとまわってくれる。

 

あの鉄の塊に股がり、それを制御しているっていう感覚は何なんでしょうかね。なんだかわかりませんが気持ちいいです。バカと煙は高いところ、とか言いますけれどやっぱり鉄の塊を制御しながら高速で走るということの快感は、どこか動物の本能を刺激するところがありますね。

 

私の乗っているスティードっていうバイクは400ccのエンジンが乗っかっているのですが、車体は400の割には比較的重い方なんですよ。だからスーパースポーツのバイクのようにキビキビ走るわけじゃないのですが、その分何と言うか転がす快感と言いますか。ゴロッと動かしている感覚があるのです。400ccエンジンの力の限りを絞ってこの重たい車体を転がしているんだという感覚、そんな一生懸命頑張っている感覚がバイクから伝わるわけですよ。

 

250のバイクとか乗っているとこの感覚がもっと生々しいのでしょうかね?大型に乗るともっと楽なのかな?400以外のバイクに乗ったこと無い私にはよくわかりませんが、400ccのエンジンが頑張っている感覚を感じながら走るのはなかなか楽しいものです。

 

バイクに乗っている間はひと時も気が抜けません。以前、ミラーを交換したときに、バイクを走らせながらミラーを調節しようとしたことがありましたが、一瞬気を抜いた瞬間に車にぶつかりそうになってひやっとなりました。バイクに乗っている時は運転に集中するべし。

 

それで、あの鉄の塊に乗る為には、こちらも充分武装しなくてはなりません。その為に革ジャンを新調しました。この革ジャンとバイクとともに、事故をおこすことなく時を重ねていきたいもんです。

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2011年

11月

22日

Chet Bakerってどんな革ジャン着てたのかな

最近革ジャンを買った。それもカドヤで買った。結構清水の気分で買った。

 

革ジャンの値段としてはそれほど高くはないのかもしれないけれど、いまの私の収入から考えると結構な出費だった。後日写真付きでブログで紹介するけれど、とっても満足です。

 

ああ、あたしゃー病気かもしれない。物欲の塊だ。常にお金を垂れ流しながら物質文明の波間を彷徨っている難破したオイルタンカーだ。

実は既に革ジャンは持っていた。それも去年購入したばかりの一着だ。

 

革ジャンっておそらくみんな2着も買わないでしょう。一着あれば充分だ。それでも、私は2着目の革ジャンを買った。一着目とそれほど見た目は変らない一着を買った。ただ単に「良い革ジャン」が欲しいという一心で。

 

ああ、私は愚か者だ、物質文明の波間をお金を垂れ流しながら彷徨う難破したオイルタンカーだ。

 

けれども新しい革ジャンにはとても満足している。この革ジャンを何年も着てじっくり味わいたいと思っている。革ジャンっていうのはこうじゃなくちゃいけないというところをしっかりおさえた一着だ。まさに本物の「革」の「ジャン」である。

 

ダブルのライダースというのに私は何故か強く惹かれる。革ジャンに革パンでキャスケット、これほど完璧なユニフォームはない。制服を脱ぎ捨て自由に立ち向かうアウトロー達のユニフォームだ。非制服である為の制服。話がわけわからない方に行ってしまった。

 

この革ジャンを着て私はバイクに股がる。バイクに股がるという行為の為に作られたこの官能的で、マッチョな衣装を着る。その行為の奴隷でありたい。レザージャケットが私の身体をバイクに縛り付け、鞭で威嚇する女王様からの辱めを受ける。その為のユニフォームだ。

 

今夜は話がわけわからない方向へ行ってしまうので、この辺で失礼します。

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2011年

11月

21日

アメリカの暴走族もチクチク針仕事してたのでしょうか

バイクは総合芸術だ。

まず、バイクのフォルムそのものが美しい。フルカウルのレーシングマシン、ダートレーサー、チョッパー、カフェレーサー、それぞれに魅力が在り美を追求している。正確には、機能の追求と美の追求を同時に行っている。

 

そして、バイクが象徴する文化も美への追求である。バイクに股がる姿、自由を追求する姿、それぞれに醜さも含有しながら美しく輝いている。

 

バイクが総合芸術であることは、バイクに乗るものが着るものにも現れている。

多くのバイク好きの方々もそうかも知れませんが、私はイージーライダーを見て、バイクが好きになりました。あの映画を何十回と見ているうちに、どうしてもバイクに乗りたくなりました。

 

そして、Danny LyonのBikeridersという写真集を見て、その思いは揺るがぬものとなりました。

 

そんなこともあり、私にとってのバイク乗りのお手本はキャプテンアメリカであり、Bikeridersに登場する多くの'bikeriders'達でした。その中でも、昔のアメリカの暴走族の着ている服はなかなか興味深く、お手本になります。

 

60年代のアメリカのバイク乗りの若者は、イギリスのロッカーズの着ている服装ともちょっと違った独自のファッションセンスを持っています。革ジャンはそんなに大きくは変わらないのですが、それでも若干違います。

 

アメリカの暴走族の象徴的な服装といえば、革ジャンの上から羽織っているデニムのべストではないでしょうか。背中に大きくチームのロゴマークが入っているデニムのベスト。ヘルズエンジェルスもアウトローズもそれぞれのユニフォームであるデニムのベストを羽織っています。

 

私はとくに暴走族には属してはいないのですが、あのデニムのベストっていうのを着てみたくて着てみたくて、ずっと探してきました。それで、最近袖をカットしたジージャンを手に入れたので、それっぽいべストを自作してみました。アメリカの暴走族はこのデニムのベストにスタッズを打ったり、チェーンをつけたりいてるのですが、あそこまで厳つくしてしまうと、なんだか気後れしてしまいそうなので、おとなしくバイク関連のワッペンを縫い付けてみました(だいぶ方向性が異なってきましたが)。

 

それで、とりあえず、できたのがこの写真のべストです。アメリカの暴走族の路線からは離れましたが、そこそこオリジナリティーがあるものができました。

 

しかし、これ作っているときに思ったのですが、アメリカの暴走族やイギリスのロッカーズの方々も家でチクチク針仕事してたんでしょうかね。ちょっとそんな姿をのぞいてみたいもんですね。

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2011年

11月

10日

かわいいエール君。

数日前にバイクの話をして、今日は突然ぬいぐるみの話をするって言うのも凄いギャップだけれど、うちにいるぬいぐるみがあまりにもかわいいので、ブログで紹介します。

 

エール君という名前がついているこのクジラのぬいぐるみは、もともと明治製菓という製薬会社の薬のノベルティーなので、お店に行っても売ってません。欲しい人は近所の小児科に行って譲ってもらうしか無いでしょう。

 

私もその筋の人からこのぬいぐるみをもらったのですが、このかわいらしいことといったら。

エール君ていう名前も私が勝手につけたんじゃなくて、その薬屋がつけた立派な名前なのです。エール君にはもう片方の相棒がいるらしいんですが、私は見たこと在りません。

 

エール君のこのつぶらな瞳を見ると何となく日頃の行いを反省したいような気持ちになります。津々浦々の小児科で苦しんでいたりする子供の心の支えになるべく、全国のエール君に頑張って欲しいです。

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2011年

11月

08日

これからは先のことを考えてモノを買える人間になりたい。

私の悪いところは先のことを考えて長い目で見て買い物ができないところ。簡単に言えば安物買いの銭失いとでも言いましょうか。それがそんなに安物買いでもない。中途半端に高もの買いの銭失いなところでしょうか。

 

例えばCD。私は廉価版のCDが何故か好きなんです。大した値段は変らないんだけれど、ついつい安くなっているCDに目をとられてしまう。でも、悲しいかな廉価版のCDで何度も聞くに能えするCDは少ない。良いレコードは廉価にしなくてもよく売れる。だから、ある聴いたことないアーティストのアルバムをとりあえず一枚買おうかって時には、とりあえず一番高いやつを買えば良い。廉価版になっているやつは大したこと無いCDです。

 

最近はジャズの大名盤が廉価版になって出ていることもあるので必ずしもそうでないのだけれど、

でも、廉価版で名盤ってやっぱりそんなに多くない。やっぱり何でも高いやつ買っておきゃ間違いない。廉価版の名盤なんて放っといても高い値段でいつでも手に入ります。

 

それをわかってるんだけど、なかなか思うようにはいかない。

 

ギターはその点、高いやつ買っときゃ間違いないかというと、やっぱり間違いない。私も、高校の頃からギブソンのギター、何でも良いから一台持っていたら、こんなにギターに深入りすることは無かっただろう。いままでにゆうに20台位買ってきたと思う。我ながら結構アホです。まあ、高いギブソン最初っから持ってたら今ほどギターに興味なかったかもしれないけれど。

 

ギターは、安けりゃ安いでいいものもあるので、何とも言えませんねえ。

 

それで今回は革ジャンです。約一年前に一万五千円位で上野でライダースを買った。それからほぼ毎週末着てきたけれど、なかなか身体に馴染んでこない。そんなときにとってもカッコいい革ジャンを着た友人と会ったので、やっぱり一着良い革ジャンが欲しくなってしまった。良い革ジャンは,見た目も違う。革が適度に厚くて、それでいて身体に馴染んでいて。

 

僕もVansonとかSchottとかの革ジャンを着てみたい。そんな中でちょっと気になる革ジャンがありました。バイクウェアのメーカー、デグナーから出ている革ジャン。なんと肩とか肘とかにパットを入れたりできるらしいのです。ちょっと気になりますね。

 

でも、やっぱりそれ買ったら、今度はショットとかのやつがかっこ良く思えるかもしれないから、やっぱりおとなしくショットの革ジャンを買うのが良いのか。そんなことを考えて夜もろくに眠れません。

 

第一革ジャンなんて2着も持っててもしょうがない。だから、もう一着欲しいなんていうのはちょっとおかしいんだけれど、スーツも同じようなの何着も持っているから、バイクウェアとしてもう一着くらい在っても良いような気もします。

 

革ジャン2着持ちしている方、おられましたらコメントください。

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2011年

11月

07日

遠い人からの便りは艶やかで。

Yamaha!
Yamaha!

まったく美しい。すこしくすんだ黄色のカウルに包まれるヤマハのレーシングマシン。こんなに美しいものがバイクの正体なのか、それともこれはバイクの仮の姿なのか。

 

私はあんまりバイクに詳しくないし、レーシングマシンには殆ど興味がないんだけど、本物を目にするとその存在感の凄さに圧倒される。その反面、この黄色の仮面をかぶったバイクは、ぽつんと只そこにある。まるでこの場所が自分にふさわしくないかのような、ちょっと「浮いている」かのようにたたずんでいる。この何とも言えない存在感はなんと表現すれば良いのだろうか。

 

実物は上野で「光輪ヴィンテージバイクコレクション」として今月20日まで展示されてます。バイクの好きな方、古いものが好きな方、是非見に行ってみて下さい。まとまって見ることができるのはこれが最後とのことですから。

 

でも、今日の本題はバイクじゃないんです。一人の女の子についてです。

昨晩、私の携帯に懐かしい女の子から一通のメールが届きました。その娘から連絡が来るなんて約2年ぶりです。もう連絡はこないかと思ってました。だから嬉しかった。

 

彼女は私が学生の頃のサークルの後輩だったんだけれど、いろんな事情があってずっと連絡を取れないでいました。まあ、その理由もおそらく僕がしつこくメールや電話をするからあきれて連絡をくれなくなっただけんでしょうけど。

 

彼女とは僕が社会人になってからの方がよく会うようになりました。私が、新卒で入った会社の仕事がつまらなくて、暇を持て余してぶらぶらしてた頃に、彼女は僕の茶飲み友達であり、僕にとってはちょっとガールフレンドみないな存在でした。

 

一時期は毎週のように一緒にお茶を飲みに行ったり、夜の銀座や六本木で遊んだりした頃もありました。彼女の名誉の為に一応ことわっておくけれど、彼女とはそれ以上の関係にはならなかったです。だから正確にはガールフレンドじゃないんだけれど、いろんな悩みを聞いてくれたし、結構甘えさせてもらったし、学生の頃の知り合いと会う時はいつも一緒に連れて歩いてました。僕はその娘のこと女の子として好きだったし、とっても魅力的だったんですよ。よく学生の頃の知り合いに「あんまり深入りしない方が良いんじゃないですか」とか余計な心配されたりしました。

 

でも、そんな日々もいつまでも続かなくて、私は病気して入院しちゃうし、彼女は上の学校に進学する為に勉強が忙しくなって、結局会えなくなってしまいました。楽しい日々っていうのはあんまり長続きしないものです。

 

まあ、そんなこともあって、私の方としては2年前に振られたようなもんだから、まあハートブレイクですわ。それに振られてからも、そのことに気づかずにしつこく連絡とろうとしてた手前、とっても格好悪かったのです。だから、もうおそらく連絡をくれることもないだろうし、連絡することも無いかもしれないと思ってたんですけれど、なんの気まぐれか昨日メールが来たのです。こういうことがあると、人生捨てたもんじゃないと感じますね。何故そんな風に感じるかは説明するのとても難しいですが。

 

きっと彼女はこのブログを読むことも無いとは思うけれど、もし読んでいてくれたら、格好悪かった僕のこと許してやってくれませんか。人間なかなか大人になれないのですよ。「去る者追わず」という風にはきれいにできないのですよ。貴女にふられてちょっと寂しかったし、悔しかったけれど、まあナントカ今日まで生きてきました。その間には別のガールフレンドに振られたり、可愛い女の子に見向きもされなかったり、悔しい思い、辛い思いを重ねて強い男になりました。体重も20キロ位増えてドッシリとした男になりました。

 

貴女が将来私にばったり会うことがあったら、「なんでこんな良い男振ったんだろう」って思うような良い男になりますから、覚悟してて下さい。

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2011年

11月

06日

貴方の知らない世界。ヴィンテージバイクの深い沼

今日は昼頃起きて、上野に行った。上野へ行ったのはバイクを見に行く為である。

 

バイクを見に行くと言っても、新しいバイクを買おうというのではない。バイクならもう持っているし、自分のバイクについてはとっても満足している。乗りやすいし、しばらく乗らないでほっておいても、乗ればすぐに調子良く走ってくれる。

 

スティードに乗っているのだけれど、400CCでアメリカンというのはよくも悪くもこのスティードが一つの完成形なのではないか。アメリカンはゆったり乗るものだけれど、400だから結構エンジンをふかさないといけない。車体も結構重いから、安定は良い。転ける気がしない。けれども、ゆったり乗るというのにはちょっとパワー不足かもしれない。

話がそれてしまった、それで、今日はバイクを見に行った。嫁さんと上野のバイク街に足をのばした。

 

往時は知らないけれど、このバイク街っていうのも随分寂れている。バイク街と呼べる程店の数も無いし、第一お客さんが少ない。全然誰もいない。こんなにバイクって時代に取り残されているのかと思うと寂しくなる。

 

近頃は高級バイクをよく目にするけれど、高級バイクに乗るような方と、大型スクーターを乗り回す兄ちゃん以外はバイクに興味が無くなってしまったのかもしれない。バイクって高級なモデルに乗らなくても楽しいものなのに。

 

また話がそれてしまった。今日見に行ったのは、光輪のヴィンテージバイクのコレクション。コレクションと言っても,このような形でまとまってみれるのはこれが最後になってしまう。なぜなら、今回の展示はオークションを兼ねていて、全てが売りに出されている。それも一律50万円から入札できる。どれも素晴らしいコンディションのヴィンテージバイクで、英車が多い。イギリスってこんなに沢山バイクメーカーがあったのかと感心してしまう。それぞれに個性があって、デザインの造り込みの良さと、完成し過ぎない未完の美しさが同居している。

 

主に20年代から30年代の英車が約20台。どれもミュージアムコンディションで、全てオリジナルなのではないかと思う。こういう古いバイクが、こんな状態で、しかもこんなに沢山一堂に会すことってまず無いのではないだろうか。

 

千円で写真集購入。写真集も写真がきれいでなかなか良い。

 

けれど、こんな宝物が一台50万円で手に入れられるなんて夢みたいだな。うちには置き場所が無いから買えないけれど、置き場所があったら買ってしまうだろうな。ガレージにバイクをレストアするスペースがあったら買ってしまうだろうな。

 

買うなら、どれにしよう?ノートンのカフェレーサーが一番かっこ良かったような気もするけれど、個人的に気に入ったのはVelocetteのMAC。見てるだけでため息が出る美しさ。英車の魅力って何だろう、きっとこの危ういバランス感と、完成度の高さの相反する要素が同居しているところだろうな。ヴェロセットは349CCエンジン。この排気量が控えめなところも嬉しいですね。奥ゆかしい。ノートンもカッコいいけれど、エンジンがバカでかくて、やっぱり現代のマシーンに近い。それに対してVelocetteはあくまでも自転車にエンジン積んだところからそれほど遠くに行かないところにいる。

 

将来、お金に余裕ができたら英車に乗りたいな。もしくはクラブマンとか英車っぽい国産車に乗るのも悪くないな。それ位ならすぐに実現しそうだけれど、やっぱり国産の英車みたいのに乗ると、本物の英車乗りたくなるだろうから、やっぱりじっくりスティードで腕を上げてから英国車に乗ろうかな。その時は、ヴィンテージバイクについても、もっと知識があるかも知れないな。

 

そんなことを思いながらなめ回すようにヴィンテージバイクを見てきました。11月20日までなので、気になった方は上野バイク街のBIG BEATまで急いでいってきて下さい。きっと満足すると思いますよ。

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2011年

10月

17日

自分の語彙の少なさに、自らの気持ちを表現できない

先週は一週間出張だったので、ブログをサボってしまった。

出張先でも更新しようと思えば更新できるのですが、なんせ肉体労働だったので夜にはヘトヘトになってしまい、本を読んで安静に過ごしました。

 

最近ブログをサボりすぎるせいか、グーグルに嫌われたようで、グーグル、ヤフーからの訪問の方がグッと減りました。アルゴリズムの変更ですかね?こういう現象が約4ヶ月サイクルで来ます。2ヶ月間少しずつアクセスが増えて、月間1,500アクセスくらいになったところで、ピタッとアクセスが無くなる。グーグル経由でみて頂ける方々が減る。

 

ブログの更新をサボっている罰かもしれませんので、これ以上アクセスについては言及しませんが。

 

今日は何の話しましょうか。最近気になるジャズについてでも話しますかね。

最近はあんまり無理しないように、休日遊び歩いたりするのもなるべく控えめにしています。医者からあんまり無理しないで休息をきっちり取るように薦められていることも影響して、土曜日はほぼ一日中寝ています。

 

それでも、まあ結構な頻度で呑みに出かけたりして、妻に心配をかけたりしております。これも改めないといけないことなんだろうけれど、楽しく、無理しない程度に、わけわからなくならない程度にお酒を飲む習慣をつけなければいけませんね。

 

お酒を飲まないで、休日どのように過ごすのが理想的か、考えているのですが、なかなか良い時間の過ごし方というものは思いつかないものです。

 

晴れてたらバイクに乗ってちょっと郊外までいく、なんていうのも良いでしょう。バイクにここ二週間程乗っていないので、乗れなくなっているんじゃないか心配です。来週末は乗りたいな。

 

じゃあ、天気悪かったらどうするか。これが問題ですが。まあ、CD聴いて本読んで過ごすなんていうのが理想的でしょう。何となく一日中家にいると損した気分になりますが、たまには家にいるのも良いものです。

 

それで、どんなCD聴くかって話に持って行こうと思ったのですが、これじゃあ本題から離れてしまう。けれどせっかくなのでちょっとだけ。

 

最近、よくモダンジャズのCDを聴きます。モダンジャズ、っていうとビバップ以降の音楽のことを呼ぶのでしょうけれど、レスターヤングとかコールマンホーキンズとかはバップ以前から大活躍しておりますが、随分モダンなセンスの持ち主で、バップ以降のジャズにぶち込んでも全然違和感がありません。素晴らしい方々で、50年代以降の録音でも素晴らしいレコードが沢山あります。

 

逆にバップ以降に出てきたミュージシャンでもトラディショナルな音使いのミュージシャンもいますね。例えばルビーブラフ。素晴らしいコルネット吹きです。モダンジャズみたいなのもできるのでしょうけれど、音使いはビバップ以前の音使いですね。あんまりオルタードスケールとか使わない。頑固で好感が持てます。

 

私は小難しいジャズがあんまり好きじゃないので、せいぜい60年代のソウルジャズ止まりですが。今まであまり聴かなかったレコードでも、カッコイイジャズって沢山あるのですね。最近また探し始めてます。

 

ジャズに興味がある時は、何となく内省的な時が多いような気がします。今の私はおそらく内省的といえるでしょう。学生の頃好きだった女の子から結婚披露パーティーのお誘いが届いたことだけが原因ではないとは思いますが。ちょっと前にいろんな人間関係がもつれて、それでなんだかみんな面倒になってしまった。こういう時は自分のうちでジャズを聴いて過ごすのが一番幸せだ。

 

この、何と表現していいのかわからない複雑に絡み合った内なる感情を少しずつジャズはほぐしていく。曲がってしまいそうな心の血の巡りを良くして、陽気な気持ちにさせてくれる。それがバラードであれなんであれ心を癒しながら、活性化させてくれる。こういう風にジャズが心をほぐしてくれているのに、私はそのほぐされた気持ちをどこにやればいいのかわからないまま毎日を過ごしている。

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2011年

9月

26日

ダンヒル銀座本店のノートンに痺れる

私は、何と言うかバイクが好きで。バイクって言うと結構いろんな種類があって、それぞれにいいところ、カッコいいポイントがあるんだけれど、個人的にはアメリカンのバイクが好きです。

 

アメリカンのバイクってオヤジくさいっていう方々も多いでしょうが、あれはゴテゴテいろんなもんつけたり、高級路線だったりして金持ちオヤジのステータスシンボルみたいに思われるからなんでしょうが、それもしょうがないでしょう。けれど、クルーザーってネイキッドとかスポーツタイプのバイクよりも簡単に乗れるし、安定がいいから疲れないし結構いいもんですよ。そして、限りなく贅肉をそぎ落としたアメリカンのバイクや、使い込まれたアメリカンのバイクはカッコいいですよ。バイクの魅力の一つの完成形でしょう。

3連休が終わって、振り返ってみると随分寝たなということしか思いだせないんだけれど、バイクにも乗れたしそこそこいい3連休でした。それで今日は久しぶりの仕事です。仕事に行く先があるということは喜ばしいことで、試用期間中とは言えども、仕事があって良かった。

 

それでも、今日は何となくなかなかスイッチが入らないで、どんよりした気持ちで昼過ぎまでを過ごしました。そういう時もあるのが人生です。それでも、近頃は何と言うか充実している方です。毎日新しいことの始まりの途中に居ます。いつまでもこんな調子じゃ困るんだけれど、なんとか早く一人前になりたいです。

 

それで、今日はわりと早く仕事が終わり、銀座の街を歩いてショーウィンドウをのぞいたりして帰りましたが、ダンヒル銀座本店の前で立ち止ってしまいました。

 

なんて美しいバイクなんだろう。バイクは人類が発明した乗り物のうち最も美しい形で完成された造形であることと、バイクの持つ未知なる可能性を感じさせる美しいノートンがそこにはおかれてました。

 

一台のノートンを展示するのにこれ以上優れたギャラリー、ショールームは無いかもしれません。ダンヒルってもともと自動車とかバイクとかの用品を作ってたブランドだけあって、バイクに対するセンスも光ってますね。

 

ダンヒルだからって英国車じゃなければならないとか、そんなことは無いのでしょう。例えばそれがホンダのレーシングマシーンでも美しく見えるのでしょうけれど、ノートンという一つの造形美のあり方を憧れの眼差しで見るショーウィンドーとしてダンヒルという舞台装置は最適であると感じました。

 

銀座がファッションだけに留まらず、文化、価値観の発信地であり続けるためにも銀座のショーウィンドーは常に憧れを内包する義務があるのだと感じました。

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2011年

9月

22日

ついてない時はとことんついてない。前職の先輩にカモられる。

最近、昔の片想いの娘が結婚したり、長らく付き合っていた女友達と音信不通になったりして、ヒトとの付き合い方、接し方で今まで自分がいかにできていなかったかを思い知らされました。

 

いや、まあ、片想いの娘が結婚するのは不可抗力で、まあいつかは来てしまうことでしたが、このように心が弱っているときに来てしまったので、ショックも大きかったです。でも、不思議と悲しい気持ちにはならないので、まあ私もあの片想いに知らぬ間に終止符をうっていたのだと思いました。それも悲しい話だけど。

 

それに追い討ちをかけるように、今日も友達だと想っていた人を失いました。

前の職場の人と今日飲みに行きましょうという話になって、小伝馬町まで行ったのですが、小伝馬町についていくら待っても連絡がこない。一緒に飲んでる他の人に、僕が来てもいいか聞いてみますって言う連絡があったので、小伝馬町まで行ったのに。

 

まあ、おそらく一緒に飲んでた人たちが嫌がったのだろうけれど、連絡くらいしてくれてもいいじゃない。僕は雨の中独り待っていたんだから。

 

それで、一時間弱待っていたけれど、結局連絡が無いので秋葉原のタワーレコードでCDを見てました。とっても空しかったです。

 

その人は、今僕の周りに居るほぼ唯一の飲み友達だったので、ショックでした。僕ってあんまり大切にされてないのです。

 

失意のどん底で三ノ輪の駅に着いたら、お腹が痛いと言いながら嫁さんが待っていてくれました。

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2011年

9月

20日

完全なる敗北。失恋の終着駅の先に在るもの

終着駅の先に在るもの。そんなもんは在りません。

 

10年の月日を経て失恋の終着駅にたどり着いたあたし。去年だったか一昨年だったかに、私の仲良くさせて頂いている大学の後輩の昔の彼女が結婚しました。そのときその後輩も結婚式に参列したらしいのですが、どんな心持ちだったのでしょうかね。私も、おもしろがって「昔の女のことは忘れろ」とか言っていたけど、申し訳ないことしたな。ひとの気も知らないで。

 

好きだった女の子が結婚するって、9回表でだめ押しの満塁ホームランを打たれるような敗北感と言えば良いのでしょうか、そんな気持ちにさせられます。いや、私は野球のこと何も知りませんから、それがどんな気持ちなのかわかりませんが、もう古い片想いのことは忘れたいです。

今日はハーモニーのギターにピックガードをつけた。

自作のピックガードは不格好ながら、それなりの形で落ち着いた。

 

毎日が忙しく過ぎて行く中で、私たちはもがき苦しんで、それぞれの生活をおくって行くのだけれど、その生活というものは随分陰気で、憂鬱なものだ。

 

それで、まあ、今夜も過ぎて行くのですが、何と言えば良いのか、とても陰鬱な人生です。

 

思えば、今月はねえさんに嫌われて連絡が取れなくなったことに始まり、ピンキーから結婚披露パーティーのお誘いといい、まったく女性にまつわる話でいい話はありません。駄目な時は、駄目なもんです。何をやっても駄目。

 

だから、ブログも今夜はこれ以上書きません。

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2011年

9月

13日

どんな感情を、どう扱えば良いのか、未だにわかりません。いい大人なのに

昨日二日酔いで憂鬱だったのを引きずって今夜もまだ憂鬱です。憂鬱になるのはかってなんだけれど、何でもものぐさになってしまい、身体もあまり動いてくれません。スローで、ボーッとしていて。

 

それで、今日はなんの話しましょう。

 

お酒を飲んで、飲み過ぎてしまったせいでねえさんと過ごした甘美な時間を全く覚えていない話はしてしまいましたけれど、それでは何か他のオルタナティブは在ったのかと考えても、どうも何も思いつかないのです。

 

ねえさんの言うように、何も失うものが無い既婚者は自分の配偶者以外に恋愛感情をもつのは良くないことなのでしょう。確かにそんなこと言われた気がします。

「そんなこと言ったってあんた、家帰ったら奥さんが待ってるんでしょ」って言われたら、何も反論できません。確かに、私は幸せで満ち足りた結婚生活を送っています。手前味噌ですが嫁さんもそこそこかわいらしい人で、普通に考えたらこれ以上無いくらい幸せな男でしょう。それは認めます。

 

でも、人を好きになる心までは責めないで欲しい。いや、責められてもいいけれど、それに対して何も責任が取れないことは情けないけれど、じゃあ俺は人間辞めるしかないのかな。

 

こんな話してもしょうがない。もっと明るい話しましょう。

 

最近シャーデーのPlease send me someone to loveを聴きました。西洋って愛におおらかでいいですね。僕は、私の住むこの世界の愛の狭さが嫌です。シャーデーみたいに、素直にPlease send meってなもんでやって行けたらなんて素晴らしいだろう。

 

人を好きになったら、その人を幸せにしなければいけないって言う責任みたいのが発生するとしたら、私は誰のことも好きになれない。私は誰も幸せにできると言い切れる程の自信は無い。二人で幸せに時間を過ごせるように努力はするけれど、いつでも調子が良いわけじゃないし、いつでもニコニコしてられるわけじゃないし、どんな困難にも打ち勝てる自信なんて無い。

 

それでも、私は人を好きになってしまう。友達同士の関係だけでは物足りなくなってしまう。その物足りなさを埋め合わせようと頑張ってしまう。なんの責任感もなく。

 

そういう、情けない僕で良かったら、誰か付き合って下さい。可愛い子にしか興味は在りません。Please send me someone to love.

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2011年

9月

12日

映画を見た。せつなかった

憂鬱だ。

 

失恋。とか、記憶喪失とかで、もう心がくたくたに、ボロボロになってしまった。

 

週末に映画を見た。ウディ・アレンの人生万歳だったかしら、そんな映画を見た。ハッピーエンディングのはずが、とてもせつなく悲しい物語だった。それは、私の失恋を予感させていたのかもしれないけれど、世の中って川端康成の小説みたいにそういう風にモノゴトが関連づけられているのか。

今朝6時頃、二日酔いでフラフラになりながら寝床からお手洗いにたった。嫁さんの寝顔を見て、なんてかわいいんだと想った。こんな風に感じたのは本当に久しぶりだった。と、書くと嫁さんにわるいか。いつもかわいいよ。

 

それでも、あの映画が僕の心に落とした影は拭いきれないまま朝を迎えた。

 

失恋した次の日の朝って言うのは、なんでこんなに天気がいいのだろう。やっぱり川端康成的な結びつきがあるのかもしれない。

 

また、あたらしい恋を探さなくてはな。

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2011年

8月

17日

トウキビの里、北海道。

いつも、つまらないお話にお付き合い頂きましてありがとうございます。皆様の一日を少しでも豊かにできるような記事を書けると良いのですが、なかなか毎日高いクオリティーでお話を提供することは難しいですね。ついつい毎晩、にたような話の繰り返しとなってしまってます。

 

私は地元が北海道で、前にも話したかもしれませんが、盆休みに実家へ帰ってきました。

 

帰りの空港で、お土産やとかシュタイフのぬいぐるみ屋さんとかを慌ただしく見てきたのですが、千歳空港は凄いね。なんだかショッピングセンターと博覧会を混ぜ合わせて、それを肥大化させたかのような空間です。

千歳空港を利用するヒトの多くは、ビジネスでの利用だと思うんだけれど、そういう忙しい人にも、是非ちょっと見て行って欲しいくらいいろんなものがあるね。

 

出張帰りに、飛行機の出発が遅れちゃって、空港で時間をつぶさなくなったりしたときには、是非空港を探検してみて下さい。いろんなもんあるから。学生さんとか、時間を持て余しちゃってるヒト、空港に泊まらんキャ行けなくなっちゃったヒト、是非ごゆっくり空港をお楽しみください。あんなに暇つぶしする場所が多い空港も珍しいから。

 

あたしは今回あんまりゆっくり見る時間はなかったけれど、何となくその空気だけは感じてきました。ありゃ、飛行機に関係ないヒトでも空港に来ちゃっている可能性あるね。

 

それで、今日の本題なんだけれど、空港でこれ売ってました。トウキビのピュアホワイトっていう品種なんだけど、生でも食べれちゃうんだよねこれ。札幌のスーパーなんか行くと1っぽん150円くらいで売られてるんだけれど、見かけたら買ってみて。

 

東京じゃ売っているとこあんまり見たことないけれど、アンテナショップとか行けばあるかな。千歳空港では一本250円で売ってました。そんなに悪くない値段。

 

それで、今日早速食べてみました。半分は生で、半分はゆでて。

 

生で食べると、なんだか野菜なのか果物なのかわからないその中間の感じ。トウキビ生で食べたらまあ、こんな味するのかね、って言う感じだけれど、甘くて結構美味しい。沢山食べるとお腹こわしそうな瑞々しさ。これなら、おやつにちょうど良いかもね。

 

ゆでて食べたら、甘さがひきたって、モチモチした食感になりこれまたウマい。トウモロコシ、って言ったらピーターコーンだろって思っている方、確かに私らの年代で故郷の味、おふくろの味って言ったらピーターコーンだよね。だけど、こういう新種がトウモロコシ畑から登場するってこと自体嬉しいことじゃない。トウキビの新天地。オードブルになんてちょうど良いねこういうの。私も、初めて食べたのはレストランの前菜だったもんね。

 

ピュアホワイトってなんだか押付けがましい名前かもしれないけれど、確かに白いもんね。パールホワイトって言えば良いのかね、なんだかモヤシみたいな白さだよ。

 

これ、一人暮らしのヒトも洗ったらすぐ食べられるから、家に一二本買い置きしといても良いね。

 

明日とかは、元気があったら新しいギターを見せてあげます。

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2011年

8月

12日

お盆休みをもらった。帰省します。

ついこの前入社したばかりだけれど、早速お盆休みをもらいました。先日まで、社長の出張が来週に控えていて、それの準備が必要だからお盆休み返上かと思っておりましたが、はれてお盆休みを取ることができました。これも、ひとえに皆様のお陰です。

 

その一方で、私は入社してからもうそろそろ一ヶ月が経とうとしているのですが、全然仕事を覚えていない。これはまずいです。このままだと仕事できないヒトってことになって、使用期間満了をもって不採用になってしまうかもしれない。現に、今日一人不採用になったヒトいたから。

全く恐ろしい世の中です。やっと夢の会社で働けるかと思ったら、ふとしたことで不採用になるかも。オークワバラクワバラ、桑原甲子雄。

 

それで、まあ、せっかくもらったお盆休みなので、明日から四日ばかし北海道の実家に帰ります。実家に帰るって言ったってたった4日間のお休みを丸まる実家に帰るんだから、慌ただしいです。これから帰省の準備しなくてはいけません。フィルム何本か巻いてって、札幌でも撮影してこよう。カメラはライカを持って行きたかったけれど、この前ライカだったら全然とれなかったから、どうしようかな。またニコンにしようかな。故郷をズミクロンで撮るって言うのもちょっと乙なもんかもしれませんね。

 

今までライカは持って帰ったこと無いし。この辺で使ってみますか、ライカにズミクロン50ミリ。

 

そもそも写真というのは50ミリレンズが基本だから、良い練習になるかもね。それにライカはコンパクトで持ち運びやすいし。でも、撮りやすさを優先してニコンでも良いかな?迷うところです。

 

しばらくバイクにも乗れてないし、ゆっくりバイクのってどっか行ったりもしたいんだけれど、今回のお休みは無理ですね。

 

あー、ギターは欲しいし、バイクには乗りたいし、仕事はしっかりガンバラニャならんし俺は忙しいよ。

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2011年

8月

08日

初めて会社に自己満足のスーツ着ていった記念日。Martin Sons & Co.,

あたしは、新卒で入社した会社の新入社員研修で、服装についての訓示があり、そこで、「社会人というのは、周りの人が不快でないような服装をするべきであり、自己満足の服装ではいけない」と言われて、それから5年ちょっとの間、今日までその教えを守ってきました。社会人たるもの、ヒトの目を気にして、ヒトが不快ではない、地味で、質素で、あんまり尖ってない、かっこ良過ぎない背広を着るべきだと思って今日まで過ごしてきました。

 

その認識は今でもそんなに変ってはいないのですが、今日初めてその殻を割りました。初めて自己満足で、「これ着て会社に行きたい」っていう服を着ていきました。

今までも、決して格好悪いスーツ着ていたつもりは無いんだけれども、背広からできるだけお洒落の要素を取り除いた、「背広原理主義」みたいな思想に基づいた背広を着て会社に通っておりました。

 

背広はだいたい国分寺の「吉田スーツ」というお店で作っているのですが、吉田スーツで作るとお洒落になりすぎるので、仕事に行く背広の殆どは吉田スーツではない既製服の中でも控えめなデザインのものを選んで揃えておりました。吉田スーツで作る場合も紺無地のスリーピースとか、男心をくすぐられながらも、それほど目立ち過ぎない服を仕立てておりました。

 

そんな感じで、今まで会社へ着ていく服は、守りに次ぐ守りを貫き通して、シャツもいつも白無地のモノを着ておりました。その基本スタンスは今でも変らないのですが、先週末見つけてしまった。

 

マーチンソンのフレスコで仕立てられたダブルのスーツ。

 

ダンディズムを形から入る小心者の男にとってはたまらないアイテム。今までのスーツ人生で一番カッコいい買い物です。それもただのダブルじゃありませんよ。ラペルちょっと太めの、ブリトラの香りを残したディテール。背広なんてどれもそんなに変らないのですが、こういう背広着れるんだったらサラリーマン冥利に尽きるね。

 

お値段は、バーゲンでも結構良い値段しましたけれど、買ってしまいました。

 

私が18歳位のときに親戚から背広のお下がりもらったんだけれど、その中に英国の生地で仕立てられたダブルの背広があったのですが、お尻のサイズが合わなくて着れなかったのです。その背広を惜しむ気持ちもこれですっきり解決致しました。

 

開高健がなんかの雑誌で、背広の基本は紺無地のスリーピースみたいなことをおっしゃってて、まあ、こんな方もそういうどうでも良いようなこと拘るのねって思っておりましたが、私もヒトのこと言えないです。

 

ジェントルマンは小心者なのですよ。自分がダンディーに見える為には、細かいこと気にする。靴はピカピカに磨かれてないといけないし、シャツはぱりっとしてないといけない。でも、今日まで会社に行くのに格好のことなんて全然気にしてなかった。そのせいもあって月曜から金曜の背広を着て会社に通っている自分は仮の姿で、本当の姿は週末の自分である。と考えていた。

 

でも、今日吹っ切れたのです。

月曜から金曜まで会社で働いてる自分も、本当の自分で良いじゃないか。そのことを受け入れる為に、試しに着たい服着て、会社に行ってみたのです。そしたら普段となんも変らない。

 

なーんだ、これで良かったんだ。

 

って思いました。

 

これからも、マーチンソンの背広を大事に着て、着る度にこのことを思いだして、気持ちを新たにしようと思います。

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2011年

7月

30日

『父が消えた』について知っていること。

最近あんまり本は読んでいないのですが、本について考えることがよくあります。それは、本を読みたいという欲求と、本を読むと時間がかかってしまうということへの葛藤から来るのかもしれません。

 

最近読んだ本では林芙美子の詩集が良かったと思います。瑞々しさと力強さを兼ね備えた生々しい詩の数々に新鮮さを感じました。でも、それ以外は写真集を何冊か見ただけで、殆ど本は読んでません。あ、前の会社で買ってもらったドラッカーの本はなかなか面白かったけど。

 

それで、今日も本についてです。

高木護と尾辻克彦につては、いつか書かなければいけないと思っておりましたが、今日は尾辻克彦についてです。

 

先日、アゴタ・クリストフは『悪童日記』しか読んだことが無いと書きましたが、嘘でした。3部作全部読んでいました。アゴタ・クリストフの3部作のあまりにも完成度が高くて、3つの別々の小説だと言うことがあんまり呑み込めなかったのかもしれません。3部作のそれぞれが、それぞれの作った世界観を裏切り、新しいものを提示してきているのに、結局は一つの世界観を提示している希有な小説です。まあ、しばらく読んでいないので結構忘れてしまっておりましたが。

 

それで、尾辻克彦の『父が消えた』。おそらく私が知っている小説で、最も美しく、喪失というものの本質を見せてくれた小説です。わたしは、この本に出会うまでは、川端康成の『ざくろ』が世界一好きな小説だったのですが、『父が消えた』を読んでランキングが変動しました。

 

尾辻克彦は、まあ赤瀬川原平という名前の方がファミリアーかもしれませんが、とってもマルチな人なんだけれど、私は、彼の美術作品よりも小説の方が好きです。ライカ同盟とかトマソンとかで、面白い写真も写していますが、やっぱり小説です。赤瀬川原平の描写力の力強さときめ細かさが同居して、且つ技巧的ではない、どちらかというと不器用にも思える文体がとても良い。それでいて、小説とは象徴をつなげて構成されるものであるというクラシカルな方法論が、一つの完成されたものとして提示されている。

 

とっても抽象的でわかりづらい表現になりましたが、例えばこういうことです。尾辻克彦の文章は、感情や愛情の質感が上手く表現されている。それが、ちょっと悲しい形で完成されている。こういうとなんだか安っぽいお涙頂戴系のようなとられ方をされてしまいそうですが、まあ、それと全く違うわけでもない微妙なところで落ち着いている。だから好きなのかもしれません。

 

尾辻克彦は、小説じゃなくてもエッセイでも面白い。やっぱりマルチな人なんですが、赤瀬川原平の美術作品の持つ政治色がなんか小説やエッセイが世の中に広まることを邪魔しているようでもったいないです。いろんな言動で赤瀬川原平にへんな先入観を持たれている方は、赤瀬川原平とは全く別人の尾辻克彦の小説として『父が消えた』を読んでみることをお勧めします。

 

僕も時間があったら読み直してみるので、読まれた方感想を教えて下さい。

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2011年

7月

28日

『悪童日記』読んだの随分前だから。アゴタ・クリストフを偲んで

今日、妻から聞いたんですが、アゴタ・クリストフさん亡くなられたみたいです。Agota Kristofさんって、なんだか凄い人らしいです。ハンガリーからアルプス越えでスイスに亡命したらしいんですけれど、そのとき乳飲み子を連れての亡命で、フランス語なんて全然しゃべれなかったらしいです。その彼女が、フランス語を用いて書き上げた小説は、なんだかとってもリアルで、気味が悪くて、残酷で、かつファンタジーの要素もあり、現代を代表する作家であると思います。

 

とは言ったものの、実は私彼女の小説『悪童日記』しか読んだこと無いので、何とも言えないのですが。読み始めたら、もう止まらなくなって、徹夜で読み切ったことを覚えています。それほど、彼女の文体は即物的で、かつどんどん読ませる不思議な力を持っているのです。

殆ど彼女の小説を読んだこと無い私が言うのもなんですが、『悪童日記』は現代社会の絶望的なところと、そのような絶望的な社会でのかすかなファンタジーを描ききったとてつもない小説だったと思います。読んでから何年も経つので、おぼろげな記憶でしか語れませんが。

 

もし、まだ読んだこと無い方は、5時間まとまった時間を確保して、『悪童日記』読んでみて下さい(本読むのが遅い私で、大体5時間くらいかかりました)。私も、時間を見つけて、今週末でも再度読んでみます。可能であれば、3部作の残りの2作品も読んでみたいです。

 

言葉を自由自在に操れることと、芸術的な文章を書くことは大きく異なるということは、薄々わかって入るのですが、アゴタ・クリストフのように母国語ではない言語で確立した文体を持つことは、かなり難しいのではないでしょうか。

 

普段、つまんないバイク雑誌と、写真集くらいしか読まない私が言うのもなんですが、私たちはまた、一人の優れた作家を失ってしまったようです。悲しいことです。

 

今日、アマゾンから丸田祥三の『棄景Ⅱ』と『棄景Ⅳ』が届きましたので、それについて書こうかと思ったのですが、妻からアゴタ・クリストフのことを聞いて、ちょっとこういう話になりました。これから『棄景2』でもじっくり見て、感傷に浸ろうと思います。

 

最近なんだかこの世の空しさについて思うのです。私にはどうにもできないことがたくさんある。例えば、私の好きな女性(妻以外でですよ)が幸せになることは、果たして私にとって良いことなのか、悪いことなのか。きっと悪いことなんだろうと思うのです。ねえさん、ごめんなさい私自分勝手だから。けれども、彼女の不幸を祈るのもなんか違う、私には何もできない。そういう空しさです(このブログ、うちの妻も読んでるんだよな。だから、あんまり細かいことは書きません)。

 

人を想う心はいつも届かない、たとえ求めあっても届かない、と吉田拓郎が言っていました。色即是空、空即是色、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀。

 

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2011年

7月

27日

飛行機のバルサ模型にハマった頃。今入手困難です。

新しい仕事、外資系の会社なんですが、出来が悪いと即刻クビになるみたいで、怖いです。まあ、どっちにしろできることしかできないのだから、精一杯成果を出せるように頑張るのみです。

 

まだ会社の雰囲気にも慣れていなくて、どういうときに誰に聞けば良いのかもよくわかりません。今日は社長とオリエンテーションがあったのですが、その中で、「聞く前に考えるように」との旨アドバイスがありました。今までの会社生活で、ついつい何でも聞いてばかりいたことを悔い改めるようにしないといけませんね。

 

まあ、仕事のことをここで話しても始まらんので、今日は飛行機の模型についてです。

通勤途中に松屋銀座のショーウィンドーがあるのですが、そこのルイ・ヴィトンのウィンドーに複葉機のバルサ模型がたくさん飾ってありました。それを見てとても懐かしく思いました。

 

実は、私は学生の頃飛行機、それもレシプロ機が好きで、沢山模型を作って部屋に飾ってありました。結構投資したのですが、引越の際に全部壊してゴミに捨ててきました(悲しい)。私のことを良く知っている人でも、私が飛行機好きだって言うことを知っている人はあまりいなくて、家に遊びにきた人とかが驚いてました。

 

飛行機の模型って、皆さんが想像するのはプラモデルとか、ダイキャストモデルとかなのかもしれませんが。私はそっちの方には全然興味がありません。私の好きなのは、実際に「飛ばせる」模型です。

 

と言ってピンと来る人はなかなか模型に造詣が深い方です。「模型は飛ばねえだろ」とか「ラジコンのことですか?」とか思うかもしれませんね。私がハマっていたのはラジコンではありません。ラジコンは金がいくらあっても足りないくらいお金がかかります。だから、ラジコンは持ってませんでした。それじゃあ、どんな模型かって言うと、Uコンとフリーフライト機です。

 

「Uコン」と言ってご存知の方は、飛行機模型マニアもしくは、かつてUコン飛行機で遊んだことのある方です。Uコンとは模型飛行機につけたワイヤーを操って飛ばす飛行機の模型です。ラジコンとかが普及する前はみんなUコンで遊んだらしいです。実は、私もUコンに憧れて持ってはいたのですが、飛ばせる場所がなくて、ついに一度も飛ばさないままゴミになってしまいました。

 

それと、もう一つハマっていたのがゴム動力のフリーフライト機です。ゴムの力でプロペラをまわして飛ばす紙飛行機みたいなもんです。これがまた奥深い世界なんですよ。良く飛ぶフリーフライト機は1分位なら楽々飛ばせます。しかも、バルサ模型のフリーフライト機は、模型としても飾って楽しめる程本物の飛行機そっくりの作りです。機体の構造も羽の構造も、往年のレシプロ機そのものです。

 

学生の頃はパイパー・カブとか、チップマンクとか、コルセアとか、スピットファイアのフリーフライト機を作ってましたが、外で飛ばしたことは殆どありません。その頃ちょうど良い飛ばせる場所がなかったからです。今はもっと場所がないのですが、いつかまた作って飛ばしてみたいと思います。

 

バルサ模型の良いところは、壊れてもなおせることです。元が木でできているので、折れたところは接着するなり、添え木をするなりしてなおせます。それと、先程も書いた通り本物そっくりの骨組みで飛行機を組み立てられる面白さです。こればっかりはプラモデルやFRPのモデルでは再現できません。バルサで骨組みを作ってそれに紙を貼付けて作る模型は、骨組みができた段階でため息が出る程素敵です。しかも、その模型が実際に飛ぶのですからたまらない。

 

今まで飛行機の模型に全然興味がない方も、一度見てみて下さい。銀座松屋のショーウィンドーもしくは下記のURLを、きっと一台作ってみたくなるはずです(そうでもないか)。

 

http://www.guillow.com/modelkits.aspx

 

上記のGuillowsの模型キットはつい最近まで2,000円位で模型屋に売っていたのですが、最近見かけなくなってしまいました。もし誰か売っているところをご存知な方が居られましたら、教えて頂きたいです。

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2011年

7月

25日

チエーホフをつまみ食い。

明日から新しい仕事が始まる。なんだかちょっと緊張しています。初めての外資系の会社だし、上司はどんな人かも知らないし。それに、今の自分に何ができるのかもよくわかりません(仕事の内容もわかったようなわからないような)。それでまあ、今日は前日だというので医者に行き、定期券を買い、明日着ていく服をどうしようか考え(どうでも良いことなのですが)。昼寝をしたりもしましたが。

 

そんなかんじで、最後の休日を過ごしました。

 

仕事に向けて、マーケティングとかの本を読んでおこうかと思ったのですが、結局何も読まずじまいでここまで来ました。どんな本読めば良いかは明日、仕事に行ってから考えることとして、今日は小説です。

あたしは読書家って言う程本は読まないのだけれども、まあ人並みかそれ位本は読む方です。とは言っても、あんまりためになる本は読まないで、小説とか音楽についての資料とかそのくらいしか読みません。それも、大きなハードカバーの本は持ち歩くのが大変なので、大体は文庫本です。

 

小説とかも、初めから文庫本の中からしか探しません。だから新作とかは殆ど読みません。ほぼ100%文庫本。文庫本はある程度売れた本ばかりなので、はずれが少ないです。廉価版で発売されているCDとかと同じで、駄作の含有率がハードカバーに比べグッと少なく、安価で、手軽に読めます。だから、最近の作家の作品をあんまり読めないという欠点はありますが。

 

最近のお気に入りは河出文庫から出ている、翻訳物で、読みやすい文体とお手軽にいろんなジャンルの海外文学に触れることができてなかなか良いです。とは言ってもちょっと偏ってて、まあその偏り方に好き嫌いが出るのでしょうけれど、イタロ・カルビーノが結構沢山文庫化されていてあたしは好きです。

 

イタロ・カルビーノは器用な作家で、時代物(フィクションですが)、SF、ハードボイルドものとかを自在にパロディーにできてしまう素晴らしい作家だということも、河出文庫のおかげで知りました。ありがとうございます。

 

それで、昨日はまた一冊河出文庫を買いました。

 

まだ全部は読んでおりませんが、チエーホフの短編集です。あたしは、露文って全然今まで興味がなくて、ドスとエフスキーとかトルストイ、殆ど読んだことありません。露文てなんかうちの父親世代がせっせと読んでいたそうなので、面白いのでしょうが長くてややこしそうで今まで読まずに来ました。

 

ただ、露文には数々の名作もありますし、ゴーゴリの外套とか、なかなか考えさせられる名作もあるので、いつかは読みたいと思っているのですが時間と度胸がなくて手を付けてません。

 

そこに来てチエーホフ。オォ、こんなに手軽にチエーホフ読めるんだ。と思いそれだけで買いました(チェーホフが短編作家とは知りませんでした)。私、ホント露文に疎くてチエーホフは一作も読んだこと無かったのですが、読んでみると訳の妙もあるのですが、どんどん読める。運動の後のスポーツドリンクみたいにするするサラサラ読みすすめられます。

 

滑稽で、ちょっと皮肉ぽっくて、うっすら反体制なことをにおわせる小説ばかりで、そういうところが面白くて読む人もいるのでしょうけれど、私はどちらかというと、彼の(チエーホフって男ですよね?)人間の描写がとても人間らしくてそれが面白いと思いました。

 

人間描写では私はサマセットモームとかの愚かしい人間描写が結構好きで、モームの小説に出てくる愚かしい人物はつくづくうちの両親に通じるところがあると思っているのですが、チェーホフはもっと素直です。チェーホフの小説に出てくる人物は、素直にその人物であり、特別愚かしいところがあったり、突出した才能があったりはしなくて、良いです。人間の持てる内的世界って複雑なようでいて実はあんまり複雑ではなく、自分の知る限りの限られた世界の中で収束するって言うことを感じてしまいます。

 

今みたいに、グーグルで何でも調べられて、フェイスブックでいろんなお友達持てるようになっても、やっぱり友達付き合いするのは限られたお友達だけでしょう。チェーホフの時代と大した変らんのですよ。だから、まあ今読んでも笑えたり、にやりとさせられるのですが。

 

とは言っても、まあチェーホフも昔の人だから、携帯電話で何でもできてしまう現代人が読むと、なんか不安を感じちゃう。これはチェーホフだけでなく、どんな作家もそうなんだけれど、携帯電話を常に携帯していつでもどこでも誰にでもアクセスできる今の時代の私たちが、そういうのが無い時代のお話を、そういうのが無いことにして読むって言うのは、なんだかちょっとした思い上がりのような気がする。

 

それだけ、人間の姿って言うのは人間が作り出したものによって変ってきているのだとは思うけれど、その度合いが分からないで、小説すら素直に読めない。だって、チェーホフの登場人物も未開人も同じ次元で想像ずるわけにはいかないだろうに、そういうの無いことにして小説とか読むじゃないですか。それってなんか不自然よね、ってチェーホフを読みながら感じました。

 

全部読み終わったら、またチェーホフについて書くかもしれません。

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2011年

7月

24日

男のダンディズムにおける一大事、紺ブレをビスポークで。

昨日は山崎まさよしとか聴いてしっとりとした気分になってしまっておりましたが、いつまでもそんな気分でいてはいけない。男たるもの(女もそうだけど)今日と明日からの生活がある。何より、週が明けたら仕事始めだ。

 

それで、仕事に少しでもいい気分で行けるように、仕事に行く服を買いに行きました。スラックスはグレーでワンタックの落ち着いたやつ、とにかくこれは必需品です。そして、青のストライプの入ったクレリックのシャツ、こちらも購入致しました。これだけあれば、ジャケパンスタイルを制覇したようなもんですが、肝心のジャケットが無い。いや、無いわけじゃないんだけれど、仕事っぽい、真面目っぽい、あんまりやんちゃじゃないジャケットなんて持っていない。

 

それで、一着作ってきました。

それも、濃紺のブレザーを一着。

 

紺のブレザーを新調するって、男にとっては人生の一大事、登山家にとってのK2、アイガー、チョモランマ全制覇みたいな一大事です。まあ、アイビーに興味ない御仁にとってはどうでもいいことかもしれませんが。紺ブレっていうのには男のダンディズムが繁栄されます。まさに、洋服遍歴の履歴書みたいな一着なのです。

 

それで、向かったところは国分寺の名店「吉田スーツ」。学生の頃からお世話になっているスーツ屋さんです。学生の頃は親の金で服買ってましたから、少々高くても痛くも痒くもなかったのですが、貧乏サラリーマンになってからは、スーツを一着作るのも結構財布に響きます。そんな中で、「吉田スーツ」は間違えのない一着を確実に作ってくれる店です。

 

吉田スーツURL: http://www.yoshida-suit.com/yoshida.htm

 

前回も紺無地のスリーピースのスーツを作ったのですが、なかなかカッコいいのを作ってくれました。そういえば、吉田スーツでは紺の背広ばっかり作っていますが、それも、上質で着やすい生地のストックが多いからこそです。

 

今日は店に入って開口一番「紺のブレザー作りにきました」って言ったら、社長が神妙な顔をして相談にのってくれました。なかなか親身になって(あたりまえか)僕の紺ブレのディテールを決めてくれました。普段は絶対サイドベンツなのに、今回はセンターフックで作ってみました。

 

それで、どんなの作ったかっていうのをダラダラ書いてもいいのでしょうけれど、皆さんそんなこと聞いても退屈でしょうから省略します。もし、気になったら、吉田スーツに行って一着作ってみることをお勧めします。

 

それで、帰り道にお茶の水経由で銀座に出て、昨日買ったグレーのスラックスを受け取りに行きました。このグレーのスラックスも、店のおばちゃんの口車に乗せられてついついそれにしちゃったのですが、大満足の一着です。これで、仕事に励める(服なんてどうでもいいんだけれど)。

 

銀座、と言えば今日ニコンサロン見に行きました。そしたらザビーネ・シュリュンダーさんの写真展をやってました。私この写真家は初めて見たのですが、とっても気に入りました。写真が素朴で素直でいい。

 

典型的なドイツ写真(ベッヒャーシューレではないのかもしれませんが)なのですが、そんなこと写真作品の前ではどうでもいいこと。ようは写真がどうであるかが問題なのですが、シュリュンダーさんの写真はとてもすんなり目に入ってくる。それでいて、隅々まで視神経が行き渡っていて余計なノイズが無い。もっとクセのある写真の方が良いって思う方もいるでしょう。たしかにそういう写真じゃありません。被写体への愛を感じるとか、恨みを感じるとか、そういう写真じゃない。だから写真集とかになっていると面白くないかもしれない。でも展示は凄く良かった。

 

最近、旅行で心を一気に解放して、その勢いで心がもろくデリケートになっているところだったので、こういう薄味の写真に安心感をおぼえたのかもしれません。いつもの私みたいに、粗野な気分で見たらよくわからなかったかも。

 

こういう写真展ニコンサロンでもやってるんだなって思いました。八月二日まで銀座ニコンサロンでやっているので、気になった方は見に行ってきて、良かったら感想聞かせて下さい。

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